『花火』










　その日は朝からお祭り騒ぎだった。
　イーリス王都の目抜き通りには多数の露店が立ち並び、午後からは山車も出るという。皆が皆そろって浮き足立ち、熱気を伴ったうねりのような活況が王都全体を取り巻いている。
　そんな中、ルフレだけがどこか浮かない顔だった。
　祭りは、嫌いではない。
　人々が喜ぶ顔を見ることも、普段は目にする機会の少ない異国の特産品の並ぶ露店を見て回ることも、他愛ない駄菓子を買い求めることも。嫌いでは、ないのだが。
「人ごみってどうも苦手なのよね」
　自然こぼれた溜息に自嘲の笑みを浮かべつつ、彼女は人の流れに沿って ―― 今日の祭りの中心である筈の、もっとも人の集まる場所 ―― 大聖堂へと向かったのだった。

　これだけの人ごみの中で待ち合わせをする時には、相手が目立つ人物だということは、非常にありがたい。
　事実、溢れんばかりの人ごみの中でも頭ひとつ出た濃紺の髪をいち早くルフレは見つけたのだった。
　近づくうち、彼もすぐルフレに気づいてこちらを見た。太陽みたいに開けっ広げで深い笑みに、自然、ルフレの口許もゆるむ。ここが苦手な人ごみの真っ只中であることも忘れて。
「待ち合わせ場所の選択を誤ったな……」
「だから、ここがいちばん混むって言ったじゃない」
「だがまず聖堂で礼拝を行う流れなんだ」
「よそで待ち合わせてから、ここに来れば良かったでしょ」
「城と自警団の中間地点がここなんだ。時間を無駄にしなくて済む」
　言いながら、クロムの無骨な手のひらがルフレの頬に触れる。
「だいいち、だ。どんな人ごみの中でも俺はおまえを見つけられる自信があるぞ」
　きょとりとルフレの大きな瞳が瞬いて、次いで、耳まで一気に朱に染まった。
　ぽつりと、辛うじてクロムにだけ聞こえるような小さな声でルフレが言う。
「あたしも……おなじこと、考えてたわ」
「…………そうか」
　自分の言葉に秘められた歯の浮くような意味をようやく自覚して、クロムの頬にも朱がさした。
「ねえ……あのふたり置いて行っちゃわない？ガイア」
「俺もいま、そう言おうとしていた」
「早くしないと、教会の振る舞い菓子も、露天の限定菓子も、異国の蜂蜜も売り切れちゃうよ……」
「全くその通りだ」
「よし！声だけかけてそっと行こう」
　リズが可愛らしく両手を頬に添えて、叫ぶ。
「お兄ちゃーん、ルフレさんっ。先に行くからねー！」
　リズの声はよく通る。
　面映いばかりの恋人たちはそうして、弾かれたように現実へと引き戻されたのだった。

　遥か千年の昔に、この国が興った日。
　今日はイーリス聖王国の建国記念日だった。
　この日を祝うため、人々は箪笥の奥から一張羅を引っ張り出して身を飾り、家庭では工夫を凝らした馳走が振舞われる。
　そして、祭事の中心である大聖堂には、この日だけ献花台が設けられて。布施を払って買い求めた花をひとり一輪そこに供える。その時に人々は、英雄王と神竜ナーガへと、密やかな誓いや願い事を心のうちだけで呟くことが慣わしとなっていた。

　人の流れに乗りながら、リズに言われた通りに布施を渡して花を受け取って。既にとりどりの花々で彩られた献花台へとルフレはそっと花を供えた。
　瞳を閉じ、心のうちだけで言葉を綴る。
　すぐに目をあけ隣を見ると、クロムはまだなにか熱心に、自身の遠い祖へとなにごとか ―― 彼の性格からして恐らくは決意を ―― 語りかけている最中だった。
　しばらくして、ようやく目を開けたクロムがルフレを見た。視線が合ったのは一瞬で、何故か慌てて目を逸らす。ごほんとひとつ咳払いをしてからクロムは再びルフレの方へ向き直った。
「あー……あれだ、後ろも詰まっていることだし。行くか」
　てっきり『何を誓ったのか』と聞かれるものと思っていたルフレは僅かに面食らった。
「そ…うね。行きましょうか」
　ルフレが視線を転じると、振る舞い菓子を配る列に二度目のトライを仕掛けようとするガイアと、苦笑混じりにそれに付き合うリズの姿が見えた。

　触れそうで、触れない距離。手を伸ばして掴んでしまえばそれまでの筈なのに、どうしても、それが出来ない。自身の斜め前を行くルフレの、しなやかな白い手をクロムは恨めしげに見つめる。
　クロムがルフレと想いを交わしたのはつい最近のことだった。ようやく自覚した恋心を、ぎこちなくも互いに確かめ合って。だがしばらくは公にはせずいようと二人約した筈、だったのだが ―― 翌日には自警団中に噂は広まっていた。リズに言わせれば『お兄ちゃんはすぐ顔と態度に出ちゃうからね』ということになるらしい。
　だから今日も、人目を気にすることもなくルフレをデートに誘うことができた。妹と、その恋人 ―― と、クロムはまだ認めたわけではないが ―― を伴ってのダブルデートではあったが。
　ようやく決心し、手を伸ばす。しかしクロムが伸ばした指先は、虚しく空を切った。
「ね、ガイア。あそこの店はどうして行列してるの？」
　ルフレの指先が出店のひとつを指す。
「ん？ああ、今日限定で職人が即興の飴細工を作ってくれるんだよ。なかなか、良い出来だぞ。並ぶか」
　ガイアの言葉にルフレがこっくりと頷く。
「ルフレさん、あそこの飴細工はねえ、形が綺麗なだけじゃなくて、すっごく美味しいんだよ」
「さすが。リズも詳しいわね…今日は二人に着いていけば、美味しいものが食べられそう」
「当然だ。ちゃんと朝飯は抜いてきたな？」
　ふたたび、こっくりとルフレが頷く。
「よーし、じゃあまずは飴細工！ちょっと並ぶけど頑張ろー」
　リズがぴょんと軽く跳ね、そこで、少し後方で固まっている兄に気づいた。
「お兄ちゃん、どうしたの？置いてっちゃうよ」
「あ、ああ。すまん……」
　―― 作戦その一。さりげなく手を繋ぐ、はあえなく撃沈した。

　花や動物を模した美麗な飴細工、小麦のパンに肉や野菜を挟んだサンドイッチ、魚の擂り身を丸めて揚げたもの、南国の珍しい果物を絞った果汁を口にしながら山車を眺め、いまルフレたちが手にしているのは、削った氷の上に果物を乗せてシロップをかけたデザートだった。
　円形の広場の片隅で、石造りのベンチにルフレとリズが腰かけて。クロムとガイアは脇に立っている。
　クロムは、手に持った氷菓子が溶けるのにも気づかぬ風で。ちらちらとルフレの様子を伺っている。
　ルフレは大きな琥珀色の瞳をきらきらと輝かせながら、初めて目にするデザートを興味深げにぱくついていて。クロムの視線には気づいていないようだ。
　クロムは何度か口を開きかけたが、すぐに躊躇うように視線が逸らされる。
「なあ、ルフレ。そっちはどんな味が――」
　ぱくり。
　ようやく心を決めて話しかけたクロムの目の前で、ルフレの最後の一口はあえなく彼女の口内へと消えた。
　―― 作戦その二、互いの食べ物を一口ずつ交換する、も、どうやら失敗に終わったようだった。

　静かに落ち込む兄を横目に、リズがガイアを引っ張って、クロムとルフレから離れた位置で密談を始めた。
「ねえ、ガイア…お兄ちゃんになにか言ったでしょ」
「まあ、ちょっとしたアドバイスを、だな」
　いささか気まずそうに、視線を逸らしつつガイアが言う。
「おまえこそ、ルフレになにか言っただろう」
「えー…あたしはただ、せっかくのデートなんだから仕事の話とかしちゃだめだよー、って」
「阿呆。戦術馬鹿の真面目人間にそんなこと言ってみろ。話せなくなるに決まってるだろうが」
「ガイアだって！天然が取り柄の朴念仁に恋の駆け引きなんか中途半端に教えても、空回りするだけだって思わなかったんですかー」
「男には男の面子やら浪漫やらがあるんだよ！」
「……ガイアって、意外とロマンチスト」
「そんなヤツに惚れたのはどこのどいつだ」
「う……でもでも、そんなあたしのこと好きになったのはどこの誰ですか！」
「…………俺か」
　愕然と呟くガイアを見上げ、リズが嬉しげに笑い転げた。
　そこで、はたと我に返り。困ったようにガイアに話しかけた。
「ね、ガイア……お兄ちゃんとルフレさんが居ないよ」
「あー、さっき、二人でどっかに行っちまった」
「えー！なんで止めないのっ。……はっ。さてはまだ入れ知恵の続きがあるんだね？」
「ま、最後はうまく行くだろう」
　そこでガイアが、ごく自然な動作でリズの前に左手を差し出した。
「お手をどうぞ、姫君」
　一瞬きょとんと目を見張ってから、リズはにっこりと笑みを浮かべた。そっと、ガイアの手に右手を重ねる。
「男の浪漫も悪かないだろ？」
「えへへー、うん」
「よし。行くか」
「あ、花火だね」
「さすが、王女殿下は詳しくていらっしゃる」
「当たり前じゃん。ガイアと初めて見る花火、すっごく楽しみにしてたんだから！」
　今度はガイアが目を見開いて固まる番だった。
「？どうかした？」
「……やっぱ、敵わんな」
　―― なんのてらいもなく気持ちをあらわせる、真っ直ぐなその気性には。
　心の裡だけで呟く。
「なんのこと？？」
「いや、行くぞ」
　繋いだ手をさりげなく引いて。
　黒い盗賊と陽だまりの姫君は、寄り添って雑踏へと消えた。

　西の空へとゆっくりと、大きな太陽が沈んでいく。
　王都の白壁が朱色に染まるなか、クロムとルフレは人の流れに逆らって歩いていた。
　不意にクロムが「行くぞ」と言い出してから。ここへ来るまでにふたりが交わした会話は「リズとガイアに一言断ってから」「大丈夫だ」「そう？」の二往復のみで。あとはただ無言で、ずんずん先を行くクロムをルフレは追った。
　クロムがルフレを連れてきたのは、いまはもう使われていない物見の塔の上だった。入り口は閉ざされているように見えたが、クロムがなにやらいじると簡単に錠前は開いた。
「ね、クロム。リズとガイアに黙って来ちゃってほんとに良かったの？」
　階段を ―― やはり無言で登り、屋上に出てようやく、耐えかねたようにルフレが口を開いた。
「ああ、大丈夫だ」
　どこか上の空にクロムが答える。彼の視線はルフレの細い肩に注がれたまま動かない。
　―― さりげなく肩を抱き寄せて、それから……
「ね、クロム」
　不意にかけられた声に、クロムの伸ばしかけた手が硬直する。
「なな、なんだ？」
「今日は、ごめんね」
　予想外の台詞についていけず、クロムの眉間に思いきり皺が寄る。
「昨日ね、リズに『せっかくのデートなんだから、仕事の話とかしちゃ駄目だよ』って言われて。というか、リズに言われて初めてデートなんだって気づいて。そしたら何を話して良いか分からなくなっちゃって、変に意識してクロムのこと避けちゃって……それで、怒ってるんでしょ？あたしがそっけない態度だったから……だから……」
　ルフレの声が段々小さくなる。しょんぼりと項垂れたルフレの前にクロムの大きな手がかざされた。
「まて。ちょっと待ってくれ、ルフレ」
　悲しそうに揺れる琥珀色を、困惑混じりの空色が見下ろす。
「おまえが俺を、避けていた？」
「そう。だから、怒ってるんでしょう」
「いや……」
　全く気づいていなかった。
　今日のクロムはガイアに与えられた指令を遂行するので一杯で。いつもならすぐに気づくルフレの変化に全く気づいていなかった。
　ルフレはルフレで、変にクロムのことを意識しすぎてクロムの態度がなにやらぎこちないことにしばらく気づかず。リズたちと別れてから初めて、なにやら様子がおかしいことに気づいたが。自身の態度のせいで機嫌をそこねてしまったのだと勘違いをした。
　と、そこまでをおぼろげに理解してからクロムははたと困り果てた。
　一刻も早くルフレの誤解を解いてやりたい ―― 彼女のこんな悲しげな顔を見るのは辛い ―― が、本当のことを話すのは余りにも情けない。
　しばし黙考ののち、クロムは半分嘘をつくことにした。
「あー、ルフレ」
「なあに」
「俺も、緊張していただけだ」
「ほんとうに？」
「嘘はつかん」
　―― 緊張していたのは、本当だ。理由は違うが。
　ルフレがほっと息を吐き出した。
「良かった……怒ってるんじゃなくて」
「ああ。誤解させてすまなかった」
「あたしも、ごめんね」
　クロムの腕が ―― 意識せず ―― ルフレの肩を抱き寄せる。
　その動きに逆らわず、ルフレがそっと瞳を閉じた。
　ちかり、まぶたの裏で光が明滅し。
　どぉん、と。空から音が降ってきた。
　ルフレの唇に触れるあたたかく優しい感触。
　ちかりと。いくつも光がまぶたをよぎり、夜空を花火の音が渡る。
　唇から、名残惜しげに熱が離れて。ルフレはそっと目をあけた。
「―― すまん」
　言われて、意味がわからず首を傾げる。
「花火、見逃したな」
　申し訳なさそうなその言葉に、
「クロムが居れば ――」
　すべてが、輝くのだ。一瞬だけ煌めく花火よりもずっと、美しく。そう伝えたかったが言葉にはならず。
「幸せだから」
　ただ、そう続けた。

　ルフレの言葉にクロムが ―― 彼女が愛してやまない ―― 深い笑みを浮かべ。
　ふたたび、口づけが贈られた。






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覚醒発売一周年おめでとう小説です。うん。めでたい。
笹川美和さんの『花火』を聞きながら書きました。…ほんと、全部あたしルフレさんのクロルフに聞こえるんですよ。困ったもんだ。

2013/4/19