『姫君と盗賊』







　イーリス城の一画、会議のための間や、官吏たちの集まる政務室などのある棟の中にその部屋はあった。
　そう広くはない室内に入ると、まず最初に目に入るのは大量の書籍だろう。
　左右の壁に天井まである備え付けの書棚が据え付けられており、そのほとんどの棚には既に大量の書物が並べられている。
　古今東西の地図、政治経済に関する新旧の論文、最新の測量技術に関する書籍、イーリス代々の貴族・諸侯の名称目録にはじまり、果ては医術書、呪術書、魔道書に至るまで。王城の図書室の粋を集めたように、あらゆる専門分野の書籍が一同に会していた。
　更に詳しく書棚を観察したならば、戦術・戦略について書かれた書物が最も多いことに気づいたかもしれない。
　ここは、イーリス聖王国の王妃が使う執務室だった。
　もっとも『王妃の執務室』と聞くと、事情を知らない他国の大使などは『王妃のサロン』の間違いではないかと首をかしげるのだが。

　先ほどまで居た客人の茶器を片付けていた侍女は、彼女の主に名を呼ばれて顔を上げた。
「アン、ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
―― 高貴な方にはそれに見合った話し言葉がございます。どうかわたくしごときにそのように気安くお声をおかけになりませぬように。
　王妃に仕え始めてしばらくは、口癖のように言っていた言葉がつい口からでそうになるが、踏みとどまる。
　この女主人に、そんなことを言っても無駄であることは、もう充分に分かっているからだ。
「わたくしでお役に立てることでしたら。妃殿下」
　どこまでも丁寧な口調で返す侍女に、王妃 ―― ルフレの口許に苦笑が浮かんだ。
　その表情を見てとって、もう一人の侍女 ―― こちらは、ルフレの執務机の脇のスツールに新たなお茶の支度を整えている途中だ ―― が、呆れたように口を挟む。
「アンには何を言っても無駄ですわよ、妃殿下。妃殿下とおんなじぐらいに石頭なんですもの」
「まあ。石頭なんてあんまりよ、ミリィ」
　同僚に対しては砕けた、少し怒りを含んだ口調ですぐさまアンが返すと、
「あたしも、そんな分らず屋のつもりはないんだけど…」
　と、傷ついたようにルフレが続ける。
「………………」
　三人でしばし見つめあうと、誰からともなく笑いだした。
「アンなら分かるんじゃないかと思って。夜会用のドレスって、注文してからどれぐらいで仕上がるものなの？」
　なんとか笑いを収めると、目尻に浮かんだ涙をぬぐいながらルフレが尋ねた。
お互いに顔を見合わせては、まだくすくすと笑いあっていたアンとミリィの動きが止まり、同時にルフレの顔を見つめた。
　アンの鳶色の瞳と、ミリィのエメラルド色の瞳が目一杯見開かれているのを見ると、どうやら非常に驚いているようだ。
「………………」
「………………」
　たっぷり十秒ほど、二人の侍女は見つめあうと、コクンと同時にうなずいた。
　王妃がこの城の住人になってはや五年(その内の四年近くは戦場に居たり、生死不明になっていたり、他国に誘拐されたあげくクーデターで城を奪われたりで不在だったが)、ようやく彼女たちの努力が実を結んだようだ。
　平民の身から急に王族の仲間入りをすると普通ならば、そのきらびやかな生活に圧倒されて、堅実だった人間も次第に驕り、贅沢に溺れていくものだ。
　ましてやそれが、自らを着飾ることを覚えたばかりの二十歳にも満たぬ娘だったなら ―― 毎日のように出入りの商人を召してドレスや装飾品を(しかも出来るだけ贅をつくして)作らせて、それを披露するための茶会や晩餐会を催し、貴婦人たちとお互いの装いを誉めあっては、新たな対抗心を燃やして新たなドレスや宝石を求める。飽きもせず、そのようにして毎日を謳歌するものと決まっている。

　なのに、この王妃ときたら。
　美しいドレスにも、宝石にも興味がなくはないようだか。それ以上に書物を愛してやまない。
　どんなにドレスをすすめても、勿体無いから、あたしには似合わないから、と必要最低限の衣装しか作らせない。
　今日も、二人は必死の思いで新たに作らせたドレスを、せっかく作ったものを着ないのは勿体無いと説き伏せて(泣き落としも含めて)王妃に着せたのだった。
　そうしなければ、この風変わりな王妃は小姓のような格好で一日過ごしかねない。
　その王妃が、夜会服について質問している。
　ドレスの話を自らすることなど、それまで一度もなかったことだ。

―― やったわね、アン
―― 長かったわね、ミリィ

　私たちの妃殿下が、ようやく自分を着飾ることに目覚めてくれた。
　抱き合って快哉を叫びたいところだがいまは職務中。
　アンは、王妃の質問に答えるべく口を開いた。
「一口に、ドレスと申しましても色々な種類がございます。一般的なラインのものでございますと、採寸から仮縫い、本縫いのあと最低限の装飾を施したとして一ヶ月 ―― 使う布全体に刺繍を施したり、他にないデザインを一から作り出す、などとなると職人の元に仕事を外注してからドレスそのものの製作にかかることになりますので。更にその倍の期間を見積もっておいていただければ確実かと」
　ですが、と、続ける。
「妃殿下のご要望とあれば、わたくしの父は他の依頼など全て後回しにして、最短で仕上げるだろうと思いますわ」
「そんなに頑張ってくれなくても大丈夫なんだけど…それと、ドレスを作るのは、あたしじゃないわよ」
　侍女ふたりのただならぬ雰囲気に、二人の勘違いを悟ったのだろう。ルフレが急いで訂正した。
　ルフレのその言葉を聞いて、二人はあからさまにがっかりしたようだった。
「妃殿下がお召しになるものではない、と申しますと…？」
「リズに。着て欲しいのよ」
「姫さまに――？」
　先ほどまでこの部屋で親友のマリアベルとお茶を楽しんでいた聖王の妹姫が、常とは違う沈んだ顔をしていたのを思い出す。
「リズがめいっぱい着飾って、見違えるような美女に変身すれば、あの煮え切らない甘党も自分の気持ちに気付くんじゃないかと思って」
「それは、ガイア様のことでよろしいのでしょうか」
　ガイアもまた、王妃の執務室にふらりと現れてはアンとミリィが王妃のために用意したお茶菓子をぱくついて帰っていく常連の一人だった。
　それとともに、ルフレが望む情報を手土産に置いていくのだが。そこまでは侍女たちには分からない。
「まぁ。それではリズ様はガイア様のことを…？」
　ミリィが驚いたように言う。
「確かに、ここ最近姫さまは頻繁にあの方のおられる宿舎に出入りされては、刺繍や料理などを習っておられたご様子でした」
「そう。この城に戻ったのが三ヶ月前。それからつい昨日までは、リズは毎日幸せそうにガイアの元に通っていたのよ。それなのに今日の浮かない顔 ――」
　はぁ、と、溜め息をもらす。

「妃殿下におかれましては何か事情をご存じでおられるようですわね」
「ええ、知ってるわ ―― たぶんガイアはリズに、近々イーリスを出ていくつもりだって話したのよ」
「まあ」
「それでは…」
「そう。だからあの甘党賊の目を開かせるために、リズをめいっぱい着飾る必要があるのよ」
　ぐ、と決意のこぶしを握りしめながら力強く宣言した。
「そういう事情でしたら」
「私たちもお手伝いします！」
　アンもミリィも、誰にでも分け隔てなく接する春の日差しのように明るく天真爛漫な愛すべき姫君の恋を、なんとしても叶えてやる決意に燃えていた。

　執務室の扉を叩く軽やかな音にルフレたちは会話を中断した。返事を返す前に扉が開く。
「ルフレ、居るか？」
　軽い調子で現れたのはこの城の主 ―― 聖王クロムその人だった。
　執務が一段落つく午後のこの時間帯に聖王が王妃の執務室を訪うことはこの城では珍しくないことだ。侍女ふたりも慣れた様子で新たな茶の用意を整えるため続きの間に消えた。
「クロム ―― どうか、した？」
　クロムは室内に入ってきたそのままの姿勢で、椅子から立ち上がり彼を迎えたルフレの姿を視界におさめたままぽかんと立ち尽くしていた。
「いや、その、珍しいな。おまえがそういう格好をしているのは」
「ああ ――」
　そう指摘されて、ルフレは今日の自身の服装を思い出した。
「これはその、アンとミリィに負けて仕方なく……やっぱ変かしら」
　着替えてこようかな、と小さく続けるルフレをクロムが慌てて制する。
「いやっ、よく似合っている。そのままで居ろ」
「そ？」
　クロムが愛しげにルフレの頬に触れると、ルフレがはにかんだように微笑んだ。
―― あの侍女たちに臨時手当でも出してやらんとな。
　侍女たちの働きに報いようと密かに決めたクロムの内心には気づかず、不思議そうにルフレが続けた。
「クロムなにか、急ぎの用事だった？」
「ああ。よく分かったな」
　常と同じようにして現れた夫の常ならぬ様子に気づいたのは、妻として戦友として常に傍に在り続けた彼女ゆえだったかもしれない。
「侍従長のことなんだが」
「トマスのこと？っていうと、王妃予算のはなしかしら」
「何か聞いているか」
「あたしが王妃になってからずっと積み立ててたお金が溜まってるから使ってくれって言われて」
　そこで言葉を切って、室内を見渡した。
「この執務室の改装に使わせてもらったんだけど。もしかして、足がでちゃった、とか？」
　ルフレに常にあたたかい茶を提供したいとの侍女たちの要望から厨房に近い位置の使われていなかった執務室を二間続きに改装し、大量の蔵書に耐えられるよう床の補強をしたり、新しい書棚を据えつけたりと割りと好き勝手に改装した自覚のあるルフレだった。
　とにかく使い切ってくれと、侍従長にせっつかれたせいもあるのだが。
「いや。まだまだ使い足りないらしい」
「―― え」
　ルフレが言葉を失うという世にも珍しい光景をしばし堪能してから、クロムは言葉を続けた。
「おまえがこの国の王妃になって何年も経つが」
「五年と少し、ね」
「侍従長は毎年王妃予算を計上し続けていたらしいんだがな」
　イーリス城の中にはルフレに好意的な者も多く居るが、出自の知れぬ ―― 今ではペレジア前国王の娘でありギムレーの血を引く者であると分かった王妃のことを快く思わぬ者も沢山居る。侍従長トマスはそんな中で、ルフレが城に上がった最初から彼女に好意的だった数少ない人間の一人だった。
「それは聞いたわよ。だから溜まったお金を使っちゃってくれって」
　お城の仕組みって不思議よね、とルフレが続けた。
「額は、聞いていないんだな？」
「なんか、たくさんあるからとにかく使えってせっつかれたけど」
「百万Ｇ」

「………………」
　今度こそルフレは完全に沈黙した。
「おまえがこの部屋の改装につかった額が大体十万Ｇだそうだ」
　つまり、予算の一割しか使えていないらしい。
「………………まって、クロム」
「なんだ」
「あたしひとりのためにそんなとんでもない額の予算が組まれてるわけ？」
「五年分の額だが。まあ、こんなものじゃないのか？」
　一年あたり二十万Ｇでも充分とんでもない額だとルフレは思うのだが、今確認したいことは別にあった。
「あたしの記憶違いかも知れないんだけど。予算って、そんなにたくさん繰り越せるものなの」
「問題はそこらしい」
　そこが本題だったらしい。
　ルフレが不在の間も侍従長は律儀に王妃用の予算を計上し、あれこれと理由をつけて王妃のために使ったと記録上は記した金貨を密かに取り置いていたらしい。ルフレが城に戻ったときに不自由のないように、との心遣いからこつこつと貯め置かれた金額は百万Ｇにものぼり、侍従長が私室で大切に保管していたという。
　クロムが説明を終える頃にはルフレの眉間の皺はくっきりと深まっていた。
「それって、簡単に言うと」
「横領、ということになるな」
　客観的に見ればそうなる。ルフレが城に戻ってきて、いざ取り置いていた金貨を国庫予算に再編しようと思って初めて、侍従長はことの深刻さに気づいたらしかった。
「じゃあ。このことが広く知られると」
「侍従長は責任を問われることになる」
「下手をすると、侍従長をそそのかして横領をさせた責任を、あたしも問われる、てことね」
　イーリス城に戻って三ヶ月。ようやく落ち着きを取り戻したクロムの治世にいらぬ影を落とすことにもなりかねない。反王妃派に勢いを持たせることにも繋がる。
　ルフレはしばし思考に沈んだ。
「このことを知ってるのは？」
「侍従長の様子がおかしいことに気づいて問い詰めたのが女官長。女官長に相談を受けたのが宰相。宰相から話を聞いた俺がいまおまえに相談している」
「トマス本人とクレアとマックス、ね。それならなんとかなるかしら……」
　クロムとルフレの密談はしばし続いた。



「ガイアさん！」
　背後からの呼び声にガイアはぎくりと立ち止まった。聞こえぬふりをして行くことも出来た筈、と立ち止まってから気づき舌打ちする。内心の動揺を無表情の下に押し込めてから、ガイアはゆっくりと背後を振り返った。
「リズ……なにか用か？」
　ガイアがつとめて出した冷えた声音にリズがぐっと押し黙る。胸元で組んだ手を更にぎゅっと握り締めた。
「用事とかじゃない、けど。ちょっとお話できたらなって」
「用がないなら行くぜ？これから仕事の報告なんでね」
「ルフレさんのところ？じゃあ、お仕事が終わったら……」
「悪いがまたすぐに出かけなきゃならん」
　リズの悲しげな顔をなるべく見ないようにしながらガイアは言葉を継いだ。
「そっか……ごめんね。呼び止めて」
「いや」
　最後まで無表情のまま、ガイアは踵を返し歩きだした。

　クロムと入れ替わるようにしてルフレの執務室に姿を現したのはガイアだった。
　侍女たちの用意した菓子を端から口に放り込む。侍女たちが下がるのを待ってガイアはいくつかの報告を済ませた。
「ちょうどあたしもガイアに用事があったのよ」
　ガイアが茶を飲み終わるのを待ってからルフレが切り出した。
「新しい仕事かい？」
「ううん。仕事じゃなくて、舞踏会のお誘い」
「―― はぁ？」
　真顔でのルフレの提案にガイアが頓狂な返事を返した。
「ルフレ……」
「なぁに」
「俺がそういうきらきらしい集まりが苦手なのは知ってるよな」
「うん。知ってる」
「なら俺の返事も分かってるよな」
「自警団時代の皆も招待するし、割と気安い感じの席になると思うけど」
「断る」
　にべもないガイアの答えだった。
「そう ―― でもね」
　焦らすように小首を傾げてルフレが言葉を続ける。
「料理長がとっておきの新作スイーツを用意するって言ってたのよ」
　甘味がある、ルフレのその言葉にガイアがぴたりと固まる。
「ガイアならきっと喜ぶだろうと思って誘ったんだけど。残念ねぇ……」
「行こう」
　先ほどとは180度違うガイアの返事をルフレはにこりと笑むことで受け容れた。

　この少し前、ルフレはクロムにこう言ったのだった。
「王妃主催の晩餐会でも大々的に開いて、ぱーっと使い切っちゃうのが良いんじゃないかしら」
「確かにそれなら一時に大金が使えそうだが、資金の出所を怪しまれないか？」
「あたしはまだ城に戻って間もないし、個人的な資産として一気に使い切ってしまう方がリスクも少なくなる筈よ」
「そういうものか……」
「幸いマックスはこちら側に居るわけだし、彼なら上手なごまかし方も知ってるんじゃないかしら」
「そうだな。一度宰相も交えて詳細を詰めるか」
　そこまでの相談を終えたところでクロムは午後の執務に戻り、入れ替わりにガイアが現れたのだった。

　宰相は、細かな手配はお任せくださいと請け負い、とんとん拍子にことは進んで。
　晩餐会の名目は王妃帰還を祝う祝賀会、準備や招待の関係もあるため開催は二ヵ月後となった。



「ねえ、マリアベル……やっぱ変じゃない？」
　不安げに声を上げたのはリズ、
「おかしなわけがありませんわ！今朝からの苦労をなんだと思っておりますの」
　今日何度目か分からない親友の不安な声に、流石に苛立たしげに返したのはマリアベルだった。
「だってなんか、いつもと違うんだもん。こんな大人っぽいドレス、あたしには似合わな ――」
「リズ」
「う……はい」
「今日までの苦労を忘れましたの？」
「そんなことないよ。マリアベルには沢山助けてもらって感謝してるよ」
「ならば、自信をお持ちなさいな」
「……うん」
「今日のリズはとても綺麗ですわ。いつものリズも春の花のように愛らしいですけれど、今日のリズは春の女神のように輝いておりますわ」
　リズの柔らかな金髪は美しく結い上げられて、淡い緑瞳にあわせた宝石が散りばめられている。襟ぐりを大きく取ったドレスの色も同じ、春の淡い緑の色あいで、野の花の刺繍と宝石が縫い取られて照明に映えて動くたび光を弾いた。貴婦人らしく真っ直ぐに伸びた背筋と、踵の高い靴のおかげでいつもよりは背が高く見える。
　リズ自身は不安ではち切れそうになっていて、姿見の中の自身の姿もろくに目に入らないようだったが。そこには彼女が憧れてやまなかった姉、前聖王エメリナの面影が色濃くあった。
「でも……」
「でもじゃございませんっ」
「うん」
「わたくしはまだ認めたわけではありませんけれど。あの、いけすかない甘党野郎をぎゃふんと言わせるのでしょう？」
「……うん」
「ではさっさと腹をおくくりなさいな」
「…………うん」
「リズっ」
「はは、はいっ」
　マリアベルのきりりとした声音に、流石にリズの背筋が伸びた。
「そう。そうやってしゃんとしていなさいな。今日のリズは国中の男共をぞっこんにさせる力を持っているのですから」
　自身に満ちたマリアベルの言葉にリズは困ったように微笑んだ。

「……失敗したわ」
　がっくりと項垂れているのは今日の晩餐会の主役にして主催者、聖王妃ルフレその人だった。
「なにが失敗なんだ？」
　不思議そうに問いかけたのはその夫、聖王クロムだった。
　ふたりとも既に晩餐会に備えて正装に身を包んでいた。クロムは聖王の色である青と銀を基調にした礼服に、濃紺で裏打ちされた白のマントを纏っている。もともと人目を引くクロムがそうして正装を身に纏うと、はっと目を引く存在感があった。
　隣に立つルフレは白と金、聖王妃の色を身に纏っている。きっちりと結い上げた黒髪は光が当たると青く透ける。動くたびさやさやと衣擦れの音をたてる極上の絹にはずっしりと金糸で刺繍が施されて、ウェストラインを絞るように巻かれたリボンも金糸で織り上げた豪奢なものだった。夜の礼装らしく胸元と背中の大胆に開いたデザインのドレスは美しくドレープを作りながら身体に沿って流れている。
　今朝早くから作り上げられた、侍女たちの力作だった。
「結局あたしまで衣装を新調することになるなんて……」
　暁の女神もかくや、という美しさなのだが。当の本人の表情が冴えない。
「あたりまえだろう。おまえが主役の晩餐で、おまえが一番着飾らなくてどうする」
　その夫であるクロムの方は、滅多に見られない妻の着飾った姿に笑みを抑えられない様子だ。
「だって、あたしとしてはもっと内輪の晩餐にするつもりだったんだもの。それがいつの間にか各国の大使やら国内の貴族諸侯やらを招いた大々的な晩餐に変わってて……マックスに任せたのが間違いね」
　それに、とルフレは金無垢の指輪の嵌められた左手を頬に沿えて何かを憂えるように柳眉を寄せた。
「なんか、嫌な予感がするのよね」
「それは、軍師としての勘、か？」
　ルフレの深刻な様子にクロムも流石に真顔で問うた。
「今日は城下もお祭りだし、城の一角も開放してる。その分、本宮の警備も万全にはしたけど……なにか引っかかるのよね」
　クロムとルフレがイーリス城に戻って五ヶ月。クーデターに関わった貴族や諸侯の処断も終わりイーリスには平穏が戻ったように見えるが、あの日現れた『光の使徒』の正体は遥として掴めず、今も、この城内にも彼らの息のかかった者たちが潜んでいる可能性は高かった。
　不安は、確かに残っている。だがその中で、王都に真の主が戻ったことを国内外に示す意味でも今日の宴には価値があった。
　今考えても仕方のないことと、ルフレが話題を変えるため口を開いた。
「そういえば、さっきちょっと様子を見てきたけど。リズ、見違えるように綺麗だったわよ」
　ルフレの言葉にクロムがむっと押し黙る。
「俺はまだ認めたわけじゃないからな」
　憮然とそう、言い放った。
「クロムが認める認めないの話じゃないと思うんだけど」
　今日の晩餐にルフレが込めた裏の目的を、実はクロムは今日知った。
　妻を迎え、一児の父になった今でもクロムが恋愛ごとに鈍感なことに変わりなく。リズのことにも全く気づいていなかった。下手に話せばガイアの元に殴りこみに行きかねないと、ルフレは敢えてぎりぎりまで黙っていたのだった（話したのは妻としての情けである）。
「それに」
「ん？」
「なんか変な噂が広がってるのよね」
　ルフレがリズの為にドレスを仕立てたり、リズがマリアベルを教師に淑女特訓をしていたことに妙な尾ひれがついて広まったらしく、王妹殿下の婿候補を探すのが裏の目的だともっぱらの噂になっているという。
「リズ、ちゃんと目的を遂げられると良いんだけど……」
　ルフレの琥珀色の視線の先で中天を越えた太陽がゆるゆると傾きつつあった。

　城門を入ってすぐにある広場も今は盛況だった。城下や近隣の村々から沢山の人が訪れ、普段は目にすることのできない王城に見とれるもの、振る舞われる料理に舌鼓を打つものと、思い思いに時を過ごしている。
　まだ日も高く白亜の王城が青空に映え美しくそびえる。
　広場にせり出したバルコニーに現れたふたつの人影に気づいた者が声を上げた。
「クロム様とルフレ様だ！」
「聖王陛下！」「妃殿下！」
　クロムとルフレが片手を挙げて声援に応える。
　人々の視線がバルコニーへと釘付けになる中で、その異変に気づいたのは恐らく一人きりだったろう。できるだけ近くでこの国の王と王妃の姿を見ようとバルコニーへ近づく人々の流れとは逆行する黒衣の男 ―― ガイアだった。両手に持っていた焼き菓子を手早く仕舞いこみ、何食わぬ顔で城壁の影になった一角に近づく。
「その物騒なもの、仕舞ってもらえるか？」
　物陰に溶け込むようにして長弓を構えた、こちらも黒衣の男に向かって気だるそうにそう言った。
　男が舌打ちとともに弓を放った。―― ガイアに向けて。
　咄嗟に上げた腕で顔を庇う。がしゃん、と地に落ちた弓矢が音を立てる。
　ガイアの口からも舌打ちが漏れた。視界の端を駆けてゆく賊を、ガイアは静かに追いはじめた。

　王城のバルコニー、クロムとルフレ僅かに後ろに水色のドレスを身につけてちょこりと佇む王女ルキナと、しとやかに立つ王妹リズの姿があった。
「あ」
　貴婦人らしからぬ呟きをリズが洩らす。
「リズおばさま？」
　小さなルキナの呼びかけも聞こえない様子でリズは慌てたように踵を返し、駆け出していた。
　眼下の広場で人々の流れに逆行して歩む、二ヶ月ぶりに見る懐かしい人影を見出してのことだった。

　賊は、程なくして見つかった。今は使われていない兵舎の一角でガイアは賊と対峙した。
　互いに抜刀する。暗殺者が好んで使う薄刃の長剣がふたふり、陽光を弾いて光った。
　ほとんど同時に地を蹴って切り結んだのは一瞬。勝負は、ついた。
　ガイアの切っ先が男の喉下に突きつけられた、その時、
「ガイアさん！」
　不意にかけられた聞きなれた声にガイアの動きが不自然に止まった。
　乱暴に響いた金属音はガイアの長剣が跳ね上げられた音だった。ガイアの脇をすり抜け賊が駆けるその先に、淡い緑のドレスを身につけた貴婦人が立ち尽くしていた。
「ぐぁっ」
　くぐもった悲鳴が賊の口から漏れた。賊の背からは、ガイアの放った短剣が生えていた。
　目の前で起こった惨劇に口元を覆い立ちすくむ貴婦人に歩み寄り、ガイアは彼女が聞きなれた声で自分を呼んだその相手だと、ようやく気づいた。
「―――― リズ、か？」
　見知らぬ貴婦人だと、ガイアが思った相手はリズだった。
「あ……ごめん、なさい。邪魔、しちゃって」
「あー、まあ、生け捕りにできなかったのは残念だが」
　よく知る少女の（本来ならば女性、と呼ぶべき年齢なのはガイアも知っている）見慣れぬ艶やかな姿に戸惑いながらも表情には出さず言葉を続ける。ぽんぽんと、あやすようにガイアはリズの肩を叩いてやった。
「お前が無事で良かった。―― 怪我は、ないな？」
「うん」
　ガイアの薄荷色の瞳と、リズの淡緑の瞳がしばし見つめあった。
「ガイアさん」
「ああ ―― すまん。怪我がないなら、俺はもう行くぞ」
　ガイアが少し慌てたように、リズの肩に置いていた手をどかした。リズにさっさと背を向け歩き出す。
「待って！」
　その外套の端をリズが掴んで引いた。
　仕方なくガイアがリズの方へ向き直る。
「あたしのこと嫌いになったのなら。はっきりそう言って？」
「―――― っ」
　確かにここ数ヶ月、ガイアはリズのことを避け続けてきた。
　だが嫌いなわけが、ないのだ。だから困っているのだと、だからイーリスを離れるしかないのだと、しかし言うわけにもいかないのだが。
「別に、嫌いとかそういう訳じゃねえ」
　出来るだけ平坦な声音でガイアが返す。
「じゃあ。あたしがまだ子供だから……ガイアさんの隣に立てるような大人の女の人じゃないから。こんな格好して、背伸びしたって、ぜんぜん、ふさわしくなんてなれないからっ」
「違う！」
　俯いて、今にも泣き出しそうなリズの両肩をガイアは気づくと掴んでいた。
　びっくりしたようにリズが顔を上げる。その拍子に涙が一滴こぼれた。
「ああもう。俺の負けだ！」
　言って、ガイアはリズを抱きしめていた。
　今もガイアを見つめるその真っ直ぐな瞳に真正面から捕らえられては、はじめから逃れる術などなかったのだろう。
「逆だよ」
「ぎゃく？」
　どんな時も、誰に対しても、陽だまりのようにあたたかな場所を与える娘。闇しか知らないガイアのような人間にも分け隔てなく光を与える。
「あんたは俺には勿体無いような、良い女だ」
　ガイアの腕の中でリズが大きな目を見開く。きゅ、とリズの手がガイアの肩を掴んだ。
　ぽんぽんとあやすようにリズの肩を叩きながらガイアが言葉を続ける。
「だがな、俺はどこまで行っても日のあたる場所は歩けない人間だ。あんたを ―― 陽の光みたいなお前を、俺の居る世界に引きずり込むわけにはいかないんだ。分かってくれ」
　淡々とそう言われて、リズが思わず顔を上げた。
「そんなのわかんないよ！」
　間近にガイアの瞳を見上げ反論する。
「リズ……」
「イーリスにはちゃんとお兄ちゃんが居て、小さいルキナもすくすく大きくなってて、……聖痕もない、出来損ないのあたしなんて、居なくても大丈夫なんだよ？」
　リズの大きな瞳には一杯に涙が貯められていた。
「ううん。そんなの、関係ないね。あたしはガイアさんが良いなら、どこにだってついて行きたい」
　そっと、ガイアの両手がリズの頬を包み込んだ。
「後悔、するぞ」
「しないよ」
　挑むようにガイアを見据える。
　はあ、と今日何度目か分からないため息をガイアは吐き出すと、胸のポケットから小さな小箱を取り出した。
「まさかこいつをあんたに渡す日が来るとはな……」
　きょとんと見つめるリズの手に、その小箱を手渡した。
「開けてみろ」
　そう言われて、リズは、そっと小箱を開いた。
「あ……」
　それ以上声にはならず、リズははらはらと涙を零した。
「あんまり泣くとせっかくの化粧が落ちちまうぞ」
　茶化すようにガイアが言う。
「ガイアさん、これ、って……」
　ガイアはリズの手から小箱を取り上げると、中から銀に輝く指輪を取り出した。
「王女殿下はもっと高価な指輪をお持ちだろうが」
「そんなことないよっ。そんな綺麗な指輪、ひとつも、持ってないもん。―― 嵌めてくれる？」
　おずおずと出されたリズの左手、その薬指にガイアはうやうやしい手つきで指輪を嵌めてやった。リズの手を取ったままひざまづき、リズの瞳を見つめて、彼にしては真摯な声音で言葉を継いだ。
「俺はあんたに何一つ約束してやれない。それでも、一緒に来てくれるか？」
「はい。喜んで」
　こぼれるように笑んだリズの姿は、あかるい陽だまりのように見えた。
　ガイアはリズの顔を上向かせると自身は少しかがんで、啄ばむように口づけた。

「ね、ガイアさ……ガイア」
「ん？なんだ」
「このあと、一曲踊ってくれますか？」
「………………」
「やっぱり、いや？」
「仕方ねえ。お前の兄貴にもひとこと言わなきゃならんだろうしな」
「お兄ちゃん過保護だからなぁ……でも、ルフレさんも居るから大丈夫だよ」
「そう願おう」



　軽やかなワルツの曲が流れる広間の中央で、聖王夫妻が優雅に舞う様は美しい絵画のようで。人々は密かなため息とともに夢のような光景を見守っていた。
　周囲を取り巻く踊りの輪の中に、王妹リズと黒衣の青年が楽しげにステップを踏む姿が見られ、人々は微笑ましく姫君の舞を見守ったとか。姫君の左手に嵌められた指輪についてしばし王宮内で噂が耐えなかったとか。　






--END--


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年明けのっけからクロルフじゃなくてガイリズですいません。
サイト開設当初からあったネタなのですが。時系列の順番的にあとになって、今頃書いた次第です。
書き始めた時は、舞踏会シーンで青年貴族たちに囲まれて困るリズがガイアさんみて心底ほっとした顔をして云々的なシーンとか、マリアベルがガイアさんに啖呵切るシーンとかを予定していたのですが。いつものように書いてる間に話の筋が変わり、ばっさりカットと相成りました。

2013/1/7