『彼女が生を望んだ理由』










「やっと見つけましたよ！」
ヴァルム大陸のとある町、雑踏の中不意に腕を掴まれたガイアは、そのすぐ後に聞こえてきたよく知る声音に、暗器に伸ばしかけた手を止めた。
取られた腕の方を振り返る。そこから視線を下げていくと青銀髪の小さな頭が漸く目に入った。
「…ルフレか？」
「『ルフレか』じゃないですよ！どうしてイーリスに居ないんですか！」
「どうして、と言われてもだな…」
「わ、私がこの一ヶ月、どんな気持ちでガイアさんのことを探したと…」
大きな瞳に涙が溢れて今にも零れ落ちそうだ。
「避けられていたとしか思えません」
ずばりとそう言われて、ガイアは思わず目を逸らしてしまった。その背にトンとぶつかるようにして通行人が避けて通った。
ガイアの手が、ルフレの頭をぽんと叩いた。その拍子に涙が二粒零れたが見ないフリをして、言った。
「とりあえず、場所を変えるぞ」
素直にルフレはこくんと頷いた。

　　　◇◆◇

「お帰り、友よ」
腕を引かれて立ち上がって、クロムにそう声をかけられたルフレはなんともいえない表情を浮かべていた。喜びや驚きではない、強いて言うならば戸惑いに似た顔だった。
「――さんは、どこですか？」
「なに？」
微かに呟かれた誰かの名。
「ガイアさんです。いま、どこにいらっしゃいますか」
ルフレよりもかなり高い位置にあるクロムの顔を勢いよく見上げると、ぱさりとフードが滑り落ちた。
流れ落ちる青銀の髪。紅玉の色合いの瞳に宿る焦燥が、ルフレの言葉がどれ程切実なものかを物語っていた。

欲しいものといえば戦術書ぐらいで。自身の命すら戦術の一部として使うような、生に対してすらも欲を欠いた彼女が。半身であるクロムにすらその心の内を悟らせずにギムレーを滅ぼすために我が身を賭した彼女が。
唯一、欲したのが彼だった。
ルフレはイーリスへ戻るとすぐに自身の作り上げた間諜たちのネットワークを使う許しをクロムから得て、ただ一人の人物の居場所を猛然と探し始めたのだった。
はじめて出会った草原で、この世界へと帰還したルフレと再会したときに。彼女が開口一番に彼の居場所を問い質すまで不覚にもクロムは気づいていなかった――いや、自警団内の誰一人として気づいてはいなかっただろう。当の本人たちを除いては。

　　　◇◆◇

ガイアが逗留する宿の室内。ルフレの前に薫り高い茶を出してやると、ガイアは彼女の正面に腰掛けた。
「よく、戻ったな」
感慨深げなその声に、しかしルフレはむっとしたように口を尖らせる。
「とうに知っていたくせに、よくそんなことが言えますね」
ルフレの帰還は隠されていたわけではない。むしろ大々的にイーリス国中に知らされて、国内はしばらくお祭り騒ぎだったのだから。海を渡った大陸に居ようともその噂が流れてこない筈がないのだ。事実、他の仲間たちは皆彼女に会いに来てくれた。笑い合い、時には涙して彼らとの再会を喜んだ。
一連の騒ぎが収まり、仲間との再会も済ませた後でルフレはクロムにしばしの暇（いとま）を告げ、本格的にガイアを探すため旅立った。
「まあそう言うな」
そんな彼女の苦労も知らぬげにぽんぽんと気安くルフレの頭を撫でながらガイアが言う。その手を両手でがしっと掴むとルフレはガイアの手に自らの頬を寄せた。好きなようにさせてくれているガイアの瞳を正面から見据え、息を吸って、吐く。
「待て」
息を吐ききったところでそう言われ、ルフレはぐ、と言葉に詰まった。
「ガイアさん…」
「言いたいことは大体分かる。が、先に俺に話させろ」
ガイアの言葉を待つルフレに言う。
「一つだけ確認させてくれ。お前が命を捧げる相手はクロムの筈だ。――お前があの時命を賭けてギムレーを倒したのは世界のためでも俺たちのためでもない、クロムの為だった。そうだな？」
「…この段階で嘘をつくことに大した意味はありませんね。そうです。私がこの命を捧げる相手はクロムさんただ一人です。もう、随分と前に決めてしまったことですから」
その平然としたもの言いにガイアは深くため息をついた。
「なあルフレ、お前どうしてクロムと結婚しなかったんだ？」
そう言われたルフレは心底不思議そうにきょとんと目を見張った。
「どうして、と、言われましても…そうですね。考えてもみませんでしたが。理由を言うならば、そんな近すぎる位置にいてはクロムさんを守りきれないから、でしょうか。それにクロムさん自身もそんなことは望んでいなかったと思いますよ」
いま自分に対して向けているだけの情熱でもって押されたなら、クロムも受け入れたのではないかとガイアは咄嗟に言いそうになったが、自身の主観が入りすぎている気がして、やめた。
「何故クロムの元に残らずに俺なんかを探しに来た？」
ルフレがふ、と笑みを浮かべた。
「私が命を懸けるのはクロムさんのためだけですが、生きたいと思うのは、ガイアさん、あなたが居るからなんです。…それではだめですか？私はガイアさんが居るから戻ってきたんです。ガイアさんの居る世界だから、生きていようと思えたんです」
真っ直ぐに見つめる紅玉の瞳。策も狙いもなにもない、ルフレにしては珍しい心からの言葉だった。
「私が欲しいのはガイアさん、あなただけです。他にはなにも要りません」
「だがもう一度同じことが起きれば、お前は同じようにする」
「それは――その通りですが」
「なら、お前がいるべき場所はここではない筈だ」
「違います！私は――っ」
視線を合わせれば、これ以上言葉を重ねることに意味はないことがルフレには見て取れた。そのぐらいには深く分かりあっていた。
「なら、仕方がありませんね――でもこの指輪は返してもらいますよ」
「おまっ、いつの間に」
にっこり笑ったルフレの手の中には銀細工の指輪があった。精緻な透かし彫りの銀は角度によって青銀に輝く。中央に嵌められた石はルフレの瞳によく似た紅玉だった。

この指輪を最初に受け取ったのは、ギムレーが復活した後。ルフレの心が既に決まった後のことだった。
『必ず、帰ってきますから。この指輪はその時まで預かっていてくださいね』
そう言ってルフレは一度受け取った指輪をガイアに返したのだった。
彼女の思いを正確に読み取った上で指輪を渡した彼に対しての、ルフレができる精一杯の返事がそれだった。

「これでも盗賊の奥さんになるつもりでしたからね。このぐらい、簡単に盗れなければ」
「おまえなぁ…」
「どうしてまだこの指輪を持っていてくれたのか。聞いても良いですか？」
ルフレの瞳には、一縷の望みにすがるような色。
視線だけで交わされる攻防がしばし続いて。降参したのはガイアの方だった。
「…分かったよ。俺の負けだ」
その言葉の途中でもう既にルフレはガイアに抱きついていた。
「俺と来い、ルフレ。正式に契約する。契約するからには、必ずお前を幸せにする」
そう言われた時にルフレが浮かべた零れるような笑顔を閉じ込めるように、ガイアは彼女を強く抱き締め返した。
「取り消しは聞きませんよ。もう一生、離しませんからそのつもりで」
一端抱き締める力を緩めると、ガイアはルフレの顎に手をかけ上向かせた。
その意味を察してルフレが瞳を閉じる。頬がほんのりと薄紅色に染まる。その様子は、彼女が冷厳な軍師などではなく当たり前の娘なのだと思わせた。
――まあ、どんな顔してても可愛いんだがな。
そう考える時点で既に末期だと自嘲しつつ。
ガイアはルフレに口づけた。

　　　◇◆◇

彼の隣で小さな寝息をたてているルフレを起こさないように、ガイアはそっと身を起こした。
手早く衣服を身に着ける。全身に仕込んだ菓子――ではなく暗器を点検すると、仕上げに漆黒のマントを羽織り留め金をとめた。
「私も一緒に行きますよ」
背後からかけられた声に諦めの嘆息。
「別にお前を置いて消えようってわけじゃない」
「お仕事なのでしょう？私も連れて行ってください」
「できれば一人が良いんだが」
「無理にでも着いて行きますよ」
「ルフレ…」
「私もガイアさんの行く先に用事があるのが、ひとつ。それと。すっかり忘れていたのですが多分マークがそこで待っていますので」
それだけで、ガイアはルフレの意図するところを理解した。
「お前…あれを使って俺を探したんだな」
「はい。元は私とガイアさんが作ったネットワークですが、彼らは今はクロムさんのもの。使うのは躊躇われましたが、背に腹は変えられませんでしたので」
悪気なくそう言う笑顔が愛らしい。
「どうせ止めても着いて来るんだろ。さっさと支度しな、奥さん」
「はい！」
とても嬉しそうにルフレは返事した。

「遅いですよ母さん。あ、父さんも居ますね、父さーん」
目的地――この町で一二を争う豪商、武器商人の邸宅――の裏手で、真夜中とはいえ目立つことこの上なく手を振るマークの姿を見て取ってガイアは頭を抱え込みたくなった。
「やはりここで待っていましたかマーク。置いていってすいませんでした」
「ほんとですよ母さん！ここを待ち合わせ場所にしていたから良いものの」
勝手にターゲットの住居裏を待ち合わせ場所にして欲しくはなかった。
本当に頭を抱えるガイアを無視する形で、一応気を使っているのか小声で会話を続ける母子。
「まあ、この時代の父さんと母さんも無事に夫婦になれたようですし。僕としてはこれ以上何も言うことはありませんよ」
にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべながらマークが言う。
「！！！？？ままマーク、あなた、いきなりなんてことを！！」
ぽふんと顔を真っ赤にしてうろたえるルフレ。
「？何かおかしなことを言いましたか僕？ 母さんの指輪を見てそう思っただけなんですけど」
あくまでも純真に、ルフレの左手に輝く指輪を指してそう言った。
「それにしても父さんも往生際が悪いですよね。僕という息子まで作っておきながら、母さんから逃げ回るなんて」
「俺はお前を仕込んだ覚えはないぞ」
「まあ未来の父さんですけどね。早くこの時代の僕にも会いたいです。父さん頑張ってくださいね」
「いい加減黙れ、息子」
「あ。僕のこと息子って認めてくれるんですね。嬉しいなあ。というか、お久しぶりです父さん」
「おう。お前が相変わらず元気なのは良く分かったから――そろそろ仕事に移っても構わないか？」
「そうでした。さっさとしないと夜が明けてしまいます」
ようやく赤面から立ち直ったルフレが言った。
「ほんとですね母さん！ 父さん、早く行きましょう！！」
言うが早いか塀に手をかけるルフレとそれを手助けするマーク。ガイアはため息混じりにその後に続いた。

無事に目的の品を盗み出して、ガイアは途中で別行動を取っていたルフレの元に合流した。
彼女が居たのはこの屋敷の主の書斎らしき室だった。ルフレもマークも本分は軍師であろうに、何故か鍵開けをこなす。二人して引き出しや金庫の鍵をあけて回って、今はルフレが目的の書類に片端から目を通しているところだった。
大量の紙束を無造作に、しかし一定のリズムでめくってゆく。
紙をめくるのと同じリズムでされる瞬き。彼女がその一瞬で紙面に記された内容を頭に写し取っているのだと、ガイアは既に知っていた。書き物机の右から左へと、順々に紙束が移動する。移動し終えた書類はマークが手際よく元の場所へ戻していく。
この屋敷に侵入してから一時間と経たぬ内に、ルフレはここの主が今までにやりとりした手紙や武器取引の帳簿などの資料を全て頭の中に盗み取っていた。
最後の一束を机に置くと、ルフレは顔を上げガイアと視線を合わせた。恐ろしく集中しているように見えたがガイアがそこに居ることに気づいてはいたのだろう、彼の姿を見ても別段驚いた様子もなかった。
「お待たせしました。さあ、行きましょうか」
恐らくは、いま手に入れた情報の処理がめまぐるしく行われているだろう形の良い頭をちょこんと傾げて、ルフレはそう言った。

　　　◇◆◇

一足先にイーリスへ戻るというマークと途中で別れて、ルフレとガイアは盗み出した品を依頼主の元へ届けに来ていた。

「よく取り戻してくれたねガイアくん。貴族的に感謝を伝えよう」
ヴィオールはそう言うと、先ほど受け取ったばかりの布をそっと卓の上に広げた。
それだけでも価値のありそうな厚手の絹織物にとりどりの糸で縁取るように刺繍が施されている。それは、家系図だった。長々と続く流れの最後にヴィオール自身の名前が美しい意匠文字で刺繍されていた。
「これでようやく我が妻と息子の名を記すことができるというものだよ」
「我が主の不手際のせいでお手間を取らせてしまい申し訳ありませんでした」
そう言って深々と頭を下げた――いや、ヴィオールに下げさせたのはセルジュだった。ヴィオールの額が卓にぶつかって、ゴツンと固い音がした。
「…しかし驚いたね。君たちがそんな仲だったとは」
何事もなく顔を上げると優雅な仕草で茶器に口をつけ、言葉を続けた。
「ルフレ君もイーリスで会った時に一言聞いてくれれば、ガイア君がいずれ私の貴族的な依頼を果たしてここに来ることを教えてあげられたのだがね」

ガイアを探す日々の中、あと少しというところで幾度かすれ違いを繰り返して激しい焦燥を抱えていたルフレの元に、間者の一人から情報が上がってきたのはつい先日のことだった。ガイアがしばらくは仕事を成すために同じ町に留まっているだろうと。だからルフレはマークとともにヴァルム大陸へと飛んだのだった。

「よだれかけに相談すると話がこじれそうで。私がガイアさんを追っていることを多くの人に知られると本人に伝わるリスクもありましたし。結果こうして捕まえましたのでやはり必要ありませんでしたしね、よだれかけ」
可愛らしい笑顔ですらすらとそう言った。
「…ああ、すみませんセルジュさん。奥様の前でご主人をよだれかけ呼ばわりしてしまいました」
「構いませんわ。事実ですので」
「セルジュ君…きみまでこの貴族的なスカーフを批判するのかね」
「そうですね。ジェロームには着けさせたくないと思う程度には」
にっこりと美しく笑んで言うセルジュ。彼女からのそんな扱いには慣れているのかさしてダメージを受けた様子もなくヴィオールは話の矛先をガイアに向けた。
「しかしガイア君、妻を迎えたからにはもう少し全うな仕事を探すべきだと貴族的にアドバイスさせてもらうよ」
「余計なお世話だ、よだれかけ」
「ぶふっ、君にまでよだれかけ呼ばわりされる覚えはないのだがね」
ヴィオールが紅茶を軽く拭き出した。
「おう、大切な家宝に茶の染みが！？」
一人慌てるヴィオールを他の三人が綺麗に無視して。セルジュが、彼女の手のひらに乗るぐらいの四角い箱をガイアに差し出した。
「本当に報酬はこんなものでよろしいんですか？」
「ああ。金なら他所でも稼げるが、その蜜はこの地方でしか手に入らない貴重品だからな」
「それならばよろしいのですが…。今年の税として納められたものを偶々残しておいて良かったですわ」
ガイアは受け取った箱を開けると中から瓶を取り出した。濃い褐色に輝く蜜がたっぷりと詰められた瓶だった。ヴァルム大陸のこの地方でだけ採れる、甘い樹液を煮詰めて作る蜜は東の大陸では中々手に入らない貴重品で高値で取引されている。
「ちょっと…待ってください。ガイアさん、もし報酬に金貨と甘いものが提示されたとしたら」
「種類にもよるが、まあ、甘味を取るだろうな」
「ガイアさん。少し、話し合う必要があるみたいですね」
「この一点だけは譲るつもりはねえぞ」
「おや。新婚早々夫婦喧嘩かね。まあ、喧嘩を重ねる度に夫婦の絆が深まるとも言うからね。止めはせんよ。一泊ぐらいはしていくのだろう？すぐに部屋を用意させるからそこで心置きなく意見を戦わせたまえ」
にらみ合っていたルフレとガイアがくるりと同時にヴィオールの方を振り向いた。
「うるさい、よだれかけ」
綺麗に二人の声がハモった。

　　　◇◆◇

微かな気配を感じて、クロムは執務机の上の書類から視線を上げて背後を振り向いた。
どうやって入ってきたものか、開け放たれた窓の前に漆黒の外套を纏った小柄な姿があった。
「何度も言った気がするが、どうして正面から入ってこないんだ。ルフレ」
「私も何回も言った気がしますが。そこの木は斬った方が良いですよ。賊が侵入し放題です」
「あの木を斬ったらお前がここに来られなくなるだろう」
矛盾することを平然と言う。
「それに、お前のようにおかしな奴がこの世に二人と居るとは思えんしな」
木があるとはいってもここは王城の二階だ。細い梢を伝って執務室の窓にある僅かな取っ掛かりに移って室内に侵入するためには、身の軽さはもちろんだが、かなりの腕の力が必要だった。
女性の中でも小柄な、少女としか見えない外見のルフレだったが、クロムと切り結んで互角に渡れる規格外の腕力の持ち主でもあった。
「クロムさん、相変わらずの失言ですがわざとですか？わざとですね？？」
「聞き流せ――この報告書なんだがな」
ひょいと、先程まで目を通していた書類をルフレに見せた。
「官吏でもない私に気軽に機密書類を見せないでください」
「お前がいつ戻っても良いように、王佐の席は空けてあるが」
「私は政治向きの人間ではありませんよ――ああ、ちゃんと報告が上がっていましたか。私とガイアさんが居なくなってからも皆さんきちんとお仕事してくださっているみたいですね。安心しました」
「ただ顔を見せに来たわけではないと思ったが」
「はい。先日から何件かおかしな噂を耳にしましたのと、気になる情報を手に入れましたので。お知らせしに来ました」
「マークから話は聞いている。詳細はお前の頭の中に入っていると言っていた」
「はい。確証が得られるまでは記録に残すことが躊躇われましたので」
ルフレは静かに語り始めた。

「それでは。またすぐに来ることになると思いますが」
「今度は正面から入って来い」
「――そう、ならなければ良いのですが…」
その言葉でクロムはルフレがこの城へ来る時に敢えて通る場所を使い分けているのだと確信した。軍師として城を訪れる時には正面から、それ以外の用でならば執務室の窓から。
再び窓から出て行こうとするルフレに、思いついたようにクロムは声をかけた。
「ルフレ――お前は今、幸せか？」
ここに来た時から、ルフレの指に輝く指輪で彼女が目的を果たしたことは察していた。なによりも、以前よりも柔らかくなった彼女の雰囲気から。
「はい。これ以上は望めないぐらいに」
零れるような笑みを浮かべてそう言うと、ルフレはひらりと窓から外へ舞い降りた。
「――おい！」
いくら彼女でもこの高さから飛び降りればただでは済むまいと、クロムが慌てて窓から下を見下ろすと、こちらを見上げるガイアと目が合った。その腕の中にはルフレの姿。
笑みを浮かべたその口許が『もらってくぜ』と言葉を形作ったように見えた。
「…娘を嫁に出す父親のような気分だな」
憮然とクロムはそう言った。

「いきなり飛び降りてくるやつがあるか」
軽々とルフレを抱いたままガイアが中庭を横切っていく。無頓着に歩んでいるように見えるが、巧みに警護の目を避けていた。
「でもちゃんとガイアさんが受け止めてくれましたよ」
腕の中からガイアを見上げて悪気なくルフレがそう言った。
「阿呆。下に俺が居なかったらどうしたつもりだ」
「気配ぐらいちゃんと探っています――あの、ガイアさん…」
「何だい？」
「そろそろ下ろしていただけませんか」
「別に重たくもないし平気だぜ」
「いえ。その…私が恥ずかしいんですよ。誰かに見られでもしたら…マークとも合流しないといけないし」
「安心しな。あいつは別行動になった」
「？というと？」
「お姫さんに用があるみたいだったぜ」
「そうでしたか…」
そのまま物思いに耽りかけて、ルフレははたと思い直した。
「ではなく、下ろしてくださいってば！！」
じたばたと暴れようとするが、彼女の華奢な身体はガイアにしっかりと抱えられており思うようにいかない。
「暴れるな。騒ぐとほんとに人が駆けつけて来ちまうだろうが」
「！！！！」
絶句しながら赤面するルフレのことをにやにやとガイアが見つめた。

　　　◇◆◇

幼い頃に彼と共に駆け回った城の中庭で、当の＜彼＞に名を呼ばれてルキナは振り向いた。
父譲りの赤毛と、母譲りの紅い瞳。こちらで再会した時にはルキナよりも低かった身長も今は彼の方が頭ひとつ分高かった。
「マーク」
「お久し振りですルキナさん。アズールさんは一緒ではないのですね」
「はい。まだ生まれたばかりのアズールのところに居ますよ」
「羨ましいなぁ…早くこの時代の僕にも会いたいです」
彼にしては珍しい、苦笑。
「それに。早く生まれてきてもらわないと、姫君とその影のバランスがおかしくなっちゃいますしね」
まあ、今の僕たちみたいにいずれは僕の方が身体も大きくなるのでしょうけれど。そう続けた。
「マーク、あなた…」
「いえ。記憶は戻っていませんよ。それでも、未来の僕がどんな役を担っていたのかの予想はつきます」
正面に立つルキナの髪を優しい仕草で一房取った。
「この命は常に我が君の御為に――」
芝居がかった口調でそう言うと、濃紺の髪に口づけた。
影として常に主の身を守り、また有事には軍師として主と共に戦場に立つ。彼の母がそうであるように。ルキナが否定しないところを見ると、やはり未来での自身の立場はそういうものであったらしいとマークは思った。
「いつものようにルキナと、名前で呼んでくれませんか」
ルキナが物心ついた頃には、傍にはいつもマークが居た。ほんの幼い頃は友のように名前を呼びあっていた筈なのに、ある時を境にしてマークは彼女を『姫』としか呼ばなくなった。
こちらの世界に来て、記憶を失ったマークと再会した時に彼が『ルキナさん』と彼女を呼んだことが、ルキナは素直に嬉しかった。確かに、自分のことを忘れてしまっているのは悲しいけれど、昔失ってしまった大切なものを取り戻したような。不思議な喜びがあった。
そんな彼女の気持ちをどこまで察しているのか。マークはにこりと笑みを浮かべると、耳に心地よい声音で彼女の名を呼んだ。
「では、ルキナさん。全ては貴女の望みのままに」






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2013/9/29収納