『遺志を継ぐもの』










１．


起こり得る可能性のひとつとして、とうに覚悟は決めていた筈だった。
だが実際にそれを目の当たりにして。そんな覚悟など何の役にも立たないことに、ガイアは今更ながらに気づいた。

勝ったのだ、と、誰もが確信した時だった。
消え去った障壁の先、小柄な外套姿の少女が濃紺の髪の青年の胸を雷撃で貫く光景は悪夢そのもので。
その証のようにして迸った黒い雷撃が次の瞬間に祭壇の間を駆け抜けた。

覚醒に伴って起きた魔力開放の余波で舞い上がる青銀の髪。
彼女以外に立つ者のない広間を少女がゆっくりと歩み行く先に、仰向けに倒れたひとりの男。
全身に無残な傷を負い、ごほりと咳き込めばその口から血泡が溢れ出た。
漆黒のマントに朱が散って、朦朧とした緑の瞳が自身を見下ろす紅玉の瞳を見つめ返す。
血のようにあかい瞳は、既にヒトのものではなかった。縦に長い瞳孔――竜の瞳。その瞳がす、と細められガイアは何かあたたかな力に包まれるのを感じた。
急速に浮上する意識と、反対に消えてゆく痛み。

――神にならば、容易いこと、なのだろう。

ヒトの肉体を壊すことも、創ることも。
彼女のヒトならざる紅玉を見据えたまま、ガイアはゆっくりと立ち上がった。
「――――ルフレ」
最早そうではなくなってしまった彼女の名を、呼ぶ。
ふ、とルフレの口元に笑みが浮かんだ。
瞳が――ヒトのそれへと戻る。
ルフレは無言のまま両腕を広げた。
その姿を見て、ガイアは以前ルフレと交わした約束を思い出した。

「私がファウダーの支配に負けてしまった時は、ガイアさん、あなたが私を止めてください」
「…ルフレ」
「『断る』はなしですよ。これはガイアさんにしかお願いできないこと。クロムさんや他の方では優しすぎて、私を手にかけることはできないでしょう」
「俺はそんなに冷血な男に見えるかい？」
「ガイアさんの優しさは妻の私が一番良く知っていますよ。その、誠実さも」
「旦那と婚姻以外の契約を結ぼうってのか？」
「それに見合う報酬が思い当たらないのが申し訳ないところですが…」
「いらん――そうだな。最後まで、諦めるな。それが報酬で良い」

そう、ルフレはまだ諦めてはいないのだ。
半身とも呼ぶ相手をその手にかけた絶望を糧にして、ファウダーの支配を入り口にして、彼女の中にギムレーは覚醒してしまった筈なのに。
辛うじて残るヒトの部分が今、最後の策を成そうとしている。
「ココはまだ、ヒトのままです」
ルフレは自らの心臓がある辺りをトンと指先で示した。
「今ならばまだ間に合います」
その表情が苦しげに歪む。今も彼女の内側では竜の力と魂が荒れ狂っているのだろう。ガイアは無言で剣を構えた。暗殺者の好むような薄い刃の剣だった。それでも、ルフレの薄い胸を貫くには充分だろう。
誘うようにルフレが再び両腕を広げる。柔らかな光を宿した瞳が笑みの形に細められた。
苦痛を堪えるようにガイアの顔が歪んだ。
傷は、先ほど全て癒されて痛む場所はどこにもない。しかし、胸がひどく痛む。ぎりぎりと締め付けられるような痛みは意思に反した行いに対する、彼の身体が示す拒否反応だろうか。

剣を構えたまま動こうとしないガイアに焦れたようにルフレが声をかけた。
「ガイアさん――大丈夫ですよ。あなたが殺めるのは人間ではありません。世界を滅ぼそうとする邪竜。憎むべき相手なのですから」
その言葉で、ガイアの心はようやく決まった。

ガランと剣を投げ捨て、ガイアはルフレを抱きしめた。
「ヒトであろうが竜であろうが、おまえがおまえであることに変わりはないだろう」
「――ガイアさん」
はじめてルフレの声が震えた。
「すまん。俺にはやれそうもない」
同じく震える声で紡がれた言葉。ルフレの瞳が見開かれ、笑みの形に細まった。
「ふふ。私の、誤算ですね。ガイアさんは私が思う以上に優しい方だった、ということでしょうか」
唐突に笑みが消え、ルフレの顔が再び苦痛に彩られる。
苦しげに息を継ぐ唇を労わるようにガイアが塞いだ。その苦痛も、彼女の中に目覚めたヒトならぬ魂も、全て奪い去ってしまえれば良いと。そう願いながら深く口づけを繰り返す。
そっと肩に触れられて、ガイアはようやくルフレから顔を離した。
ルフレの顔にはもはや苦痛の色はない。ただ静かな笑みが広がっていた。
「マークに、伝えてください」
穏やかな声がそう告げる。
「強く生きなさいと。一緒にいられなくなってごめんなさいと。――そして、愛していますと」
少しずつ色を変え、ヒトのものではなくなってゆく瞳。
ルフレの頬に触れながら、どこか茶化したようにガイアが言う。
「俺にはなんの言葉もなしかい？」
その言葉に笑みを返すとルフレはガイアの頬に触れ。

最後の口づけを与えた。

ルフレに口づけられた瞬間に、視界がぐるりと回るのを感じて。
次に目覚めた時ガイアはイーリスにある自警団のアジト、その入り口に座り込んで居た。

腕に、ファルシオンを抱えて。





２．


クロムとルフレが自警団の精鋭を率いて王都を発ってから十日ほど後のことだった。
彼らの向かった方角――ギムレー教団の総本山、竜の祭壇の位置する方角で天を突く漆黒の雷光が空を舐めて。次いで沸き上がったのは黒雲。
美しく晴れ渡る空をひたひたと侵してゆく暗黒に人々はおののきつつ神竜へと祈りを捧げた。

マークが自警団の詰め所の入り口で父を見つけたのは偶然のことだった。
クロムが団員の殆どを率いてペレジアへと向かったために、常と違い静かな建物で。ゆっくりと母の部屋で戦術書でも読み耽ろうと偶々足を向けたのだった。
扉にぐったりともたれかかるようにして座る父親の腕に抱えられたものが何かに気づいて、マークの眉根が思い切り寄った。
嫌な予感に肌が粟立つ。まだ変声期の来ない少年の声が、呼びかけた。
「父さん…？」
方々が裂けた漆黒のマントに散る赤は、血のように見える。反応もなくぐったりしたままの父親の肩を掴み、焦れたように揺さぶる。
「父さん！」
「――っ、う…」
僅かに漏れた呻きにマークは安堵の息を吐いた。

母の部屋へと父を伴い、椅子に座らせて手当ての準備をする。
「マーク、必要ない。傷はひとつもないんだ」
父の言葉にマークの手が止まった。
「だって父さんそんなに――」
血が、そう言おうとしたマークを遮るように、父は手袋を外すと傷ひとつない腕をさらした。
その手袋もあちこちが破れて血だらけで。満身創痍と言えるほどの、致死量を越える血液に衣服を重く染めながら、確かに傷ひとつ、ないようだ。
聞きたいことが一度に浮かんで。
そのどれも口に出すのは保留にして。マークは茶を淹れることに決めた。

　　　◇◆◇

イーリス聖王国の王都、その中枢である王城を訪う小さな影があった。
身体に対していささか大きすぎる黒のローブを纏った少年は門兵たちとは顔見知りのようで、さして誰何も受けずに城内へと消えた。
幸い、目当ての相手は訓練場に居た。
王族専用のその場所に一般兵の姿はなく、模擬刀を無心に振るう濃紺の髪色の少女と、離れた場所に佇む侍女たちの姿があるのみだ。
少年がそんな侍女たちの頭にあたる、顔見知りの女に取り次ぎを申し出る頃には少女もこちらに気づいて訓練をやめ、汗を拭いながら歩み寄ってきていた。

「マーク」
「こんにちは、王女殿下」
臣下としての礼をとりながら言う。
戦場や各国を巡ることの多かったマークの両親をルキナは知らない。しかし、クロムの親友を両親に持つマークは、両親の居ない間を城で過ごすことも多く、自然ルキナとマークは幼馴染として育ったのだった。
そうして供に年を重ねて。彼女の弟やその両親のみの気安い席では『ルキナさん』と少女を呼ぶ幼馴染みはいつからか、他の目がある場所では臣下としての分を示すようになっていた。
それが、ルキナには不満だった。しかしそれを言い立てても、やけに弁の立つこの年下の少年は簡単にルキナを丸め込んでしまうことも分かっていたので、まずルキナは人払いをした。
軽く目線で示すだけで彼女の意を汲んだ忠実な侍女達がしずしずと下がって行く。
「――ルキナさん」
それでようやくマークはルキナの知る彼に戻ってくれる。
「久しぶりですね。いつでも遊びに来てくれれば良いのに…ここには本だって沢山あるんですから」
ルキナの拗ねたような口調にマークが苦笑する。
「あはは。王族専用の図書室に一般人の身でそう度々入れてもらうわけにもいきませんからね〜」
「マーク！あなたは私が小さい頃から家族のようにして育ったんですから。そんな、他人行儀なことを言わないでください」
「家族、ですか？」
意味深に切られた言葉と笑みにルキナが動揺するのがおかしくて。マークはくすくすと笑いだした。
「っ、笑わないでください！」
「ああ、すみませんでした。王女殿下にご無礼を」
「ルキナです」
「はい。すいませんルキナさん」
そこでルキナはマークが抱えた大きな細長い包みに目を留めた。
「あの、それは？」
「ああそうでした。これをルキナさんに届けに来たんですよ」
言われて初めて思い出したかのように――彼に限って何かを忘れるなどということがあるとは思えないのだが、マークは言った。
「わたしに？」
マークがするりと包みをほどくとそこに現れたのは眩しいばかりの白刃。
「――――え？」
凪いだ表情でこちらを見つめるマークと、美しい剣を交互に見比べる。
状況が飲み込めなかった。
いや、分かっては、いた。だがそれは彼女の父が常に手にしていた筈の剣で。つい先日南西の方角から広がり始めた黒雲に不安な気持ちを抱えながらも一心に帰りを待ち望んでいた父だけが持つ筈のもので。
よく似た偽ものだろうかと、まず思う。だがそれをマークが彼女に渡す理由が分からない。

「宝剣ファルシオン。自警団詰め所の入り口に、剣だけがあるのを今朝見つけました」
淡々としたマークの声が遠くに聞こえる。
「これはルキナさんが持つべきものですから、渡しに来たんです」
聞きたくはなかった。何故剣だけが戻ってきたのかなど、考えたくもなかった。
そんなルキナの願いは叶わず。疾風のごとき勢いで城内に駆け込む天馬の影が視界を過ぎった。

　　　◇◆◇

ルキナはひとり泣いていた。いつも家族で過ごした中庭の片隅にある東屋で、ファルシオンを抱え静かに泣いていた。
父の向かった竜の祭壇は、黒い雷撃があたりを駆け巡った直後に崩壊した。供に向かった自警団員の半数は崩落に巻き込まれ、室内戦に向かぬからと外の守りに留め置かれた騎馬の騎士たちだけが王都に帰還した。
崩壊後の竜の祭壇からは異形の兵士たちが後から後から沸き起こり、行方不明者を捜索することも叶わず。聖王クロムが王都に帰還することも、ついになかった。

お父様は生きている筈と、その思いをルキナの手にある宝剣が否定する。
なぜこれだけが戻ったのか。何故お父様を守ってくれなかったのかと、ただ宝剣のことが憎かった。
「おとうさま…」
きゅ、とファルシオンを抱きしめてルキナは涙を流し続けた。
かさ、と庭木を掻き分ける音に顔を上げる。そこには、マークが居た。
彼女に降りかかった不幸の発端である彼を憎めば良いのかもしれない。それでも彼の顔を見ると暗澹とした心がわずかに和むのが分かった。
「ルキナさん」
彼の顔に笑み以外が浮かんでいることは珍しい。どこか苦しげな表情だった。そう、彼は両親を一度になくしたのだ。ルキナにはまだ母が居て、弟も居る。だがマークはひとりきりになってしまった筈だった。
伸ばされた手に縋りつく。泣き濡れた顔を隠すことも忘れてルキナはマークに抱きついていた。からんとファルシオンが石畳を叩く音がした。
「マーク、お父様は…あなたのお父様とお母様は…」
「ルキナさん、聞いてください」
ルキナの身体を優しく離して、マークは石畳に転がった宝剣を拾い上げた。
立ち尽くすルキナの前にマークがひざまづく。
その手に持ったファルシオンの刃を自らの胸に当て、柄をルキナの方に向けて捧げ持った。
一体何をと目を見開くルキナにマークは優しく語りかけた。
「ファルシオンを、取ってくださいルキナさん」
「マーク？」
それ以上は何も言わずに宝剣を取るよう促すマークに気圧されるようにして、ルキナはその柄を手に取った。
涙に濡れた空色の瞳をマークの深紅の瞳が真っ直ぐに見上げる。いつか、彼らの父と母がそうしたように。
「ルキナさん、僕があなたの影としてあなたを支えます。ですからあなたはその両足できちんと立ち上がって、人々を導いてあげてください――クロム様がそうしていたように、イーリスの至高の光として」
それは騎士が主君にする誓いに似た光景だった。だがそれ以上の深い繋がりがふたりの間にはあった。
「マーク、私は…」
「この命のすべてを捧げることをここに誓います。王女殿下」
そう言われ、ルキナの瞳は一度迷いに揺れて。しかし一度閉じられた瞳が再び開いた時には深い青を纏いマークを見返した。
「その誓い、受けましょう。私の命が尽きる時をあなたの命が終わる時として。必ず生きて、世界に平穏をもたらしましょう」
「はい。この身命は常に我が君と共に」
そう言って、マークがファルシオンの刃に口づけた。

これはマークが彼の両親と決別する道を選び取った瞬間、同時にルキナが絶望の未来を切り開く決意を固めた瞬間でもあった。





３．


「マーク、早くこちらへ！」
　声を枯らさんばかりの悲痛な叫びにも、マークが背後を振り向くことはなかった。
　いや、振り向けなかったと、言った方が正しいだろう。
　雲霞のごとく沸き上がる屍兵たちを雷撃で一掃する。かたちも残さず屍兵の身体が塵へと還ったのもつかの間、すぐにまた新たな屍兵が床から沸き上がる。
「行ってください、ルキナさん！」
　完全に姿をあらわす前に雷撃を落とす。ざらりと、再び塵に還る異形の生物たち。
「いけません！あなたも一緒に――」
「駄目です！！」
　振り返らず、声を張り上げる。視線は前に固定したままで。
　一際大きな魔力を練り、巨大な雷撃を一帯に疾らせた。
「ファルシオンをよすがに過去と現在（いま）を繋ぐと、ナーガさまは言ったのでしょう？ルキナさん、あなたがまず行かなくては何も始まらないんですよ」
　轟々と響く雷鳴のなか、振り返り、言う。
「僕はここでもう少し敵の足止めをしてから後を追います」
「でも…だって…」
　青い瞳に涙を浮かべ、いやいやをするようにルキナがあたまを左右に振る。
「―― 行きなさい！」
　一際強い口調でマークがそう言うと、ルキナはびくりと肩を震わせた。
「―― 大丈夫ですよ。母さんほどではないけれど、撤退戦のための策だって、沢山知っているんですから」
　口調を和らげ、安心させるように笑みを浮かべて。
　ルキナの後ろ、先を行っていた仲間たちがなかなか来ないふたりを心配して戻ってくるのが見えた。
　名を呼ばれ、ルキナが背後を振り返る。
「マーク、先に行って待っています！」
　必死の顔でそれだけ言うと、ルキナはもう背後は振り向かず駆け出していた。

　斃しても斃しても、とめどなく沸き上がる屍兵の群れ。
　これまでの戦いとは明らかに状況が違うことに、マークはとうに気づいていた。
　―― 恐らく、近くまで来ているのでしょう。
　冷静にそう、分析する。
　屍兵は零れ落ちたギムレーの力の残滓。その源が、今も力を溢れさせ続ける黒い泉が、すぐ、近くまで来ている筈だった。
　一際大きな雷鳴が辺りを駆け、篭められた魔力を放出し尽くした魔道書がざらりと灰燼に帰す。
　ぱり、と最後に疾った雷撃の残滓の向こうに、自身とよく似た黒のローブ姿の影があることに気づくと、マークは顎を引きそちらを見据えた。
「―― 久しぶりですね、マーク」
　微笑み、小首を傾げ、言う。声も、慈愛に満ちた眼差しも、姿も仕草もそのままに。
「母さん」
　母ではない。分かっていても、そう呼んでしまった自分に、マークは少なからず驚いていた。
「ようやく会えましたね。随分と、探しました」
　慈母の微笑みが、うっそりとした笑いに変わる。
「私の裡に押し込めた魂をより深い絶望に落としこめるために、あなたの命が必要なのです。勿論、この母のためにその命、捧げてくれますね？マーク」
　マークはただ無言で、腰に下げた長剣を抜き放ち、母に ―― ギムレーに向けて構えた。

　―― 父さんは、間に合わなかったようですね。

　意識の大半を前方に向けたまま、頭の片隅でそのことを思った。

　　　◇◆◇

　暖めたカップへ茶を注ぐと、気持ちの和むような芳香が広がった。母の愛用していた茶器を慣れた手つきで使いながら、マークはガイアに茶を渡し自らもカップを手に取った。
　ふぅふぅとまだ熱い茶に息を吹きかけると白く湯気が上がる。慎重に温度を確かめながら茶を一口すすると、マークはちらとガイアの様子を伺った。
　どう贔屓目に見ても満身創痍の無傷の父はせっかく淹れた茶に手を出す様子もなく、無言を貫いている。
　マークはため息を一つつくと、自分から話しかけることにした。
「父さんの傷を癒したのは、母さんですか」
　マークの母は ―― ルフレは軍師だ。癒しの杖は使いこなせない。それが分からぬ筈もないのに、あえてマークはそう問うた。
「母さんは、ギムレーに ―― 負けてしまったんですね」
　静かなその声に、初めてガイアが顔を上げた。
「おまえ、どうして ――」
「僕は、母さんの息子ですよ。母さんの血を引いた、息子なんです」
「母さんが話したのか」
「はい。僕には…母さんのようにギムレーの刻印はありませんが。知る必要のあることだから、と」
　カップのふちから、ふぅと息を吹きもう一口茶をすすった。
　おっとりと首を傾げ、ルフレに良く似たその顔でガイアを見つめる。
「父さんは ―― これからどうするつもりですか」
「俺は……」
「もう、自警団には戻らない、つもりですね？」
「……ああ。イーリスを、出るつもりだ」
「母さんを、助けに行く？」
「ああ。必ず取り戻す」
「なら、僕ともお別れですね」
　ルフレが浮かべるものと似た、感情とは関係なく浮かぶ笑みを表情に貼り付けて、マークが言う。
「一緒には来ない、か」
「はい。僕はもう、仕えるべきあるじを決めてしまいましたから」
　―― わたしの命は、クロムさんのものですから。
　言う言葉までそっくりなのだから、親子というのは面白い。

　道を違えたその日以来、マークは父に会ってはいない。

　　　◇◆◇

「そんな鋼の塊で、私と渡り合えるとでも思っているのですか？」
「さあ？なにごとも、試してみなければ分からないと、母さんに教えられましたから」
「―― 良いでしょう。すこし、遊んであげます」
　言葉が終わると同時にマークの視界からギムレーの姿が消えた。
　消えた、と思った一瞬後には目の前に青銀髪の流れがあらわれ。マークは背後に吹っ飛ばされていた。
　激しい衝突音と共にぶつかった神殿の太い柱がぴしりと歪む音が、マークの背中ごしに鳴る。
　ごほごほと何度も咳き込む。肋骨を何本かやられたかもしれない。鈍い痛みと霞む意識に顔をしかめながら立ち上がり、奇跡的に手放さずにいた長剣を再び構えた。
　今度はゆっくりと、見せ付けるようにギムレーがこちらに歩いてくる。コツコツと長靴が石畳を叩く音が、やけに高く響く。
　その歩みが、マークから随分と距離を置いた位置でぴたりと止まった。
　ギムレーの唇には、再び恐ろしい笑みが浮かんでいた。
「今日はなんて良い日なのでしょうか」
　うたうように、ギムレーが言う。
「この器の絶望の糧を、ふたり揃って屠れるなんて」
　ぴたりと首筋に突きつけられた短刀の刃先を愛おしむように撫でながら、
「―― ねぇ、ガイアさん」
　ギムレーは新たな贄の名を口にした。
「父さん！」
「おう。無事か、マーク」
　短刀の、ギムレーが触れた刃先から黒い雷撃が伝わる。
　ガイアは素早く短刀を手放し、ギムレーから距離を取るように飛び離れた。
「今まで一体どこに居たんですか」
　ガイアの方へ駆け寄ろうとするマークを手で制する。
「―― 話は、あとだ。まずはこの場を切り抜けるぞ」
「はい！」
　瞳に新たな力を宿し長剣を構えなおしたマークの表情は、しかしすぐに凍りついた。
「私も舐められたものですね」
　再び一瞬で移動したギムレーの右手の指先が、マークの心臓の真上にぴたりと触れていた。
「とても不愉快です。まずはあなたから、死になさい」
「―― っ」
　ぐしゅりと鈍い音がして、ぱたぱたと血が溢れ落ちた。
　不快げにギムレーが表情を歪める。
「本当に、人間とは不可解です」
　手首を捻り、なかを抉るとガイアは声もなく苦鳴をあげた。
「父さん！！」
　わずかに離れた位置で、ガイアに突き飛ばされた状態から跳ね起きて。マークが叫ぶ。
「来るな！」
　マークを制止する、その口からもあふれ出る血液。
　ひゅ、と降られたガイアの右手から放られた輝きをマークは反射的に受け取った。
「！これは、まさか」
「行け！―― それを持って…過去へ」
　咳き込む、新たに赤が溢れる。
　マークが駆け出すのを確かめて、ガイアはギムレーの方へと向き直った。
「気は済みましたか？」
　冷たく言い放ち、ガイアの腹を易々と貫いた右手を一気に引き抜いた。
　ばしゃりと赤が振りまかれ、力を失ったガイアが膝をつく。
　生き物のあたたかみの感じられぬ竜の瞳が冷厳とガイアを見下ろしている。
「ああ。もう、死んでしまいますね。あっけない」
　つまらなさそうに呟いた。
「あいする夫の死に、ルフレもさぞかし絶望していることでしょう」
　そこにルフレが宿っているかのように左胸に手を当てながらギムレーがうっそりと微笑む。
　その、表情が、凍りついた。
「何故 ――」
「ルフレが…あんたの中に、居ないかって？―― 俺が、盗んだから、に、…決まってるだろうが」
　どくどくと、腹から溢れる血潮は止まる様子もない。それでもガイアは笑みを浮かべていた。ギムレーのことを嘲弄するかのような、笑みを。
「まさか、あの子供に託したあれは」
「そう。神竜の…涙だ」

　　　◇◆◇

　―― ルフレはまだ絶望しきってはいないわ。あなたが、生きているから。そしてマークが。

　チキが言ったその言葉を信じ、ガイアは『それ』を探し続けた。
　全ての時間軸に在る神竜の存在が交差する場所に、神竜の涙は宿るという。
　あるいは、それならば。
　ギムレーの裡に閉じ込められ、邪竜の絶望の糧として生かされているルフレの魂を救うこともできるかもしれないと。
　かつての仲間たちが邪竜との戦いで次々に死地を辿る中、ガイアはただ淡々と神竜の涙を探し求めた。ようやく、ヴァルム大陸の片隅にある神殿でそれと思しきものを手に入れた時には、見知った仲間は誰一人生き残ってはいなかった。その代わりのようにして人々の噂に上っていたのは微かな希望の光のこと、かつての英雄達の子供らの戦いの話だった。
　彼らを助け、共に戦う道もあったかも知れない。
　だがガイアが取ったのはそれとは逆の道。地下へと潜り、ギムレーの居場所を探る道だった。

　ギムレーの肉体に神竜の涙でもって触れ、そこに篭められたルフレの魂を盗み出す。

　一度きりの機会を逃さぬために。

　　　◇◆◇

　遅れて駆けてきたマークの姿にルキナたちは安堵のため息を洩らした。
「ナーガ様」
　神竜の姿を振り仰ぎ、ルキナが言う。
『皆、ルキナの周りへ ――』
　ナーガが、ルキナの持つファルシオンへ向けて手をかざした。
　どこか懐かしくなるような、あたたかな光に包まれながら。彼らは過去へと続く道へとその身を預けたのだった。

　マークが懐に抱いた宝玉の存在には、誰一人として気づかぬままに。





４．


　イーリス聖王国、王都。
　人々で賑わう目抜き通りをゆく、長身の男と小柄な娘の姿があった。男は黒いマントに身を包み、娘はサイズの合わぬ黒いローブを纏っている。睦まじげに寄り添い歩く姿は、恋人同士のようにも見える。
「ですから。別行動にした方が良いと思うのですが」
　ことりと――それが癖なのだろう、小首を傾げて娘が言った。動きに合わせて、すんなりと伸びた青銀の髪が肩口を滑る。
「まあ、おまえの言うことにも一理あるが、な」
「どちらのお店もお一人様一個の限定品なのですから。両方、欲しくはないのですか？」
「俺は、菓子は分けずにまるごと食いたい」
「二回並んでは？というか、私はそれほど欲しくはないですし。両方、差し上げますよ？」
「人気だからな……並び直せるほど在庫はないだろう」
　ぽん、と、大きな手のひらが青銀髪の小さなあたまに置かれた。
「それと、だ。おまえが菓子を食ってるのを見るのも。自分で食うのと同じぐらい好きなんだよ」
　照れ隠しなのだろう。視線を外しながらそう言ったガイアを、ルフレはぽかんと見上げた。
「ガイアさん……」
「ん。なんだ？」
「私、もしかして愛されてますね」
「…………」
「ガイアさん？……きゃ」
　くしゃりと。青銀のあたまがかき回される。
「当たり前のことを聞くな。阿呆」
　早口に言われた言葉にルフレは堪えきれずに笑いだした。
　すぐに、笑い声はおさめられた。
　気配の変わったルフレをガイアが不思議そうに覗きこむ。
「どうした？」
「私たち、囲まれているみたいです」
「はん？ここは王都だぜ」
「しかも、どうやら……」
　言葉の途中で、ルフレが察知した通りの人々が、二人を取り囲んだ。ガチャガチャと鎧の擦れる音が耳に障る。ざわざわと場所を空けた通行人たちが、遠巻きに視線を送っていた。
「イーリス聖騎士団」
「でしたね、やはり」
　戸惑いを隠せぬ二人の前に、隊長らしき――顔に覚えがないことから、“戦後”入隊したと思われる男が進み出た。
「城まで、同行してもらおう」
　醒めた声音がそう告げた。

「で、ものものしく城まで連行した理由が、これか？」
　呆れたようにそう言ったのは、ガイアだった。
「……すまん」
　神妙に答えたのは、この城の主。イーリス聖王国、聖王クロムその人である。
「こちとら、一応闇に紛れる生業なんだ。あんな目立つ真似、迷惑この上ないんだよ」
「その。すまん」
　どこまでも神妙である。
「だが、な」
「ガイアさんが悪いんだよっ。まだルフレさんとの結婚式、挙げてないなんて！」
　ぴょん、とひとつ跳ねて抗議を示したのは、王妹リズ。嫁ぎ先であるフェリア連合王国から出産のために里帰りしているのだった。母親と共にイーリスに来ているウードも、弟か妹の誕生を心待ちにしているらしい。
「と、言われると。その通りだし、な」
　歯切れの悪い聖王に、ガイアが笑みを向ける。意地悪げに。
「普通に話を通せば済むことだと思うがね。それとも、民草の些事を引っ掻き回して遊ぶのがこの国の王様の趣味かい？」
「……随分な言い様だな」
「先に喧嘩を売ったのはそっちだと思うがね」
「こうでもしないとお前はのらりくらりと逃げ回るだろうがっ」
「ちょっと、おめでたい日に喧嘩しないで！お兄ちゃんも、それ、礼服でしょ？破いたりしたら女官長に怒られちゃうよ」
　あわわ、と、リズが割って入る。彼女自身も、ゆったりとしてはいるが昼用の礼服に身を包んでいた。
「それに。ルフレさんの仕度、終わったみたいだよ？」
　リズの言葉に重ねて扉が開き。入ってきた、その姿に。クロムとガイアは言葉を失った。
　いつもは厚く額を覆っている前髪が上げられて、それだけでも随分と印象が違うのだが。顔にはきちんと化粧が施されて、アーモンド形の大きな瞳にもきっちりとラインが引かれていつもの少女らしい印象は鳴りを潜めて。美しい、ひとりの女性がそこには居た。

　かつて、自警団の詰め所として使われていた建物は、今日だけは思い思いに飾り立てられて。手作りのリースやリボン、花々があしらわれ華やかな雰囲気に包まれていた。
　結婚の祝詞を述べ、式をすすめているのはリベラだった。促され、まずガイアが、続いてルフレが誓いの言葉を述べる。
　純白のヴェールに覆われた顔はしかとは見えないが、その身を包む雰囲気がまず違う。輝くような、匂い立つような神々しさを放つ花嫁だった。
　かつて、戦場において鬼神と恐れられた稀代の軍師の別人のような艶姿に、男たちはぽかりと口を開け、今朝からの苦労の報われた女たちは満足げに微笑んでいた。
　そっと、ガイアがヴェールを持ち上げた。
　いつになく真剣な瞳がルフレを見つめ、応えるようにルフレが見上げる。
　ほんのりと、桜色に染められた唇に、誓いのキスが落とされた。
　式を終えた後は中庭に場所を移しての宴になった。心づくしの料理がテーブルには並べられている。花嫁の周りを取り囲む着飾った女性陣の姿が目に楽しい。
　華やかな一角から離れて、苦笑混じりにグラスを傾けているのはガイアだ。どうしても、こういう場では花嫁が主役になってしまう。近づいてきた長身の影に、ガイアがグラスを掲げてみせた。カチリと、クロムの持つグラスがガイアのそれとぶつかり乾いた音をたてた。
「俺のルフレを嫁にやるんだ。必ず幸せにしろ」
　お膳立ての一端を担ったにしては、憮然とした口調でクロムが言った。
「……お前らが無二の親友なのは知ってるがな。そこだけは訂正させてもらうぜ。俺の、ルフレだ」
　複雑な心境を見透かすようなにやにや笑いを浮かべ、ガイアが応えを返した。
　ガイアとクロムとは逆の一角で更に盛った料理を懸命にぱくついていたマークに話しかけたのはルキナだった。
「マーク」
「なんですか、ルキナさん」
　口いっぱいに頬張っていたものを飲み込んでから返事をする。
「私はあなたのお母様に、お会いしたことがあったようです」
　戸惑ったようなその言い様から、マークはおおよその事情を察した。
「――それは」
「未来で。一度だけ」
「僕の母さんは、どんなひとでしたか？」
　微笑むルキナ。
「とても、綺麗な方でしたよ」
　未だ幼かったルキナはよく覚えてはいないのだが。おそらくあれはヴァルムでの戦に勝利した、その祝勝会。
　クロムが「俺の無二の半身（とも）だ」と言って、ルキナに会わせてくれた美しい女性がいた。
　小柄な身体に薄紅色のドレス。スカートはふわりと広がって。高く結い上げられた青銀の髪は艶やかで、柔らかく笑む紅い瞳が印象的な女性だった。
　父も母もその女性と随分親しそうで。それでも、お父様はお母様のものなのに、と、その美しい女性に対して穏やかでない気持ちを抱いたことを思い出す。
　それからしばらくして、マークと初めて会ったのだった。
　思えばあの祝勝会の時、ルフレには既に愛する夫が居て。ルキナが過去に来て見えたルフレには未だ伴侶は居なかった。ルフレが、未来で一度だけ出会ったあの美しいひとだとルキナが気づかなかった理由がそこにあった。
　あの時の女性は、花嫁衣裳に身を包んだ今のルフレと重なり合う。愛する人に愛されている、その、柔らかな微笑が。全ての装飾に勝ってルフレを美しく見せていた。
「もっと早く気づいていれば……未来にルフレさんなど居なかったと言って、あなたを不安にさせることもなかったでしょうに」
　すみません、と、謝りかけたルキナを身振りで遮ってマークが言う。
「ルキナさんが気に病むことではありませんよ。そのおかげで、僕は父さんのことも思い出すことができたんですから」
　マークが伸ばした手が、ルキナの頬に触れた。
「イヤリング、よく似合っています」
「あ、あの、これは、その……」
　にこりと、思わず見とれるぐらい嬉しそうにマークは笑った。丸一日悩み抜いた末に選んだ、青い髪によく映える、彼の瞳の色に似た真紅の宝石があしらわれたイヤリングだった。
「僕にもまだ、望みはあるということですね」
「マーク……私は……」
「すぐにとは言いません。ルキナさんの気持ちの整理がつくのを、僕は、いつまでも待ちます」
　真っ直ぐに見つめる紅玉の瞳を、深青の瞳が戸惑いを浮かべ見つめ返した。
　マークが苦笑を浮かべ、一歩退く。
「母さんにまだお祝いを言っていませんでした。ちょっと、行って来ますね」
　軽い調子でそう言うと、マークはさっさと踵を返した。
　黒衣の後姿を見送りながら、ルキナはそっと、自らの頬に触れた。
「母さん、おめでとうございます！」
　ようやく人の波が引いて、一息ついていたルフレにマークが嬉しげに駆け寄った。
「ありがとう……というのもおかしな感じですが。祝われるのは嬉しいものですね」
「勿論ですよ！僕は母さんの晴れ姿が見られただけで今日は満足ですが」
　にこにこと、一息にそう言うと、急に何かを思い出したのか一つ手を打ち合わせた。
「そうだ！これ、先日コートを虫干しした時に見つけたんですけどね」
　ごそごそと黒衣のポケットを探る。
「内ポケットの縫い目の間に隠すように入っていたんです」
　マークの手のひらの上で輝く涙型の、翡翠色に輝く宝玉にルフレは視線を釘付けにされた。
「これ、は」
「そうなんです。母さんが持っている“神竜の涙”と色は違いますがそっくりでしょう？偽物にも見えませんし」
「はい。クロムさんからお預かりしているあれとよく似ていますね」
　ギムレーの消滅した荒野でクロムが見つけたという、宝玉。涙型に煌くそれは、伝説にある神竜の涙に似ていたが、色が違った。その宝玉は血のような紅色だったのだ。
　魔道士や呪術士たちの検証の結果、宝玉にはギムレーに屠られた人々の魂が宿っているということまでは分かったが、魂を解放する方法は未だ判明していない。そこで、宝玉をイーリスに留め置くよりも各地を巡る機会のあるルフレが持っている方が良いだろうと、クロムの独断でルフレへと預けられたのだった。大きく反対する声が上がらなかったのは邪竜に由来するであろうそれを、王都に留め置きたくはないとの考えが重臣たちの間にあったからだ。
　宝玉を持つのと逆の手の人差し指をぴしりと立ててマークが言った。
「これはきっと、未来の世界にあった神竜ナーガの涙なんですよ。僕の軍師としての勘がそう言っています」
「おそらく、そうなのでしょうね」
　応えるルフレの声はどこか上の空だ。
「母さん？」
「なにか、感じるんです。触れてはいけないような、けれどどうしても触れたいような。恐ろしいような、懐かしいような……」
　そっと、ルフレの手が伸ばされた。マークの持つ宝玉に触れた刹那、ルフレの全身は雷に打たれたような衝撃を受けた。反射的に目を閉じる。
「マーク、大丈夫ですか――っ」
　いかなる時も冷静に軍を導く彼女にして、予想外の状況だった。
　先ほどまであった生き物の匂い――花の匂い、食べ物の匂い、酒の匂い――人々の息遣い、話し声、足音、体温、それら全てが。一瞬にして消えうせていた。
　廃墟と化した自警団詰め所の中庭に佇むのはルフレただ一人――いや、二人、居た。
　ルフレ自身は鏡に映したようだと思ったが、実際は違う。ルフレが目にしている彼女は黒の外套の背に青銀の髪を流した、ルフレが最も慣れ親しんだ彼女自身の姿に瓜二つだった。
「ギムレー……ではありませんね。あなたは、わたし」
　淡く笑みを浮かべた紅玉の瞳に竜のごとき光彩はない。
「ようやく会えましたね、わたし」
　ルフレと全く同じ声で、口調で。もう一人のルフレが言う。
「あなたの力を貸してください。これは、私たちにしか出来ない仕事です」
　黒衣のルフレが両手を、手のひらを上にして差し出した。右の手にはマークが手にしていた翠に輝く神竜の涙、左の手には別室に置いて来たルフレ自身の黒衣に忍ばせていた筈の紅色の神竜の涙があった。
「手を、重ねてください」
　何ひとつ説明もなく、ただそれだけを口にした。
　普段のルフレならば、従いはしなかったろう。信頼に足るだけの情報も、信用に足るだけの裏づけもないのだから。にもかかわらず素直に両の手を伸ばしたのは、何故であったか。誰かが理由を問うたならば、彼女は『勘』と答えたかもしれない。知や武や勇の試される戦場で、疾く判断を為すために何よりも尊重すべきがそれであることを、ルフレは誰よりも知っていたのだから。
　それでも躊躇いがちに手を重ね合わせる。触れた手のひらはとても熱かった。と思った刹那、ふたりのルフレはひとつに溶けた。
「――フレ、ルフレ」
　急速に浮上した意識とともに目を見開いた。
　心配そうに覗き込む彼女の夫の姿があった。
「ガイア、さん」
　ガイアだけではない。クロムもマークも居た。皆一様に心配そうな顔をして、ルフレの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か。いきなり倒れるから驚いたぜ」
　慣れない格好して疲れちまったかな、と続ける。
「母さんすいません。僕が変なものを見せたせいで……」
　おずおずとマークが言い出した。
　それを聞いて、ルフレは閉じたままだった拳をそっとひらいた。両手に、それぞれの神竜の涙が握られていた。
　ぼんやりと瞬きを繰り返していた瞳に理性の色が宿る。
「おまえ、ルフレか」
　訝しげなガイアの問いを無視して起き上がる。
　何のてらいもなく、無造作に、ルフレは両手のひらを合わせた。拝むような形に合わさった手のひらの中で、ふたつの神竜の涙がかちりとぶつかり合う音がした。

　世界に虹が降り注いだ。
　この日人々は、懐かしい、けれど悲しい夢を見た。

「すみません、結局あなたも巻き込んでしまいましたね」
　申し訳なさそうにかけられた声に、ルフレはそっと目を開けた。声の響きを裏切らぬ、悲しげに眉根を寄せた自身の顔が目の前にあった。
「結局、あなたは何がしたかったのでしょう」
　今更ながらの問いかけに、私らしいですね、とルフレが返す。
「ひとつの肉体にふたつの魂が入っていれば、弾き飛ばされずに済むかと思ったのですが」
「では、失敗だったのですね」
「いえ。目的自体は叶った筈です。神竜の涙が壊れたからこそ私たちはここに飛ばされたのですから」
「ここ」
　自分たち以外にはなにもない、どこまでも虹のかかる空間だった。
「彼方と此方の狭間。虹のできる場所」
「……なにかの書物で読んだことがあります。魂が渡る橋のかかる場所がこの世のどこかにあるのだと」
「私も、同じ書物で知りました。空想の中の場所だと思っていたのですが、まさか実在したとは」
「はい……綺麗な場所ですね」
　遠く、遠く彼方まで折り重なるようにして続く虹の橋。
「私は――私たちは、死んだのですね」
「私はとうに死んでいます。あなたは、もうすぐ死ぬ、と言ったほうが正確ですね。神竜の涙を壊すためには近しい気配を持つ肉体をつかって、聖と邪と相反するふたつを接触させる必要がありました」
「成程。私たち以外に適任は居ませんね」
　もう一度、未来のルフレはすみませんと言って、ふかく頭を垂れた。
「ひとつ、質問があるのですが」
「はい」
「あなたは、ギムレーの裡に取り込まれたのではなかったのですか。何故、ナーガの神竜の涙に宿っていたんです？」
「それは……」
「俺が盗んだからに決まってるだろうが」
　ふたりのルフレしか居ないと思えた空間にいま一人の声が――ルフレにとってはごく身近な、愛しいひとの声が割り込んだ。
「「ガイアさん」」
　声が綺麗に重なり合う。
「まさか、もういっぺんおまえに会えるとはなあ」
　何をどう見分けるものか、迷いなく、彼の妻の頭に手を載せた。わしわしと遠慮なく、青銀の頭をかきまわす。
「いつまでもこんな場所に留まるもんじゃないぜ？迷っちまう。皆、待ってるんだ。早く行こう」
　恭しく妻の手をとった。
「はい」
　一度ガイアを見上げてから、ぽかんと見守るルフレを振り返った。そっと手を差し伸べる。
「さあ。行きましょう」
「いや。こっちのルフレは来ないだろ」
　ガイアの言葉に、双方から伸ばしかけていた手がぴたりと止まる。二人同時に、首を傾げた。納得がいかぬという風に。
「相変わらず、自分のことだけは見誤るよなおまえは」
「「はい？」」
「放っといたって、こっちのルフレは引き戻されるだろうよ。今よりもっと酷い状態、肉体ごと消滅した時にだって戻れたんだからな」
　綺麗にシンクロして大きな瞳をまたたかせる二人のルフレを、面白そうに眺める。
「けれど」
「記憶によれば」
「限りなく低い確率と、ナーガは言っていたのですよ」
「そう何度も奇跡が起きる筈はありません」
　頑迷に言い募るのを遮って、ルフレたちの背後を指差した。
「あれを見てもまだ、何か言うことがあるかい」
　ふたつの小さな頭が、同時に背後を振り向いて、
「「あ」」
　仲良くそう、呟いた。
　虹色の輝きに包まれた空間には異質な黒い一点が少しずつ広がってゆき、ルフレ一人分の大きさでぴたりと拡大を止めた。

　あちこちで、泣き声がする。
　まばゆい光に焼かれた瞳が徐々に視界を取り戻す。最初に見えたのは、彼女を庇うように抱きしめた夫の腕だった。
　辺りを埋めた冷たい光が完全に引いたのを確かめると、ガイアは腕の中の妻の顔を覗き込んだ。薄荷色の瞳が、紅玉の瞳を捉え安堵の色を浮かべる。
「なんだ、今の光は」
「分かりません」
　ぼんやりとそう答え、ルフレは自身の手を見つめた。
「神竜の涙が」
　ふたつの奇跡の宝玉は、粉々に砕け散っていた。
　すすり泣く声を辿るように、ルフレの視線が流れる。
　マークに肩をささえられたルキナが、常に冷静な彼女には珍しいほどに取り乱し、大粒の涙をこぼしながら泣いていた。時折呟かれる声が、お父様、お母様と、両親を呼んでいた。
　視線を順に転じていく。晴れの日に駆けつけてくれた子供たちが、こらえることも忘れて、泣き崩れていた。
「ここに、居たのでしょうか」
　未来で死んでいった彼らは、と。きらきらと、塵へと還りゆく宝玉の残滓を目で追いながら、呟いた。
　誰かに会ったような気がした、なにかを聞いたような気もした。けれど何ひとつ、思い出せなかった。
　ギムレーと共に消え去ってから戻るまでの出来事をなにひとつ思い出せなかったのと同じように。
「ただいま。ガイアさん」
　気づくとそう、言っていた。ガイアは一度目を見開いてから、笑みを浮かべて、
「ああ。おかえり、ルフレ」
　妻の身体をつよく抱きしめた。






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2013/9/29収納