『おやこ』










「お母様」
夜。ルフレが天幕の中で一人、イーリスの地図を広げながら今後の行軍進路について確認していると、外から声がかけられた。
地図の上に置こうとしていたいくつかの、兵と砦に見立てた木や石で作られたマーカー(ガイア作)を地図の脇に置くと、ルフレは顔を上げた。
見ると、天幕の入り口の垂れ布が少し開かれて、そこからルキナがちょこんと顔を覗かせている。
「ルキナ――どうしたの？」
入ってらっしゃい、と声をかけると、ルキナはどこか悲しげな顔に無理に微笑みを浮かべつつ、ルフレの前まで来てテーブルの向かいに置かれた簡易の腰掛けにストンと座った。
何か話があって来たのだろうに、言いにくい内容なのか、何度か口を開きかけては押し黙る。
「…お母様」
ようやく、話しはじめたその顔は、まだ迷っているようで。
「大丈夫。ゆっくりで良いから話してごらんなさい」
そう言って、やさしく微笑む。

母のその表情に少し気持ちが楽になったのか、ゆっくりとルキナは話しはじめた。
「おじさまのこと、なのですが」
「おじさま、ていうとグラース公爵のことかしら」
クロムの不在にクーデターを起こし、今は小さなルキナを人質に、こちらの降伏と譲位を望んでいる。イーリス最大の公爵。
「はい」
彼の敵について、何か言い忘れていた情報があって、こんな夜半にわざわざ来てくれたのだろうか。だが、それならば言うのを躊躇う理由が分からない。
そう思考を巡らすルフレに、予想とは違う答えが与えられた。
「私にはどうしても信じられないのです。あの、優しかったおじさまが。王位簒奪を謀るなんて」
「――！」
そうか、とルフレは思い当たる。
ルキナは未来でのグレンツェンを知っていて、そのイメージと現在の彼がしている行為のあまりの違いに苦しんでいるのだ。

だが、それは仕方のないことだろう。
ギムレーの復活した絶望の未来で聖王の位を継ぐことと、かの邪竜が消滅した現在で安泰に王座につくこととでは余りにも意味が違いすぎる。

――もう少しで手が届くように見えるものには、人は、つい手を伸ばす。
それが、欲というものだ。

軍師として、多くの書に学び、人と接してきたルフレにとっては、ごく当たり前のことに思えたが。

――この子にどうやって説明してあげたら良いかしら。

父親に似た、真っ直ぐに人を信じるその気性を、できるだけ守ってやりたい。
一瞬でそこまで思考を巡らせたルフレは、ルキナに話しかけた。
「未来でのグラース公は、どんな方だったの？」
「おじさまのこと、ですか？」
聞かれて、ルキナがしばし考える。
どうやら彼の敵(←ルフレの中では100%敵に認定されているので、どうしてもそう思ってしまう)との思い出を、頭に浮かべているようだ。
「私が幼い頃から、お父様もお母様も城にはほとんどいらっしゃらなくて――すいません、仕方のないことなのは分かっています」
慌ててそういうルキナに、優しく返す。
「良いのよ。ずっと寂しい思いをさせて、ごめんね」
そう言いながら、今も城に一人で居るだろう小さいルキナのことを思い出す。
――早く、会いたいわね。
心からそう思った。

「寂しい思いをしていた私を、おじさまはいつも気にかけてくださっていました」
「そうだったの」
本当に、状況は人を変えるのだな、と妙に納得しているルフレの心中には全く気付かずに、ルキナの言葉は続く。
「毎日のように私の部屋まで話をしに来てくださって」
――暇なのね。
「気晴らしにお芝居に連れていってくださったり」
――まあそれは有り難いかしら。
「私の誕生日に部屋一杯の薔薇を贈ってくださった時はさすがに驚きましたが…」
――ん？
「いつも笑顔で『私の可愛いルキナ』と呼んでくださっていて」
――いや、待て。
「ルキナ、それは…」
完っ全に狙ってる。未来の女王の夫の座を。
今とやり方は違うけど、目的は全く変わってない。

「おじさまのことが、大好きだったんです」
そう締めくくったルキナを前にして、ルフレは頭を抱えたくなった。
――どうしよう。
ありのままを話せばルキナは間違いなく傷つくだろう。
だが、この余りにも純真な娘の思考回路をそのままにしておくのも危険すぎる。
顔には微笑みを浮かべながら頭のなかでは非情な決断を迫られているルフレに、ルキナはこう言った。
「ありがとうございましたお母様。なんだか、聞いていただけてスッキリしました」
彼女の最愛の夫によく似た、眩しいほどの晴れやかな笑顔を満開にして言う。
勢いよく椅子から立ち上がると、一転して真剣な表情を浮かべてルキナは言った。
「今のおじさまは敵。これで迷わず戦えそうです」
再びにっこりと笑うと、ぺこんと頭を下げ天幕を出ていった。



　　　◇◆◇



「ルフレ、居るか？」
ルキナと入れ替わるように、今度はクロムが天幕に入ってきた。
スタスタとテーブルの前まで歩み寄ると、そこに置かれた簡易用の腰掛けにストンと座る。
「クロム。ちょうどよかった。明日からの進軍について確認したいことがあるんだけど」
「ああ、俺もそのことで相談があって来た」



一通り、二人きりの軍議を終えると、思い出したようにクロムが言った。
「そういえば、ルキナが来ていたようだが」
何か用だったのか？そう、尋ねた。
最近なにやら浮かない顔をしていた娘のことを気にかけていたらしい。
「それが、ね」
先ほどされたルキナからの相談内容をクロムに伝える。
あえてルフレ自身の解釈は伝えずに、クロムがどう判断するのかを聞いてみるつもりだった。

「確かに、な」
そう、切り出すクロムに嫌な予感を覚える。
「俺も、今回のことには驚いている」
言って、困ったように頭をかく。
「叔父上は誰よりも王家のことを考えている人だった。俺の祖父――三代前の聖王から与えられたグラース平原の領地の開墾を更に進め、国内の治安を守るためにと私設の軍を年々増強していた。叔父上は妻帯していないからもちろん子供も居ないが、あえて養子は取らずに、亡き父王――俺の祖父だが、にいただいた領地を豊かにして国に返すのが私の務めだと言っていたんだぞ。本当に清廉な方だと、尊敬すべき叔父だと思っていたんだがな…」

――兵糧を増やして
――軍備を増強して
――王になってから釣り合った身分の妻をめとるつもりで
としか、ルフレの耳には聞こえなかった。

「クロム。あたしには、『王位を簒奪するつもりでいます』としか聞こえないんだけど」
ルキナには伝えるのを躊躇ったが、夫に対してははっきりと言う。
「いや、そんなことはない。実際、屍兵が現れた時には叔父上の私兵のお陰でイーリスはそれほど荒廃せずに済んだんだ」
「それはそうだと思うわ。自分のものにするつもりの国が荒れるのを望むはずがないもの」
「そういう考え方もあるかも知れないが…」
まだ何か反論したそうなクロムを正面から見据えると、ルフレは言った。
「クロム、できればこんなことは言いたくないんだけど…」
「なんだ？」
ルフレの瞳が金色に輝いているのを認めて、クロムがいぶかしそうに言った。
なぜ、怒っているのか。
「ルキナは、まだいいわ。可愛いと思う。でもね、いい歳をした大人で、一児の父の、聖王の位にあるひとが、そこまで真っ直ぐなのは…職務怠慢というか、ただのバカよ」
「んなっ！？」
妻からの唐突なダメ出しにクロムが言葉を失った。
「………おまえの方こそ、戦術書の読みすぎで疑い深くなってるんじゃないのか」
「だって、実際裏切られてるのよ？」
「それは、きっと魔がさしてだな」
「あんな用意周到な魔のさし方、あるわけないじゃないの！」
「誰しも間違いは犯すだろう！」
「一度きりでも許されない間違いだってあるのよ！！」
気持ちを静めるために、クロムはゆっくりと息を吐き出した。
「…分かっている。叔父上は許されないことをした。それを、容認するつもりはない」
そう、静かな声音で言った。
「――だがな、ルフレ。それでも。あの時俺がおまえ信じていなければ、おまえは今ここに、俺の隣には居ないんだぞ」
「――！」
今度は、ルフレが言葉を失う番だった。
その言い方は卑怯だ。そう言われて、ルフレに反論ができる筈もない。
「そんな顔をするな」
微かに眉間に皺を寄せて、しゅんと項垂れるルフレに、クロムが言った。
「おまえが俺を心配して、そう言ってくれているのは分かっている…だかな、俺はこの生き方を変えるつもりはない」
ルフレの隣に移動すると、うつ向いていた顎に手をかけて上向かせる。
「姉さんの遺してくれた理想を守るためにも。俺はこれからも人を信じ続けたい」
「クロム…」
潤んだ琥珀の瞳で見上げると、小さな声で、ごめんなさい、と呟いた。
「いや、俺も言い過ぎた」
その瞳の輝きに吸い込まれるように、口づけを落とす。
「――明日も早い。もう休もう。…遅くまで邪魔をして悪かったな」
そう言って、もう一度ルフレにキスを与えると、耳元でおやすみ、と囁いた。
「おやすみなさい」
まだ少し潤んだ琥珀の瞳に微笑み返すと、クロムはルフレの天幕を出ていった。



　　　◇◆◇



…なんか、うまく言いくるめられた気がするけど。
先ほどのやり取りを思い出して溜め息をつく。

――クロムが信じる道を選ぶのなら
あたしは、疑う道を歩もう。
そう、改めて決意する。
――光と影のように
愛する聖王の歩む光の道に寄り添うようにして、相反する影の道を自分は選んでいこう。

――それが、あたしがここに居る理由なのだから。

静かにそう、心に決めた。





--END--


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『連理の枝』が出来たころに、グレンさんはどんな人だろうかと考えるために書いたお話。
次はイーリス編に行くので、載せる頃合かなと思いまして。

2012/9/15