『過去』










　　消したい過去があたしにあるの

　　腐敗すればいいのに

　　そしたら涙で剥がせるのに

　　それでも涙さえ流れないの












カタンと手元でした音に意識が引き戻される。
視線を落とすと自身が作った小さな駒がひとつ、机に広げた地図の上で倒れていた。
また、集中が切れていたようだ。
それは起きてしまったことで。今さら考えても仕方がないというのに。
今は目の前の戦局を見極めることがなにより優先されるというのに。
気づけばルフレの心は数日前のペレジア――あの処刑場に飛んでしまう。
眠りにつけば繰り返し夢にも見た。
夢の中で彼女はあのとき選ばなかった策を試してみる。それでもやはり策は及ばず、なすすべなくあの絶望を目の当たりにし、目を覚ます。

一度だけ、エメリナを救う夢を見た。
だが目覚めれば、そんな夢を見る自分の浅ましさにただ吐き気がするだけだった。
あんな夢をまた見るぐらいなら――こんな夜更けに戦術を練る理由のひとつがそれだった。
もうひとつの理由は、純粋に時間が足りないから。
勢いに乗ったペレジアはいつ国境を越えてくるかも分からない。これ以上イーリスを、そしてここまで力を貸してくれたフェリアを、蹂躙させるわけにはいかなかった。
明日最後の軍議が開かれ、明後日にはフェリアを発つ。
少しでも犠牲を少なくするために、そして今度こそ必ず勝つために。
眠る時間すら惜しかった。

また、関係のない方へ意識が飛んでいた。
ルフレはため息をひとつ吐くと、テーブルの端にひとつだけ燈していた灯火を吹き消した。
目の前の地図と駒のことはしばし諦めて、外の空気を吸いにいくことにする。



　　　◇◆◇



冬には雪に閉ざされるフェリアの王城は、王の間も、客室も、兵舎も、厨房も、巨大な一つの建物の中に作られている。周囲は分厚い石づくりの壁で覆われており、中に入ると驚くほど暖かかった。聞けば、壁の中には空洞があり、階下で焚かれる暖炉の熱気が建物中を巡ることで効率的に内部を暖めているとのことだった。
熱を逃がさないために出入り口の扉は二重の作りになっており、ひとつひとつもかなり重い。

厨房脇にある裏口。
その外側の扉を体重をかけながらようやく閉めると、ルフレは城壁の内に――恐らくは城の防備を高める目的で、作られた庭を見渡した。
城壁の上で燃える篝火のあかりに照らされて、吐く息が白く変わるのが微かに見えた。
季節は夏を過ぎ、秋になろうとする頃――の筈だが、イーリスよりもかなり北に位置するフェリアでは雪こそまだ降らないものの、夜は恐ろしく冷えた。
巡回する兵たちの邪魔をするのも申し訳なくて、裏口から伸びる短い階段を数段降りただけで腰かけた。

ただ、犠牲を最小限にすることだけを考えて。撤退するだけで精一杯だった。
必ず救い出すと決めた筈の、皆の希望だった優しいひとを無為に死なせ。
自分を信頼し、策に従ってくれた人々に危険を強いて。
誰よりもルフレを信頼し、愛情すらも彼女に与えてくれた無二の半身に、姉の遺体を弔うことすらさせてやれずに。
それなのに誰ひとりルフレを責めない今の状況に、叶うならば自分自身の手で身体を千々に引き裂いてしまいたかった。

――ああ、また。考えても仕方のないこと。

頭を振って、昏い思いを振り払う。
ふと、視線が自身の右手に向かった。
今もはめられている手袋。その、下にある。なにかの刻印。
あの処刑場で、エメリナが空に向かって身を踊らせたとき。
クロムの、ルフレの、その場に居た皆の心が深い絶望に染め上げられたとき。
彼女の右手の刻印が独立した別の生き物のように疼き、腕を伝って背骨を這い上がる言いようのない感覚に全身が震えた。

それは、どこか歓喜に似ていた。

左手でそっと右手の甲に触れる。
フェリアに戻ってから、ひとり右手を確認すると、以前よりも鮮やかに色彩を深めた刻印が、そこにはあった。



　　　◇◆◇



「――――っ！！？」
ばさりと聞こえた音と共に視界が真っ暗になり、ルフレは声も出ないほど驚いた。
慌てて両手を動かすと、なにか大きな布を被せられたのだと気づく。無意識に止めていた息を吐き出すと、とても甘い匂いがした。
被せられた大きなマントの端を見つけて顔を出すと、ルフレは頭上を見上げて言った。
「ガイア…」
言葉を発して初めて気づいたが、歯の根があわないぐらいに凍えている。ぼんやりしたままかなりの時間が経っていたのかもしれなかった。
「そのまま凍死したいんでなけりゃ、着てろ」
憮然とした口調でガイアが言う。
体重を感じさせない動きでルフレの隣に腰かけた。
ずい、とルフレの前に湯気を立てるカップが差し出された。思わず受け取る。
冷えきった手に暖かさがじんとしみた。
「どうして…」
「寝酒でも拝借しようと思って厨房を物色してたら裏口から出ていくお前を見かけた。お前も寝付けないのかと思って、ホットワインを作って待ってやってたってのに…いつまで経っても戻ってこない」
だから、様子を見に来てくれたらしい。
渡されたカップに鼻を近づけて匂いをかぐと、それだけで蕩けそうな甘い香りがした。
まだ飲むには熱そうだと判断し、顔を離す。
「…お前、猫舌か？」
その様子を見てガイアが聞いた。
ルフレがこくんと頷く。
「そ…あついのは、にがて」
まだうまく回らない舌でそう言った。
「ならそれが飲めるようになるまで俺のつまらん昔話でも、聞くか？」
ルフレは再びこくんと頷いた。



　　　◇◆◇



「もう十五年以上も前の、俺がまだ粋がったガキだった頃の話だ」
そう言って、ガイアは語り始めた。
当時、ペレジアとの＜聖戦＞の最中にあったイーリスは王都ですら食糧不足に陥り、その皺寄せは貧しい者たちにやってきた。
まだまだ値が上がると見た商人たちは穀物を買い占め、蔵に溜め込んだ。飢えに苦しんだ貧民街の住民の何人かが、穀物を譲ってくれるよう商人の元に訴えに行ったが、ある者は門前で追い払われ、ある者は用心棒に斬り捨てられて物言わぬ遺体となって帰った。
ガイアはそんな商家のひとつに生まれ育った。
幼い頃から甘やかされて育った、親に反抗したくて仕様がない時期の少年。裏通りに住む友人たちが困っている、となれば少年らしい正義感に燃える彼がやることは決まりきっていた。
最初は自分の家の蔵からわずかばかりの穀物を持ち出して、彼らに分け与える。それだけだった
その噂が次第に広まって、穀物を持ち出す量が増え――ある日ついに父親に見つかった。
生まれて初めて父に殴られ、それでも反抗的な目で父を睨むガイアに対して、父はただ『出ていけ』とだけ言った。
泣きながら父に取りなし『お父さんに謝りなさい』という母に背を向けガイアは家を飛び出した。
ガイアの父は商家の跡取り息子としては充分すぎる教育を、ガイアに与えていた。
その知識を駆使して策を練り、貧民街に住む友人たちを伴って城下でも最も大きな商家の蔵を狙って襲撃した。
彼の策は見事にはまり、大勢の見張りの目を掻い潜り、大量の穀物を盗み出すことに成功した。
仲間たちに誉めそやされ、貧民街の住人たちに感謝されガイアは有頂天だった。
あの日、見下すような目で彼を見ていた父親に心の中で啖呵を切った。
ざまあみろ、と。俺の方が正しかったのだ、と。
人々の感謝を一身に受けながらそう思った。
山は、登りきればあとは下るばかり。
苦労して登った頂の向こうには、深い、落ちれば二度と這い上がれない断崖が待っていた。
数人の仲間を連れて次に狙う商家の下見に行き、戻ってきたガイアが見たものは、荒れ狂う炎の海だった。
木や紙で作られた貧民街の粗末な建物は次々に燃え落ちて、空高くどす黒い煙をあげた。
蔵を荒らされ大切な商品を奪われた、商人が成した報復だった。



　　　◇◆◇



「その後、俺は仲間たち数人と一緒に官兵に捕らえられて、大した調べも受けないままに罪人の烙印を押されて、そのまま戦地に送られた。前線で、ロクな装備も与えられなかったガキ共にしちゃ俺たちは良く戦ったほうだと思うぜ？」
そう言って、ガイアは自嘲の笑みを浮かべた。
「一人、また一人と仲間は減って――最後は俺と親友の二人だけになった」
その時の光景を思い出しているのか、どこか遠くを見つめながら言う。
「ヤツが俺をかばった矢傷がもとで死んでから数日後に戦争は終わった。後悔と罪悪感と絶望と――故郷に戻れることに対する僅かな高揚を抱えて王都に戻ってきた俺に、帰る家はもうなかった。親父が細々と営んでいた商家は看板がかけ替えられていて、見たことも無いやつが住んでたぜ。前にここにいたヤツはどうしたって聞いたら、なんでも身内に罪人を出したかどで財産を全て国に没収されて、主もその妻も王都を去ったっていう話だった。それ以来親父にもお袋にも会えちゃいない――もっとも、今更合わせる顔もないが」
そこで、思い出したようにルフレの方を振り向いた。
「――悪い。話が長くて冷めちまっただろう」
今まで一言も言葉を差し挟まずにじっとガイアの話を聞いていたルフレは、口元に微かに笑みを浮かべた。
「へいき…たぶん丁度良いぐらいだと思うわ」
そう言って、カップの中身をひとくち飲んだ。
思ったとおりもの凄く甘い。目の前の男の優しさと同じぐらいに。

「あまい」
「おう、旨いだろ？俺の特性だからな」
どうやらガイアにとっては甘いは旨いと同義の褒め言葉らしかった。
「ねえ」
「なんだ？」
「ガイアの友達は…ガイアのことを責めなかったの？」
視線は手元に注ぎながら、ささやくようにそう訊ねた。
「…責めてはくれなかったぜ。最後まで、一言も。惨いぐらいにな――もっとも、あの時はただ生き残ることに必死すぎてそんな暇もなかったのかも知れんが」
淡々とそう答えた。
「――そう」
こく、とカップの中身に口をつける。
「やっぱりこれ、もの凄くあまいわよ」
「お前…さっきの『あまい』も文句だったのか？」
「今頃気づいたの」
「つべこべ言わずに全部飲みやがれ――そうすりゃあ、少しは眠れる筈だ」
せっかく作ってもらったものを残すのも申し訳ない。ルフレは一気に冷めてしまったホットワインを飲み干した。
「――っま、いっ！」
顔をしかめる。
「ん？そんなに旨いのか？」
「ち、が、う、わ、よ。あまいの。――ほんと、泣きそうに甘いわ」
顔を逸らすとそう言った。
ガイアからは見えないルフレの頬を涙が一筋伝って落ちた。

――ガイアは、何も聞かない。
――皆はルフレを責めない。

あまく、優しくルフレを苦しめる。
そう考えてしまう自身の思考の昏さに嫌気がさす。
「ガイア」
「なんだ？」
「――クロムには、言わないで…」
少し鼻にかかった声音。それからしばらくルフレは静かに肩を震わせて、泣いた。
あの敗戦の後、彼女が初めて流す涙だった。
そんなルフレに触れるでも、慰めるでもなく。ガイアはただ彼女の隣に居た。



　　　◇◆◇



小さく聞こえていた嗚咽が穏やかな寝息に変わったのを確かめると、ガイアはそっとルフレの手の中のカップを取り上げ脇に置いた。
「いつまでそこにつっ立ってるつもりだ？」
ガイアが、僅かに開いたままの扉の影に向かって声をかけた。
ゆっくりと長身の影が姿を現す。夜の闇に溶け込むような濃紺の髪、暗闇でも輝きを失わない空色の瞳――クロムだった。
明らかに不機嫌な顔。睨みつけている、としか言いようのない険しい視線をガイアに向ける。
「そんな、人を殺せそうな視線で相手を見つめるもんじゃないぜ？」
相変わらず恐ろしくタイミングのいい奴――その思いは口に出さず、茶化したように声をかけた。
かくんと傾いだルフレの身体を差し出した腕で受け止めてやる。
クロムの眉間の皺が深まった。頭髪が残らず逆立つのではないかと思えるぐらいに物騒な気配。
「怒るんならお前の妹に言ってくれ――俺は＜実行犯＞だそうだからな」
「なんだと？」
予想外のガイアの言葉にクロムの気配が僅かに和らぐ。
「言い出したのがお前の妹で、皆で寄ってたかって出し合った安眠法をまとめあげたのがミリエルで、スミアとティアモとノノが城内にはない薬草を探しに出て、調合したのがソール――最後に止める間もなくサーリャがなにか怪しいまじないをかけた＜眠り薬＞をなんとかしてルフレに飲ませるように、王女殿下から仰せつかったんだよ」



『ルフレさん、寝てないんじゃないかな』
軍の再編のためフェリアに滞在して数日――心配そうに眉を寄せながらガイアにリズが言った内容がそれだった。
最愛の姉の死に誰よりも傷つき落ち込んでいた筈の彼女の、それでもルフレの変化に気づき心を砕ける優しさと強さに、驚きと感心を持ったことは表に出さずガイアは答えた。
『なら眠り薬でも一服盛ってやれば良いんじゃないのか？』
『そんなんじゃほんとの解決にはならないよ…』
その翌日にまたガイアに声をかけたリズは、薄い紙に包まれた粉薬をガイアに無理やり手渡すと言ったのだ。
『ガイアさんが言いだしたんだから、実行犯を任命します！』
面白いいたずらを思いついた時に見せる表情で、びしりと人差し指をガイアに向けて宣言した。
断ることもできたのだが、ルフレがいつ倒れてもおかしくないぐらいに張り詰めていたのも事実で――結局＜実行犯＞の任を受けることにしたのだった。



ガイアが厨房に居たのは本当。ただ、彼女の部屋に薬入りの飲み物を持って行こうとしていたところ本人がやってきた。そこだけが計画と違っていて。
話さなくても良い昔話を聞かせてしまったのは更に予定外だったが――目の前の青年の気配を感じたのは話を終えた後だったから、恐らく聞かれてはいないだろうが。



　　　◇◆◇



明日の軍議までにどうしても確認しておきたいことができて、夜半ではあるがルフレの部屋を訪ねた。明かりの消された室内のどこにも彼女の姿はなく、ただ彼女の外套だけが椅子の背もたれにかけられていた。その時に初めて、クロムはただ彼女に会いたかっただけだと気づいた。
気を抜くと、全て置き去りにして城を飛び出しそうになる。昂ぶる感情はただ、ギャンレルと刺し違えられればそれで良いと、軍も策もなく、ただ一人駆けて行きたいと叫んでいた。
ルフレのあの優しい瞳で、冷静な声音で、自分を諌めて欲しかった。
彼女の部屋で待つこともできたが、それすらもどかしく城内を探す内、厨房脇の裏口が僅かに開かれたままなのに気づいた。
扉に近づくと、彼女の話し声が聞こえた。そのまま外へ出て行こうとしたクロムの耳に『クロムには、言わないで』そう消え入るように言うルフレの声が聞こえて。出て行くことができなくなった。
扉越しに感じる彼女の気配は、静かに泣いているようだった。



　　　◇◆◇



扉を一歩出たその位置でルフレに近づくことが出来ずに居るクロムにガイアはにやりと笑いかけると腕の中の彼女を抱き上げた。
一度は和らいでいたクロムの眉間の皺が再び深く刻まれる。
あまりにも分かり易すぎるその様子に苦笑しながら、ガイアはクロムの真正面に立った。穏やかな寝息を繰り返すルフレを挟んで対峙する。
「お前の方が部屋が近いだろう？こいつ、運んでやってくれるか」
「――俺は…」
何かを躊躇うクロムに畳み掛けるように言ってやる。
「嫌なら俺が連れて行くだけだぜ？」
「――っ、俺が、やる」
「なら受け取れ」
促されてクロムはルフレを抱き取った。力なく眠り続ける彼女の身体は驚くほどに軽かった。起きている時とは違うあどけない寝顔はまだ幼さの残る十代の少女のもの。
役目を終えたマントを羽織りながらガイアが言う。
「起きたらそいつの悩みを聞いてやれ」
「お前が、聞いたんじゃないのか」
やはり会話の殆どを聞かれてはいなかったらしいと確認しながらガイアが答える。
「聞いちゃいねえよ。こいつの心の闇に差し伸べてやれるような手は、もう随分昔になくしちまったんでね」
そう言ってクロムの横を通り抜けると扉の中に消えた。



　　　◇◆◇



ふわふわと甘い香りに包まれてルフレは夢も見ずに眠った。
むせ返るように甘いその香りが、途中からお日様の匂いに変わったような気がした。
窓から差し込む柔らかな日差しにゆっくり目を開ける。
ルフレの手を握る無骨で大きな手。寝台にうつぶせになった濃紺の髪。お日様の匂いの正体が目の前に居た。
彼女の相棒、半身――誰よりも大切な守るべきひと。
クロムのことを起こさないようにそっと起き上がると、彼に拘束されていない方の手でクロムの髪に触れてみた。硬いしっかりした感触の髪の毛。優しく梳くとふわりとまたお日様の匂いがした。
クロムが身じろいだので髪を梳く手を止める。
うつぶせになっていた寝台から顔を上げるとクロムは言った。
「ルフレ…起きたのか。いや、俺が寝ていたのか？」
「おはよう、クロム」
その寝ぼけた様子がおかしくて、くすくすと笑いながらルフレは言った。
なんだか久しぶりに笑ったような気がした。
自分はいつの間に眠ってしまったのだろう、と昨晩の記憶を辿ってみる。
どうも、ガイアと話している内に――正確には泣いている内に、眠ってしまったような気がした。
その記憶とクロムがここに居る理由が結びつかなくて、素直に聞いてみる。
「クロム、あの、ガイアは？」
途端に冷え込むクロムの気配にルフレはそれが失言だったらしいと気づいた。
何か言葉を続けようとしたルフレを、クロムが強引に抱き寄せた。不意にきつく抱きしめられて、ルフレは何も言えなくなる。
「すまなかった」
そう、クロムは言った。
「俺は――自分のことで一杯で。おまえの気持ちも、辛さも、考えてやれていなかった。おまえを泣かせてもやれないような男が、今更何を言っても遅いのかもしれないが…」
泣いているところを見られていた、それを知って、ルフレの身体が強張る。
それを拒絶と取ったクロムの腕が更にきつくルフレを抱きしめる。
「泣くのは、俺の腕の中でだけにして欲しい。俺以外の人間の前で――俺の手の届かない場所で、一人で苦しむのはやめてくれ」
懇願するような口調だった。

どうしようどうしようどうしよう、ルフレの頭は混乱していた。クロムの言った言葉もほとんど聞こえていない。
一番知られたくない相手に、知られてしまった。いくら拭っても、押し込めても表に出てくる心の闇。その存在をも知られてしまったのだとしたら。
こんな人間に軍の指揮など任せられない筈だ。クロムは自分を置いていくかも知れない。

クロムの傍に居られなくなる――

知らず、ルフレの手はクロムの服の胸元をぎゅ、と握り締めていた。
「――いや」
腕の中から聞こえた小さな声にクロムが抱きしめていた力をゆるめ、ルフレの顔を覗き込んだ。
「俺は…そんなに信用できないか」
苦しげに呟かれた言葉も、ルフレの耳には入っていない。
「嫌。置いていかないで――傍に居させて」
すがるようにクロムの服を掴んだその手が震えている。ルフレの小さな声も震えていた。
「あたしは役に立たない軍師で、何も出来なくて。後悔にいつまでも囚われて抜け出せない弱い人間で――もうクロムの隣に立つ資格なんてないって分かってる、でも――」
ルフレのその言葉をクロムの口づけが塞いだ。
驚いて逃れようとする顎を捉えて、肩を抱き寄せる。
なだめるように優しく口づけを繰り返すと、強張っていたルフレの身体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「『おまえのせいじゃない』そう言ってもおまえには届かないんだろうな…」
困ったような、悩むようなクロムの声。
「おまえは俺の半身だ。残ると言っても連れて行く――いや、そんなことが言いたいんじゃなくてだな」
ぽかんと自分を見つめるルフレを前にして、慌てたように言葉を続ける。
「俺もおまえも半人前で、悩みながら進むしかないんだと思う。おまえはそのままで俺の隣に居てくれれば、良いんだ。そのことが何より俺の力になる――ああ、くそっ、どうして上手く言えないんだ」
苛立つように言うクロムに、ルフレが微笑みかけた。
「ありがとう」
「ルフレ…」
「クロムの言いたいこと、ちゃんと、伝わったと思う」
そっと、クロムの頬に触れてみる。
「こんなあたしでも本当にクロムの役に立つのなら――隣に、居させて」
そう言葉にしたルフレをクロムは再び抱きしめた。
「ああ――ずっと、離さない」
ごく自然に唇が重なった。



「この戦いが終わったら…」

ルフレの髪を優しく梳きながらクロムが言った。
「え？」
「いや、なんでもない」
ひとつ笑むともう一度ルフレに口づけた。






--END--


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笹川美和さんの『過去』という曲から。タイトルと最初の四行を無断拝借しました。
彼女の歌のほとんどがルフレ視点のクロルフに聞こえてしまう病に今かかっております。

2012/7/28