『なんでもない日』


　開け放した窓から入り込んだ風がふわりとカーテンを揺らした。ひらひらと揺れるレースが陽光を透過させて絨毯に陰影を描く。
　思わず眠気を誘われるような、あたたかな陽気だった。
　毛足の長い絨毯の上を軽やかに行き来する姿があった。淡いグリーンのスカートがくるくると動くたび、薄紅色の髪がふわりと揺れて、甘い香りがあたりに漂う。
　無意識の鼻歌を交えながら、気に入りの茶器を順にテーブルに並べてゆく。実に慣れた手つきだった。一国の王妃としては稀なことかもしれない。
「カップは……四つ、いえ、五つですね」
「多くないか？」
　頭上から聞こえた声に、ルフレは微笑んで振り向いた。
「クロムさん」
　優しく顎が掬い上げられて、ごく自然に、唇が重なった。神剣を操るに相応しい無骨な手が、ルフレの滑らかな頬をなぞった。
「午後の予定がすべて明日以降に振り分けられていたんだが」
　今度のキスは少しだけ長く。
　愛しげに唇をなぞるクロムの指先に、ルフレの指先が添えられた。
「なんだか急に、あの子達が帰ってくるような気がして」
　ルフレの言葉が先ほどの疑問に対するものだと気づき、クロムはあてが外れたような顔をした。
「おまえの勘はよく当たるからな」
「ふふ」
「なんだ？」
「クロムさんと一緒の時間が欲しかったのも理由ですから、あなたの予想は外れていませんよ」
「……っ」
「クロムさん？」
「おまえは、卑怯だ」
「なんですか、それっ」
「おまえのことが、とんでもなく愛しいということだ」
　今度はルフレが絶句する番だった。
「あ、あのっ」
　いたたまれなさに声を上げる。
「なんだ」
「お茶菓子、沢山作ったんですよ」
　気まずさを誤魔化すようにテーブルの上を示した。そこには綺麗に焼きあがったクッキーやスコーン、野菜やハムの挟まれたサンドイッチがたっぷりと盛り付けられていた。
「……おまえが、か」
　クロムの声音が一段沈む。
「はい。朝から張り切ってしまいました。感想を知りたいのですが皆、遠慮して食べてくれないのです。クロムさん、味見してくださいますよね」
　それには気づかぬのか、ルフレはにこりと笑んで夫を見上げた。
「構わないが……」
　イーリス聖王国が誇る希代の軍師にして慈悲深き聖王妃の作る料理が、かなりの高確率で鋼味に仕上がることは城内では周知の事実なのであった。

　高く晴れ渡った空に薄い雲が流れていた。燦々と降り注ぐ日差しが白い石畳に反射して眩しい。
　せわしなく人々の行き交う通りをゆったりと歩く二人組が居た。ゆったり、というよりは、躊躇いがちに、と言った方が正確だろうか。騎士に似た藍色の衣装を纏う人物を、魔道士風の黒いフード付きコートを身につけた青年が急かしているようにも見える。
「ここまで来ておいて“やっぱりやめておきましょう”ってどういうことですか」
「ですから。やはり、ご迷惑なのではないかと」
「そんなわけないですよ！父さんも母さんもきっと喜びます」
「でも……」
「とにかく、僕は行きますからね！僕が行く時点でルキナさんの気遣いは台無しです。よって、ルキナさんも一緒に行きましょう」
　一息にそう言い切ると、青年はにこりと笑みを浮かべた。
「……マーク」
　ルキナ、と呼ばれた娘が呆れたように青年の名を呼んだ。その目前にマークが手のひらをかざした。
「待ってください」
「？」
「この匂いは、毎日五十食限定のパンが焼き上がる匂いに違いありません」
「……はい？」
　ルキナが疑問符を投げかけた頃にはマークはくるりと背を向けて走り出していた。
「ルキナさんっ、城に行くのは腹ごしらえを済ませてからにしましょう」
　一度だけ振り向くとそう言い残し、マークは猛然と駆け出した。
　ため息混じりに苦笑して、ルキナはその後を追いかけた。
「どうして切っちゃったんですか」
　無事手に入れた焼きたてのパンを頬張りながらマークが言った。
「なんのことですか？」
　半分渡されたパンをちぎって口に放り込もうとした手を止めて、ルキナが返す。
「髪ですよ、髪！僕、好きだったんですよ、姉さんの髪……」
　綺麗だったのに勿体ないです、と不満げにむうと頬を膨らませたマークに、ルキナが困ったように笑みかけた。首を傾げると、肩にかからぬ長さの濃藍色の髪がさらりと揺れた。
「あれは、願掛けだったのですよ」
「と、いうと？」
「お父様をお救いできるように、未来を変えられるように、お母様が無事に戻っていらっしゃるように――全部叶ったからには、伸ばした髪はナーガ様にお納めしなければなりませんので」
「そういうものですか」
　でも、勿体無いと思います、とまだ納得いかぬげにマークが呟いた。

「残念です。ここに来る前に城下で食事を済ませてしまったんですよ」
　わざとらしいぐらい残念そうに言ったのはマークだった。
　彼の視線の先には、美味しそうな焼き色のついた菓子と、美しく盛り付けられた軽食が並んでいる。それら全てが素晴らしく鋼味であろうことは容易に想像がついた。
「あの、でもマーク、お母様がせっかく作ってくださったのですから」
　困ったように言ったのはルキナだった。恐ろしいことに、ルフレの料理の鋼味を気にせず食べる数少ない――タグエルを覗けば唯一の、人間だった。
「お母様の焼いたクッキー、久しぶりです」
　うふふ、と、嬉しそうに笑みこぼれながらルキナが焼き菓子を手に取る。クロムとマークが見守るなか、幸せそうに噛み砕いた。
「ヴァルムは随分と落ち着いてきました。ヴァルハルトさんを再び盛り立てようとする勢力が散見していましたが、ヴァルハルトさん自身の一声で動きは収束しています。あのひと、もう王様になる気はないんですね。勿体無い気はしますけど」
　手の中のクッキーをもてあそびながらマークが言う。
「ギムレー教団の残党の動きは未だ掴めていません。ギムレーが完全に滅びたのですから、自然消滅した可能性もありますが」
　ティーカップをソーサーに戻しながら、続きをルキナが引き取った。
「なるほど。どこの国も平和への道を歩いているってことですね。マークちゃんは安心しました」
　柔らかな少女の声の闖入に四人は愕然とそちらを向いた。
　ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶を一息に飲み干して顔を上げた少女がにこりと微笑んだ。
　ぺろりと、上唇についたミルクティーを舐めとってから再び口をひらく。
「ところで、父さんを知りませんか？」
　突然の闖入者を息を呑んで見つめる聖王一家の様子など気に留めた風もなく、少女があっけらかんと言葉を続けた。
「あとこれ、いただいて良いですかあ？私、朝から何も食べていなくて」
　机上に並べられた茶菓子へと手を伸ばしながらそう言った。
　しばし迷った末、綺麗に焼かれたスコーンを手に取り、クロテッドクリームをたっぷりとのせる。
　皆の視線があつまる中、少女がスコーンにかじりついた。
　よく噛んで、こくりと飲み込む。
「やっぱり、紅茶にはクリームをたっぷり乗せたスコーンですねえ」
　ほっこりと笑み、お代わりの紅茶に口をつける。
「あの」
　最初に自分を取り戻して声をかけたのはマークだった。
「なんですか？」
　にこにこと笑みながら少女が首を傾げる。
「なんともないですか？」
「はい？」
「たとえば、鋼の味がするとか」
　ああ、そのことですかー、と少女が軽く受ける。
「父さんの料理に比べればこのくらいの鋼味軽いもんですよう」
　そこで自身の目的を思い出したらしく、ぽふんと両手を打ち合わせた。
「そうでしたっ。父さんはどこでしょう」
　問われても、少女が誰かすら知らない彼らに応えるすべはない。
「こらマーク」
　ない筈の応えは彼らの背後からあった。
「あ。父さん」
　かたんと、椅子を立ち少女が声をあげる。
「できるだけ異界の人たちとは関わらないように、と言ったよね」
「そうでしたっ。美味しい匂いに誘われてつい」
　てへへ、と、悪びれず舌をちろりと出した。
　少女に“父さん”と呼ばれた青年が、苦笑混じりに近づいて、少女の頭を混ぜっ返した。
「ああ、そういえば朝からなにも食べていなかったっけ」
「そうですよっ。父さんは何かに没頭するとすぐごはんを忘れてしまうんですから」
　ぷんすかと怒りながら少女が言う。
「うん。悪かった」
　もう一度、少女の頭をぽんと撫でた。
　殺気も、害意も悪意すら感じない相手に。どうしたものかと戸惑いを隠せぬ様子でクロムが口を開いた。
「異界から来た、と言ったように思うが」
「そう。君達から見た僕らの世界、僕らから見た君達の世界はお互い“異界”と呼ばれる関係にある」
「……よく分からん」
　唸りながら首を捻るクロムに、青年が笑いを漏らす。
「クロムはどこでも変わらないね。じゃあ、こうしよう。僕らは異界から来た。もうすぐ帰る」
「うむ、まあ分かった」
　素直に頷く横で、ルフレがため息を吐き出した。
「そっちは、納得いかない様子かな」
「はあ。把握しましたが理解と納得には程遠いですね……それで、何をしにいらしたのですか？」
「父さんとマークちゃんは、必殺仕事人なのですっ」
「マーク、混ぜっ返さないで。混乱するから」
「はぁい」
　青年が、少女からルフレへと視線を転じた。
　一瞬の、合わせ鏡。
　奇妙な既視感に軽い眩暈を感じ、ルフレはそっと視線を逸らした。
「あなたは……」
　ふたたび、青年を見つめる。再びは感じることのなかった既視感を、少しだけ惜しく思う。
「僕の名前は訊かないでくれると嬉しいな」
「混乱のもとになるから、ですか」
「そうだね」
「なるほど、あなたは」
「さすがに、勘が良いね」
　にこりと、微かに口元が笑んだ。　
「――おい」
　不機嫌な声音に、青年とルフレがクロムを見た。ぴたりと息の合った動作だった。
　にやりと、青年が不適な笑みを浮かべた。
「俺のルフレを見るな近づくな話しかけるなって、顔に書いてあるよ」
「なっ」
「いくつになったか知らないけど、いい加減、考えがそのまま顔に出ちゃう癖は直したほうが良いと思うよ」
　仮にも一国の王なんだしね、と続ける。
「やはりそう思いますか……」
　ため息混じりにルフレが受ける。
「それがクロムの美点でもあるんだけど、ね」
「それでも聖王としての自覚は出てきているんですよ」
「甘やかしちゃいけない」
「そうですね、善処します」
「――おい」
　再びクロムの声が割り込んだ。ワントーン、音程が下がっている。
「はい」
「なに」
　オクターブの高低をつけてきれいにユニゾンした返答に、クロムの眉間の皺が深まった。
　その様子を見て、青年とルフレが同時に吹き出した。
「あなたもマークという名前なんですか」
「はい。マークちゃんとは私のことですよ」
「僕も、マークと言う名前なんですよ。奇遇ですね」
「おおっ。なんだか他人とは思えません」
「あはは。僕も今そう言おうと思っていたところです」
「わあ。気が合いますねえ」
「あ、お茶のお代わりどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあお茶菓子をもう一つ」
「あなたのお父さんが作る料理も鋼味なんですね」
「ほうなのれふ」
　こくん、と紅茶で流し込む。
「父さんの作るシチューに比べたら、ぜんぜん美味しいですよこのマフィン。甘いですし」
「ふうん。あなたのお父さんは、もしかしたら……」
「しっ。それはトップシークレットです。口にしちゃいけませんよ」
「おや。それは失礼」
「分かれば良いのです」
　どこか共犯者のように、ふたりは笑み交わしあった。
「マーク」
　青年の呼びかけに、
「はいっ」
　元気よく少女が応える。
「そろそろ、行くよ」
「はぁい。あ、ごちそうさまでした」
　行儀よくぺこんと辞儀をしてから少女は軽やかに立ち上がった。
「邪竜のいない平和な世界、もう少し見て回りたかった気もしますが」
「もともと間違えて来ちゃったんだ。早く戻らないと、ね」
「あの、どうしてもう邪竜が居ないことを」
　ぽかんと成り行きを見守っていたルキナが、初めて口を開いた。そんな彼女を優しげな眼差しで見つめ、青年が応えを返す。
「この世界の空を見れば分かるよ」
「はいっ。異界の中にも絶望に染まっていない、こんな綺麗な青空の世界があるなんて、マークちゃんは感激しました」
「本当。良いもの見たよね」
　うんうんと、頷く青年が纏う黒の外套の裾が、窓から降り注ぐ光を透過したように見えて。ルフレは瞳を瞬いた。
「お邪魔しましたーっ」
　元気いっぱい叫んだ少女の指先が、今度は見紛いようもなく透けている。
　そうして、絶望の芽を摘むべく異界をめぐる父と娘は。
　すうと、空気に融けるようにして姿を消した。

「なんだか、生き別れの兄か弟に会ったような気分でした」
「僕も、妹に会ったみたいな気分です……」
　はあ、と、母と息子は同時にため息を吐き出した。
「結局、今回も鋼味だったのですね……」
　しばしの沈黙のあとにルフレがぽつりと言った。
「すいません。クロムさん、あんなに沢山食べてくださって……美味しいなんて、無理させてしまって」
　耳と尻尾があったなら間違いなくしゅんと項垂れているに違いない落ち込みを発揮して、消え入りそうに言い募る。
「いや、無理はしていないぞ？」
　涙を浮かべた瞳がじっと見上げてくるのに耐えながら、しどろもどろにクロムが返す。
「クロムさんの、うそつき」
「嘘はつかん。腹も減っていたし、その、以前よりは、美味かったぞ」
「………………」
「あの。私も、お母様のお作りになる焼き菓子、大好きですっ」
　たまりかねたように、ルキナの声が割り込んだ。
「あー、僕も、好きですよ。鋼の味はしますけどね」
　どこか仕方なさそうに、マークが引き取る。
　子供達に言い募られて、ルフレの大きな瞳がきょとりと瞬いて。すぐに笑み崩れた。
「ありがとうございます。その、お料理の勉強、がんばりますね」
　それからしばし、愛妻の作る茶菓子に悩まされる聖王陛下の姿が城内でたびたび目撃されたという。
　晴天の多いイーリスでも、殊更によく晴れた青空の下で過ぎた、なんでもない日の出来事だった。






--END--




2013/11/28




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二万ヒットお礼リクエスト企画のその１、です。
リクエストのあったCPとテーマを全部書きます、という企画でした。
ご参加くださった皆様、ありがとうございました！更新が遅くなり申し訳ありません……