|
『三月三日』
南から強く吹く風に、ようやく柔らかなものが含まれ始めたその日。 新しい年を迎えてからクロムが聖王代理へと即位し、それと共にルフレとの婚約が正式に成立して、最初の春。婚礼の儀をおよそ一月後に控えていた。 三の月三の日は、穢れ祓いのための神事が行われるのが王宮での慣例となっている。 聖王代理の婚約者として神事に参加することを義務付けられたルフレは、自身の服装を見下ろして重いため息を吐き出した。 禊を行うために身に纏った白の薄物はいつもの黒いローブに比べて余りにも心もとなく、心にわだかまる不安をより煽り立てる。 「大丈夫だ、巫女たちの指示に従っていればいい」 「ありがと。クロム」 すぐ隣からかけられた、あたたかい声音の主を見上げると、少しだけ心がなごむのを感じた。 イーリス王都の中心に建つ大聖堂に、クロムとルフレは来ていた。 聖堂内へと足を踏み入れたときに、ルフレはどこかで感じた嫌な雰囲気を、敏感に読み取っていた。記憶を辿り、それが数ヶ月前に王宮で、クロムの婚約者となることが広く知れ渡って後に感じた空気とよく似ていることに気づいた。 聖王家の人間に許される数少ない自由のひとつに、伴侶を選ぶ自由がある。 だから、クロムが誰を選ぼうと ―― 拾ってきた生き倒れの女を選ぼうと、表立って異論を唱えるものはいない。ルフレの、軍師としての国民からの絶大な人気と王宮内での働きが口さがない声を封じた、という理由も勿論あるのだが。 ルフレの働きで、イーリスの片田舎で隠遁生活を送っていた前宰相が元の地位へと復してから、王宮内での彼女を見る目は一気に好転した。その空気はクロムとルフレの婚約を境にわずかに後退し、今はまた以前のそれへと復している。ルフレの人間性に実際に触れた人々の心が軟化したことと、そしてふたりの婚姻がゆるぎない決定事項であるとクロムが人々にその態度でもって示したことで。 ヒトの持つ欲というものは、本当に度し難い。 利益と権益と、嫉みと傲慢と。一見して上品に振舞う人々の裡に秘めた情念のなんとどす黒いことか。 つらつらと思考を飛ばしていたルフレは、隣から延々注がれる視線に気づき顔を上げた。じっとこちらを見つめる空色の瞳と視線が合う。 きょとりと見上げたルフレと目があって、クロムはにやりと笑みを浮かべた。 「―― その格好、目の毒だな」 ひらひらと頼りなげな薄物からは、普段はよく見えない華奢な首筋も、綺麗な鎖骨のラインも胸の谷間も、なよやかな腕のかたちも丸見えだった。 「…………へ？な、なに言ってるのよ、クロム！」 白い肌が一気に紅潮するのをクロムが愛しげに見つめる。 「少しは元気になったか？」 ルフレはぽかんと口を開け、次いで困ったように微笑んだ。 「ありがと。まだ、慣れなくて」 「―― 慣れなくて良い。おまえは、そのままでいてくれれば。それで、良い」 がりがりと後頭部をかきながら言うものだから、綺麗に整えられていた濃紺の髪が好き放題に乱れて。ルフレは今度こそ本当に笑い出した。 こころの中にわだかまる不穏な予感が消えたわけではなかったが。 そうしてこの軍師の勘は、とてもよく、当たるのだった。 ◇◆◇ クロムとは別々に案内された禊のための一室で、ルフレは自身の勘が鈍っていなかったことを思い知った。 陽の熱をもって清めた聖水を禊には使う。とクロムからは聞いていたのだが。 ルフレが今浸かっているそれは、井戸から汲んで来たばかりと思しき身も凍るような冷水だった。 「時間になればお呼びいたしますので。それまでは、そのままで」 ご丁寧に頭の上からも凍てつく水をざぶざぶとかけた巫女たちは、平坦な口調でそう言い残すとルフレひとりを室に残して去った。 カチリと、錠の下りる音がした。 ルフレは閉じ込められたことに取り乱すでなく、冷え切った水に震え上がるでもなく、静かに肩の力を抜いた。 巫女たちはひとつ、勘違いをしていた。 その可憐な外見に惑わされて。ルフレという人間を見誤っていたのだ。彼女が、クロムの影で彼にただ守られるだけのなよやかな存在であると。 実際。これぐらいの冷たさなど、ルフレにとってどうというものでもなかった。豪と降り続く冬の雨の最中での戦闘に比べれば、どうということもない。 「ああ。しまった」 不意にルフレが呟いた。 冷水に無様に驚いて、まごつき涙のひとつも見せれば彼女たちの溜飲も下がったような気がする。そうすれば、閉じ込められることもなかったか、と。 気づき、自嘲の笑みを浮かべた。 虹の降る山にある神殿とは違い、王都にある大聖堂では良家の子女が行儀見習いとして巫女の修行を行っていることが多い 彼女らも、そんな巫女たちのひとりでもあったろうか。 別に命を取ろうというのでもない。恐らく彼女たちにとっては、急に降って沸いた聖王代理の婚約者に対しての ―― 憎い恋敵に対しての、ささやかな嫌がらせ、なのだろう。 ただ、こころに堪えないかといえばそれはまた別のはなしで。 「心配、かけちゃうかしらね」 無意識に、右手で左手の薬指に嵌めた金色に輝く指輪に触れた。 「クロム ――」 そっと、大切に。ルフレはその名を口にした。そうすることで、こころに灯が点るとでもいうように。 自警団という場所が、そこで接した人々が特殊であったのだと、ルフレは王宮に上がってすぐに気づいた。自警団に充ちていたあたたかな空気。あれは、クロムを中心に作られたものだ。ならば王宮も彼を中心として、これから、変えてゆける筈だった。そう、せねばならないと心から思った。 幼くして聖王に即位したエメリナが何よりも優先して行ったのは民心の慰撫だった。兵たちを家に帰し、税を軽くし治水や開墾に力を砕き、永い侵略戦争の果てに疲弊し尽くしたイーリスを、今の豊かな国にまで見事に回復させてみせた。 彼女は『信』に生きたひとだった。どれほど性根の歪んだ者に対しても ―― それを見抜く聡さをエメリナは持ってはいたが ―― 信を持って接すれば、いつかは心の通じる日が来るという想いを堅く貫いたひとだった。 だからこそ、今のイーリス王宮内にはエメリナの残した正の遺産と負の遺産が等しく残っている。 ルフレは、到底エメリナのようには振舞えそうもない。恐らく、クロムも。 これからどうしてゆくべきなのか。正道のないその問いには、時間をかけて向き合ってゆくしかなかった。 ◇◆◇ 「―― 兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。故にこれを経（はか）るに五事を以てし、これを校（くら）ぶるに計を以てして、其の状を索（もと）む。一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危（うたが）わざらしむるなり――…」 延々とルフレが暗誦しているのは古い戦術書の一節だった。唄うようにすらすらと、言葉を続けるルフレの瞳は半眼に閉じられて、彼女が無心であることを示している。 ながくながくそらんじる言葉が、 「―― 彼れを知りて己を知れば、百戦して殆（あや）うからず」 と続いたとき、扉の外から聞こえてきた喧騒にルフレは夢から覚めたように顔を上げた。 もともと白かった肌は病的なまでに透き通り、紅く色づいていた筈の唇にも青が注している。 喧騒の発端がクロムであり、それを押し留める巫女たちとの間で諍いが起きていることは段々と大きくなる話し声からすぐに分かった。 ―― 五、四、三、二…… いち、とルフレが心の中で唱えるのと同時に無理やりに蹴破られた扉ががぁんと盛大な音を響かせながら開いた。 「ルフレ！」 焦燥を顔に貼り付けて叫ぶクロムにルフレは笑いかけたつもりだったが、凍てつき強張った唇は上手く笑みを形作れなかったようだった。 クロムが差し出した腕に逆らわず掴まる。その余りの冷たさに、クロムが不機嫌さを隠そうともせず顔をしかめた。 自身では水から出ることもできないほどに強張ったルフレの身体をクロムが悠々と抱き上げる。クロムの方はとうに禊を終えて、この後につづく儀式に備えた礼服へと衣替えしていたが、その豪奢な布地に冷たい水が染み渡ってゆく。そんなことには構わずに乱暴に外したマントでルフレを包みこむと、クロムはルフレを抱えたままで大股に扉に向かって歩き出した。 「クロム様！」 「未だ儀式の途中でございます。どうかそのような無体な真似は…」 「無体はどちらだ！」 一喝する、その声に。一介の巫女ごときが抗える筈もなかった。 「クロ、ム…ど、して？」 がちがちと震える唇でルフレはようやくそれだけを言った。 「おまえが儀式の場に来ないから様子を見に来た。すまん、遅くなってしまったな」 「――…」 それ以上言葉にはならず。ルフレはただ、クロムの首にすがりついた。 迷いのない足取りでクロムが向かったのは聖堂内にある王族のための湯殿だった。 そっと、壊れ物でも扱うようにして優しくルフレを湯の中に降ろす。 されるままに、どこかぼんやりと湯に浸かったルフレの手を取って、慈しむように口づけた。手のひらに、手首に腕に肘に二の腕に、肩を過ぎ鎖骨に首筋に頬に、確かめるように唇に、キスを贈る。 浸かった湯のあたたかさよりも、そうしてクロムに触れられた部分からほんのり熱を持つようで。ルフレはようやくまともな笑みを浮かべた。 「ごめんね」 「何を謝る」 「儀式、あたしのせいで、遅れてるでしょう？」 「っ。おまえはっ」 荒げられた口調に、驚いたルフレが目を見開く。 「―― もう少し自分を大切にしてくれ」 クロムは搾り出すようにしてそう言った。 「……ごめん、なさい」 「謝るな」 「うん。ありがと……」 苦笑を浮かべた空色の瞳が近づいてきて、大切に、触れるようにされた口づけをルフレは目を閉じて受けた。 ふたたびゆっくりとクロムの顔が離れて。はたと何かに気づいた表情になり、次いで、思い切り赤面した。 「クロム？」 急に目を逸らして固まってしまった婚約者にルフレが不思議そうに声をかけた。 「いや。今更だが ―― 目のやり場に困る」 予想外のその言葉に、ルフレは溜まらず吹き出した。 「笑うな！深刻な問題なんだぞっ」 「だって」 くくくと、未だ笑いの収まらぬルフレが目じりに浮かんだ涙をぬぐう。 ようよう笑いを治めると、囁くようにして言った。 「誰からも良く思われるなんて、無理なことも分かってるわ ―― でも」 真摯な響きに、クロムも真顔に戻る。 「この国を、ひとつにしたい」 恐らくは、古の英雄王以来の輝きを持つ新たな聖王のもとに。 「ああ。俺も、そう思う」 「あたしの手に負うには大きすぎることかもしれないけど」 「大丈夫だ」 寂しげに笑んだルフレの顔を上向かせ、真っ直ぐに瞳を合わせてクロムが言う。 「おまえは俺の軍師で、半身で、伴侶となる相手なんだからな」 「……クロムそれ、なんの根拠にもなってない」 「だがおまえは、俺の期待を裏切るような真似はせんだろう？」 「―― ああ。確かに、そうね」 「ならば大丈夫だ。おまえになら、―― いや、俺たちにならきっと成せる」 「そうね。クロムが居れてくれれば、百人力」 真顔でルフレが言えば、 「おまえ俺のことを馬鹿にしていないか？」 胡散臭げにクロムが返す。 「ふふ。そんなことないわ。頼りにしてるのよ」 「―― 俺も。誰よりもおまえを頼みにしている」 共犯者のように笑みかわし、ふたりはもう一度キスを交わした。 例によってピクシブに上げた時節ものです。 雛祭りというよりは、上巳の節句。調べてみたら祓いや禊を成す、とあったので。こういうお話になりました。 裏テーマは偶には王子らしい王子を書くぞ、です。
2013/3/5
|