『悪夢』










草原の彼方に山のように聳える大樹。
距離感を失うほどの大きさのそれを視界に収めながらの行軍も三日目となり、あと一日か二日でミラの大樹に到着するだろう、その夜半。

先程ようやく軍議を終えて、自らの天幕の寝台で眠りについたルフレは恐怖とともに目を覚ました。
全身をじっとりと濡らす不快な汗。 底の見えない深い、深い絶望。抗いようもなく、むしろ望んでそこに堕ちてゆく―― どこか心地よささえ感じられたその感覚が、目覚めた今はより恐怖を煽った。
ゆっくりと、身体の所在を確かめるようにしながら寝台から身を起こす。
いつのまにか詰めていた息を吐き出した。そのままゆるゆると呼吸を繰り返す。
額に貼り付く前髪を弱々しくかきあげた。
もう一度横になる気は起きなかった。
愛用のブーツを手探りで見つけて履く。外套をまとうと天幕の外へ出た。
草原を渡る夜風が頬をくすぐる。 満天の星空を背景に黒く聳える大樹。 目の前に広がる景色の美しさに、悪夢の名残がやわらいだ。



陣内を一回りしたら天幕に戻ろう、そう考えて歩いていたルフレは声をかけられて振り向いた。
「バジーリオ様、それに…グレゴ？こんな時間に一体…」
「見りゃあ分かるだろう」
「ええと、酒盛り、でしょうか」
二人の手にはそれぞれの秘蔵の酒瓶。
「違う。ここ最近、眠れねえ様子の軍師さまに寝酒を勧めに来たんだよ」
「…ふたり仲良く、ですか？」
「いや。偶々そこで会った」
「せっかくだから一緒に来たってわけだ」
無言で回れ右しようとしたルフレの両脇を、バジーリオとグレゴが固めた。
「ちょっ、あの、間に合ってますから！」
「騒ぐな。みんな起きちまうぞ」
「まぁ、おじさんたちにちーっと付き合えや」
それ以上の反論は許されずに、ルフレは二人に連行されていった。



クロムは目の前の惨状に一瞬言葉を失った。
「バジーリオ、グレゴ……どういうつもりだ？」
天幕が建ち並ぶ陣から少し外れた場所。草原の中にある岩場を椅子と机の代わりにして、置かれた酒瓶とグラス――瓶の中身は殆ど空けられているようだ――が置かれていた。 そしてその前に、とろんとした目をした真っ赤な顔のルフレが居た。
「いつものルフレならこのぐらいの酒なんともない筈なんだがなぁ」
「まあ、寝不足の原因を吐かせるためにちっと飲ませ過ぎたかね」
結局口を割らなかったがね、とグレゴが続けた。 ルフレに飲ませた以上の酒を口にしている二人だが、顔色にも言動にも全く変化は見られなかった。
「で、お前はどうしてこんな時間に外をほっき歩いてるんだ、クロム」
「見張り役の兵がわざわざ報せに来た。ルフレがお前たちふたりに連行されてどこかへ行ったきり帰ってこんと」
ルフレが二人に引きずられるようにして連行されていくのを見かけた兵士が、散々悩んだあげくにやはり間違いがあってはと、クロムに報せに行ったのだった。 報せを受けたクロムが陣内をあちこち探したあげく、見つけてみればこれである。
「あ〜…まあ、そういう解釈もあるわな」
「ちーっと一兵卒には刺激が強かったかね」
「……おまえらひとの妻をなんだと思ってる……まあ、良い。連れていくぞ」
そう言ってクロムはルフレを立たせようと、その腕に手を伸ばした。
途端にルフレがびくりと身体を震わせてクロムの手をぱんと払った。 予想外の反応にクロムが絶句する。
彼を見つめるルフレの瞳に怯えの色が見てとれた。
嫌、と、震える唇がそう言葉を形作った。
「なんだ、寝不足の原因は夫婦喧嘩か？」
「嫁さんに嫌われてるみたいだぜ、クロム」
にやにやと笑いながら二人が言う。
「余計なお世話だ――おい、ルフレ、戻るぞ」
心当たりのないクロムが訝しそうに再びルフレに手を伸ばす。
ルフレがじりじりと後ずさった。
「来ないで…」
「ルフレ？」
その拒否反応の激しさに、バジーリオとグレゴもさすがに訝しく思う。
そんな様子にも構う余裕のないルフレがふるふると首を振りながら言葉を続ける。
「あたしの傍に居たら――あたし、クロムを、殺してしまう…」
その大きな瞳に涙を浮かべて、震える唇が苦しげに言う。
酔って言動が怪しくなっているというよりも、本心が出てきてしまったというところだろう。真剣な響きの声だった。
「殺してしまうの。何度も夢に見たの――だからクロムはあたしの傍に居てはだめ。お願いだから、こっちに、来ないで…」
じりじりと下がり続けるルフレとの距離をクロムが一息で詰めた。
ルフレの両頬を包み込むようにして、彼女の顔を上向かせる。
幾粒も涙が零れ落ちた。
「ルフレおまえ――」
問いただすために言葉を続けようとしたクロムの目の前で、緊張の糸の切れたルフレがことんと眠りに落ちた。
不意に力の抜けたルフレの身体をクロムが受け止める。
「…連れて行くぞ」
そう、バジーリオとグレゴに声をかけると、クロムはルフレの身体を抱き上げた。
「おう。中々口を割らねえだろうが、目覚めたらちゃんと問い詰めとけ。俺らが考えてた以上に深刻な悩みみたいだからな」
背後からかけられたバジーリオの声に、クロムは片手を上げることで応えた。



自らの天幕の寝台でルフレは頭痛と供に目覚めた。
残念ながら記憶は全て揃っているようだった。昨晩の醜態と、最悪の失言を思い出して二日酔いばかりではなく痛む頭を抱えた。

――言ってしまった。

酔った人間のたわごとと思ってくれたなら良いが、あの場に居た誰一人、それが本心か戯言かを見抜けないような節穴の目は持ってくれてはいない。
ごまかすのは難しい、が、なんと説明すれば良いのか。ルフレ自身もその正体をつかめないまま繰り返し見る悪夢の話など。
「ルフレ、入るぞ」
びくんとルフレの肩が跳ね上がった。
クロムがルフレの天幕に入ると、青ざめた顔のルフレが寝台から立ち上がったところだった。
しばし、無言で見つめあう。
「今日の行軍は中止した――物資の補給の名目で。だから安心して休め」
「クロム、昨日言ったことは…」
「酔った上での戯言、と言っても信じんぞ」
ルフレはゆるゆると息を吐き出した。話すための決心を固める。
「夢を、見るの。あたしにそっくりの、ギムレー教団の最高司祭に会ってから何度も――どこかの祭壇の前で、ファウダーに操られたあたしがクロムを殺してしまう、ゆめ」
「…それで最近様子がおかしかったのか」
「気づいてたの…」
「気づかん筈がないだろう。おまえのことだ、問い詰めても話さないのは分かっていたからな。いずれ話してくれるのを待つつもりだったが」
思わぬ形で知ることになったのだった。
「もう少し――あたし自身が夢の内容を消化できてから、話すつもりではいたのよ」
気まずそうに目を逸らすルフレをなだめるようにクロムの掌が頭に置かれた。
「おまえは一人で抱え込みすぎだ」
「だって…」
ぽんぽんと気軽にルフレを撫でるクロムのことを困ったようにルフレが見上げた。
「あたし自身どうしたら良いか分からないのに。話したってクロムを困らせるだけだわ」
「困るものか。一人で解決できないなら皆で考えれば良い。そのための仲間だろう」
きっぱりとクロムが言う。ルフレは一瞬ぽかんとして、次いで笑い出した。
本当に、いつもいつも。クロムのその真っ直ぐで力強い言葉にルフレは救われる。
「おい。俺は真剣に言っているんだぞ」
「分かってる。分かってるわ…ありがとう」
ふわりと笑むとそう言った。
「本当に分かっているのか？」
「ええ。皆に話すのはいたずらに不安を招くだけだからどうかと思うけど…何人かには相談して、一緒に解決策を考える」
ルフレのその言葉を聞いて、クロムが息を吐き出した。
「ああ――せっかく夢で見たんだ。それが何かの予兆なら、逆に利用してやれば良い」
「クロムがそう言うと、あたしの悪夢もなにか良いものに思えてくるから不思議だわ」
「おまえ、それは褒めているのか？」
「そ。褒めてるの」
にこりと笑んで背伸びをすると、ルフレはクロムの頬に口づけた。
「ありがと。クロム」
珍しいルフレからの口づけにクロムが思わず赤面する。
「あ！物資の補給、するのよね。足りない魔道書があったからちょっと指示してくるわ！」
こちらも顔を赤くしたルフレが言い訳のように口にすると、クロムの脇をすり抜けて天幕の外へ出て行った。
どうにも誤魔化された気分を抱えながら――とりあえず昨晩の二人、バジーリオとグレゴには報告をしておくか、と考えながらクロムもルフレの天幕を後にした。






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お盆企画の小説。リクではなくて、自分ノルマで書いたもの。テーマは『自警団の酒豪に囲まれる酔っ払いルフレさん』でした。

2012/9/8収納