『雨と虹と』










砂漠に点在する遺跡群のうちのひとつ。巨大な石を組み上げて作られた四角錘形の遺跡の頂上付近にルフレは居た。
まだ遠く、岩砂漠を横断する巨大な渓谷の向こうに布陣するペレジア軍をようやく視界に収め、ルフレは石段を登るのをやめた。
その瞳が、黄金の色を帯びて輝き始める。
距離が近ければ――たとえば壁一枚隔てた程度ならば視界に入っていない敵の情報まで視ることは可能だったが、これだけの距離を空けての偵察 では、敵軍の姿を肉眼に収める必要があった。

――ドラコンナイトと戦士が中心の布陣…それに、魔道師も居るわね。

自軍の布陣があたまの中で何パターンも展開される。いくつかが却下され、いくつかは組み合わされて最終的に二案になった。

――あとは、軍議で図ることにして。

自陣に戻ることにしよう、と気を抜いた瞬間。

「なんだ、偵察だったのか」
不意に声をかけられた。
「わひゃあっ！！？！」
「おわっ！？」
すっとんきょうなルフレの悲鳴に話しかけた相手も思わず声をあげた。
気配には聡い筈のルフレがいつも接近を許してしまう相手。

――それだけ気安い相手だってことなんでしょうけど…

あまりに心臓に悪いのでなんとかならないものか――たとえば鈴をつけるとか――などと考えながらルフレは振り向いた。
思いのほか近い距離にあった空色の瞳と視線が合う。ルフレは一歩、後ろに下がった。
「クロム…」
「すまん。驚かせたようだな。俺も驚いたが」
「いきなり後ろに立たれたらあたしだってびっくりもするわよ…それで、どうしたのこんなところで？総大将が自陣を離れるなんて関心しないわね」
「軍師が無断で自陣を離れるのもどうかと思うぞ」
「そ？軍議まではまだ間があったから、良いかなぁ、て思ったんだけど」
偵察隊の報告を待てば良いのも事実だったが、天幕にじっとしてはいられなかったルフレだった。
「俺はまた、お前が一人抜け駆けでもするつもりなのかと…」
「そんな。クロムじゃあるまいし」
「なにっ…いや、なんのことだ」
あからさまに動揺するクロムの様子に、ルフレはゆるゆるとため息を吐き出した。
「クロム、『ギャンレルと刺し違えられればそれで構わない』、とか、思ってるでしょう？」
「――――！」
心の底に燻らせていた気持ちをそのままずばりと言い当てられて、クロムは言葉を失った。
表情を消したルフレの琥珀の瞳がクロムの空色の瞳をひたと見据える。形のよい唇から漏れた声音も淡々としたものだった。
「良い機会だから言っておくけれど。クロム、あたしはあなたが直接ギャンレルを討つ手助けをするつもりはないわ」
ルフレの言葉に、クロムの顔からも表情が消えた。その空色の瞳がゆるりと深い彩を帯びる。
「どういう、ことだ？」
「あなたの軍師として、臣としてはそう言うしか――」
クロムの手がルフレの手首を乱暴に掴んだ。驚いたルフレが目を見張り、言葉が中途半端に途切れた。
「おまえは、俺の臣下じゃない――おまえは俺の大切な――」
そう言いかけて、クロムが不自然に押し黙った。自分でも何を言おうとしたのか分からない、というような表情。
いささか近すぎる深青色の瞳を琥珀色の瞳が不思議そうに見つめ返す。
なにか言おうと口を開きかけたルフレがはっと空を見上げた。
先ほどまで北寄りの方角から吹いていた、この地方にしては冷涼な風がやみ、今は南寄りの方角からの生ぬるい湿り気を帯びた風に変わっていた。
「しまった。雨…」
「なに？」
「クロム、走るわよ」
間近にある顔を見据えてルフレはそう言うと、捕まれたままの右手をぐいと引いて、遺跡の階段をかけ降りはじめた。



遺跡の中程にあった入口らしき場所へ二人がたどり着く頃には、雨は視界も覚束ない程の豪雨へと変わっていた。
軽く息を乱しながらルフレが被っていたフードを下ろした。雨に打たれたのは一時だったが重く湿ってしまった外套を脱ぐとぱんと払った。
水滴がばらばらと飛び遺跡の壁に染みを作る。それでもまだぽたぽたと水が滴り落ちる外套をもう一度着るのは諦めて、ルフレは手近な壁面の出っ張りに外套をかけた。
ルフレが振り向くと、クロムも雨を吸ったマントを肩から外したところだった。濡れて額に貼りつく前髪を鬱陶しげにかきあげる。
「ちょちょちょっとクロム！」
「ん？どうかしたか」
クロムが同じく濡れた上衣を脱ぎ捨てて、下履きに手をかけたところで、慌てたようにルフレが止めた。
「あなたがあたしのこと女だと思ってないのは知ってるけど。それとこれとは別。それ以上脱いだらサンダーが飛ぶわよ？」
「いやっ、そういうつもりじゃなくてだな…」
慌てて弁解しようとするクロムをじっとりと見つめるルフレの視線。
「つい、おまえの前だと気が緩むというか、だな…すまん」
困ったように頭をかきながら謝るクロムの様子を見て、ルフレはどこか諦めたようにため息を吐いた。



「しかしおまえもよくそんな以前のことを覚えているな…」
しばらく止みそうもない雨に、いつまでも立って待つのもなんだからと、壁際に並んで腰かけた後にクロムが言った。
「…あたしにはクロムと出会った後からの記憶しかないんだから。全部、忘れずに覚えてるわよ」
激しい雨音にかきけされそうな微かな声音。かけるべき言葉を探してルフレを見つめる空色の瞳が、急に振り向いた琥珀色の視線とぶつかった。
「クロム、さっきの話の続きなんだけどね。『軍師』としては、王として人の上に立つべき者が私怨で動くことを認める訳にはいかない――でも、ね、クロムの友としては――」
そこでわずかに視線を揺らして、けれどルフレは言葉を続けた。
「クロムの気の済むようにさせてあげたいと思ってる。いつかそれを後悔することになっても、クロムの魂に陰を落とすことになっても。クロムはまた真っ直ぐに歩き出せる強いひとだって、信じてるから。…珍しい、でしょ。まだ、結論を出せずに迷ってるの」
はぁ、とため息を吐く。
「だから、手助けはしないし。クロムをギャンレルの前に立たせるための策も考えない。でも戦の流れでそうなるのなら止めるつもりもない。そして、どんな形になったとしても、あたしはクロムの傍を離れずにその背中を守る――全てを、見届ける」
どこか優しさをたたえた琥珀色の瞳がクロムをひたと見据える。凛とした声音でルフレはそう言った。
そんなルフレの髪をクロムの大きな手がくしゃりとかき混ぜた。
「ルフレ、おまえは、考えすぎだ」
「っ！なによ、それ――っ、くしゅっ」
唐突に小さなくしゃみがひとつ出た。濡れた身体が冷えたのだろう。ルフレはぶるりと身体を震わせた。
その様子に片眉を上げたクロムだったが、その空色の瞳にいたずらを思いついた少年のような光を浮かべると、まだルフレの頭上に置いていた手を彼女の肩にかけ、自らの方へぐいと引いた。
油断しきっていたルフレの身体は手もなくクロムの腕の中に収まった。
「たとえ家族同然の仲でも男を抱き締める趣味はないからな。おまえのことはちゃんと女性として認識している。これで以前の発言は帳消しにしてくれ」
クロムの予想外の行動にしばし呆然としたルフレだったが、その色々と間違った発言を聞いて、もはや反論する気力も起きずにがっくりと項垂れた。
「言いたいことは分かったから…放してもらえるかしら？」
逃れようと身を起こしかけたルフレは、強い力で引き戻されてぺたんと尻餅をついた。
先ほどよりもがっちりと背中越しにまわされた逞しい腕が彼女を拘束している。
「断る」
「クロム？」
「濡れた服のままいるからだ。冷えきっている。うちの大切な軍師に風邪をひかれては困るからな。しばらくこのままで居ろ」
すこし緩んだ腕の力に振り向くと、心配そうなクロムの顔が目に入った。
「……………………はぁい」
こうと決めてしまったクロムがなにを言っても聞かないことを分かっているルフレは、諦めたように彼の腕の中に身を預けた。



ざあざあと続く雨音。
どこか心地よい沈黙を破ってクロムが言った。
「なあ、ルフレ」
「なぁに、クロム」
「この戦いが終わったら、おまえはどうするつもりだ？もし――」
おまえさえ良ければこのままイーリスに、そうクロムが続ける前にルフレは言った。
「旅に出ようかと思ってるのよ。戦が終われば軍師は必要なくなるし。少し、世界を見て回ろうかなって――あたしの記憶の手がかりがどこかで見つかるかもしれないし、ね」
「…そうか」
どこか残念そうなクロムの声。
「いつでも、戻ってこい。俺たち自警団の居るイーリスが、おまえの帰るべき場所なんだからな」
「ありがと。いまのあたしは何も知らなすぎるから、本を読むだけじゃ分からない色んなものを見て知って、戦以外でもクロムの役に立つ自信がついたらちゃんとイーリスに帰ってくるから」
「ああ。頼りにしている」
「それにしても」
「ん？」
「安心したわ。クロムはちゃんと戦いが終わったあとのことまで見つめてる。きっと良い王様になるわ」

――それはおまえが…

クロムがそう言う前に、ルフレが声をあげた。
「あ！雨やんだみたいよ、クロム」
腕の中からするりと抜け出して出入り口へと向かったルフレの背中をクロムが見つめる。
その視線がまだぬくもりの残る自らの手を不思議そうに見つめ、またルフレの方へと視線が戻った。
「ルフレ。おまえが居てくれたから、俺は…」
その呟きはルフレには届かなかったようだった。
クロムが見つめるルフレの先に鮮やかな虹がかかっていた。



　　　◇◆◇



天頂から強く照りつける陽光が地面に濃い陰を落とす。天地を揺さぶるようにして上がった勝鬨も今は収まって、投降した兵達の武装解除が粛々と進められている。
自陣の中を横切って、目当ての人物を見つけるとクロムはそちらへ大股で歩み寄った。
「ルフレ」
自軍の兵たちになにやら指示を出していたルフレが顔だけ向けてクロムの方を確かめる。 再び兵たちの方に向きなおると二言、三言指示を出し、今度は身体ごとクロムの方へと振り向いた。
「クロム。どうかした？」
「少し、いいか」
「？…ええ。なにか急ぎの用事？」
いつになく真剣なクロムの表情。訝しげな顔をするルフレを促して、クロムは陣の外へ向かって歩き出した。



　　　◇◆◇



『ルフレ。俺はおまえを離さない。だからおまえは…どこにも行かないでくれ』

ルフレのことを強く、強く抱き締めるクロムの腕。懇願するように囁かれた言葉。
全く予想していなかったその言葉にあたまが真っ白になって。
次に気づいた時には自分の天幕に居たルフレだった。

――ええっと？？？？？

何回か深呼吸を繰り返す。おぼろげだった記憶が徐々に思い出されていく。

『ルフレには、姉さんの分も幸せになって欲しい。いや、幸せにしてみせる』

間近に見た空色の瞳に宿った真摯な光が、その言葉と共に明瞭に思い出されて、ルフレの頬に朱がのぼった。

――あたし、クロムに求婚された…？

熱く血ののぼった頬に両手をあてて項垂れる。
「ルフレ――入るぞ？」
天幕の入口から聞こえた声にルフレの身体がびくんと跳ねた。
恐る恐る顔を上げると、今いちばん顔を合わせたくない相手が(できればもう少し頭を整理するまでは)天幕の主の許可も得ずに中に入ってきていた。
「クロム…」
真正面から顔を見ていられなくて、ルフレはそっと視線を逸らした。 天幕の中ほどにぼんやりと立ったままだったルフレの正面にクロムが歩み寄る。
「その、すまなかったな…俺はつい、強引になってしまうようだ。おまえの気持ちも確かめずに俺の気持ちを押し付けた」
視線を逸らしたままのルフレを困ったように見下ろしながら、言う。
「嫌なら、そう言ってくれ。おまえの本当の気持ちがどうであれ受け入れる覚悟はしてきた」
クロムの言葉の意味が分からずルフレはクロムの顔を見上げた。
視線が合ったのは一瞬のことで、今度はクロムが顔を逸らした。
「あれからずっと、おまえは心がどこかに行ったみたいにぼんやりしていて。皆に出す指示も上の空で、食事にもほとんど手をつけずに早々に自分の天幕に引き上げて――だから、よほど困らせたのだろうと…」
「ちょっと待ってクロム」
ルフレの慌てたような口調にクロムがルフレの方を見た。空色の瞳と琥珀色の瞳。正面から視線がぶつかる。
「あたしがあの時言ったことばに嘘はひとつもないわ。ただ…あまりに突然すぎて。びっくりしただけで」
淡く頬を染めてそう言うルフレを見下ろすクロムの瞳が見開かれた。
「戸惑っていた、だけなのか？俺の求婚を受けたことを後悔していたわけではなく？」
クロムのその言葉を聞いてルフレがゆるゆると首をふる。
「後悔なんてする筈ないわ。クロムに言われて気づいたの。あたしもクロムのことが好きだったんだって――たぶん、はじめて出会ったあの日から、ずっと」
クロムの無骨で大きな手がルフレの頬に伸ばされかけて、躊躇うように途中で止まる。
「…触れても良いか？」
確かめるように呟いた。
いつものクロムらしからぬ物言いにルフレは柔らかい笑みを浮かべると、こくんと一度頷いた。
そっと、最大限に優しく。クロムの指先がルフレの頬をなぞる。ゆっくりと頬のラインを辿った指先がルフレの頤にたどり着き、彼女の顔を上向かせた。
「この戦争が終わったらイーリスを出るとおまえに言われて、最初はそれで納得したんだ」
真っ直ぐにクロムを見つめる琥珀色の瞳を見返して、ぽつりとクロムは言った。
「だが、これからのことを考えた時に。どうしても、おまえの居ない未来が描けなかった。俺の隣におまえが居ない未来を、どうしても考えられなかったんだ」
「クロム…」
「ルフレ。俺にはおまえが必要なんだ。軍師として、友としてではなく。かけがえのない一人の女性として――やっと、そう、気づいた」
ルフレの琥珀色の瞳が微笑むように細められる。その様子に引き込まれるようにクロムの顔が近づき、ルフレはそっと瞳を閉じた。
はじめは躊躇いがちに、次第に深く口づけが交わされる。
名残惜しげに離れたクロムの顔をルフレの少し潤んだ瞳が見上げていた。
その顔を見つめながらクロムが苦笑する。
「そんな顔をするな」
「え？」
意味が分からずぽかんとするルフレをクロムが抱き込んだ。
ルフレの肩越しに、憮然とした口調で言う。
「抑えが利かなくなりそうだ……しばらく待たせると言ったのは俺の方なのにな」
そう言われて顔を赤くして、クロムの腕のなかで身を硬くしたルフレの様子に笑みを洩らす。
「大丈夫だ。これ以上はなにもしない――ルフレ」
「え？――はいっ」
「俺の隣で手を貸してくれ。できるだけ早く、イーリスの民たちに平和な暮らしを取り戻す」
折れるほどにきつくルフレを抱き締める。
「そうしたら――」
クロムはルフレの両肩に手を置くと、ルフレの顔を覗き込むようにしてこう続けた。
「俺の妻に、なってくれ」
「――はい。こんなあたしで構わないなら…クロムの奥さんにしてください」
はにかむように頬を染めてそう返すルフレを、クロムは愛しげに見つめた。
その琥珀色の瞳の中に、あの雨上がりに見た美しい虹が、見えたような気がした。






--END--


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お盆企画リクエスト小説。睦月様からのリクエストで『クロルフで、「あたし」ルフレさんの強制結婚バージョン』でした。 リクエストしてくださった睦月さん、ありがとうございました！

2012/9/8収納