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『つくり笑顔』 激しくあたる風が頬に触れ左右に分かれる。慣れない者は目を開けていることすら難しい、遙か上空に吹き荒れる風の中でも、彼女はすべてを明瞭に見渡していた。 これが、夢であることを知っていた。 虹を見た。雷の稲光が美しく空を裂いた。つめたく振る雨、つよく照りつける陽光。 彼女がほんの少女の頃にはじめて見た景色と重なった。恐怖はなく。あの時と同じようにただ、美しい、と思った。 それが、誰とも共有されない感覚であることを、知っていた。 ◇◆◇ セルジュが風邪をひいた。 常に自分を律して、むしろ彼女の主人や他の団員たちの世話をなにくれとなく焼く彼女の不調は珍しく。皆一様に心配し――彼女へ密かな想いを寄せる者たちは余計に気をもんでいたようだった。 ひっきりなしに訪れる見舞いを適当にあしらいながら、看病をしているのはルフレだった。手の空いた女たちで順に看病を担当しているのだ。 ようやく熱もひき、静かな寝息をたてるセルジュのかたわらで戦術書のページをめくろうとしたルフレの手が、止まった。そっと、音を立てぬよう本を置き、静かに扉を開けて廊下へ出た。 団員たちの居室が並ぶ廊下を抜けた先に目当ての相手は居た。 「お見舞いにしては遅い時間に来るのね。ヘンリー」 「あはははは。見つかっちゃったー」 「いまセルジュは眠っているのだけど」 「そっかー、じゃあ、お見舞いだけ渡しておいてよ」 へらへらと、いつもの笑みでルフレに言う。ヘンリーは手にした包みをルフレに差し出した。 「……ヘンリーさん」 「なぁに、ルフレ？」 「これは、なにかしら？」 「お見舞いだよ〜♪」 ルフレの不信も無理はない。明らかに、その包みは、もそもそと動いていた。 「…………カエル？」 静かな声でルフレが問う。もそもそごそごそ続く動きを見ての推測だ。 「あったりー。さすがルフレ」 「ありがと。じゃなくて」 「セルジュが気に入りそうな可愛いカエルだったから、呪術の材料にするのは諦めたんだよ」 「かわいい、カエル」 「とりあえずお見舞いさせてよ」 「いいけど。起こさないでよ」 「はぁい」 機嫌よく返事をして、ヘンリーはルフレの後に続いた。 はたして、セルジュは起きていた。 「セルジュ、おはよー」 「あらヘンリー。こんばんは」 少し顔色も戻ったセルジュが、にこりと笑みかける。 「これ、お見舞いだよー」 ルフレが制止する隙もなく、ヘンリーは枕元まで歩み寄り、手にした包みを一息に開けた。 ぐぇこ。 ちいさく、カエルの鳴く声がした。 「あら。可愛いのね。わざわざ探してくれたのかしら」 まったく動じないセルジュの答えだ。 「違うよー、呪術の材料にするつもりだったけど、セルジュが気に入るかと思って殺さずにおいたんだよ」 笑みのかたちに固定された唇が、そう言った。 「そうだったの。ありがとう。大切に飼わせてもらうわ――ルフレ、かまわないかしら」 「行軍に支障がなければ……て、飼うの？」 「だって、可愛いもの」 「可愛いよねー」 「ヘンリーがくれたものだし」 「気に入ってもらえて嬉しいよー」 ふふふ、あはは、と笑み交わす二人をルフレがぽかんと見つめる。 ――そういえば、と、思い出した。 ◇◆◇ あれは、ヴァルム戦役の最中のことだったろう。 ルフレは気づいてしまったのだった。気づいてしまったからには、見過ごすわけにはいかなくなった。 それで、ヘンリーに聞いてみた。 「ルフレはみんなのことよく見てるね〜」 あははバレちゃった、と悪びれなく笑いながらヘンリーはそう言った。 「やっぱ、気のせいじゃなかったのね」 「うん。なんだか気になるんだ」 ちょこんと首を傾げて――自分自身でも不思議だというように――ふと真顔に戻る。 「呪術の対象になんて」 「してないよ〜。ルフレに怒られちゃうからね〜」 「あたしが怒らなかったらしてたわけね」 「うーん、どうかなぁ」 傾げたままだった首を元に戻して、やはり真顔でそう答える。 ヘンリーは、自身を持て余している。持て余しているが、きちんと制御している。だからこそ、自身の感情が把握できないということが、心底不思議なのだろう。殺戮を楽しむ、以外の感情を持つこと自体が、稀有なことでもあったのだろうが。 「分からないけど。なんだか気になるんだ」 いつものように、うたうように、けれどいつもとは違う温度を持たせてそう言った。 セルジュがルフレからそのことを聞いたのは、その日の午後のことだった。長い睫毛を瞬かせて、不思議そうに目を見開いた。 見られていることは知っていた。それが、呪術士の衣装を纏った白髪の少年であることも知っていた。 イーリス、フェリア混成軍となりヴァルムでも幾度か刃を交えたとはいえ、竜騎士はやはり物珍しい。味方として寝食をともにするとなれば尚更だ。まして、飛竜を駆るのは妙齢の美女。以前から好奇の目にさらされることの多かったセルジュにとって、ヘンリーの視線はそんな中のひとつに過ぎなかったのだが。 「私の、笑顔」 思わぬ理由に、オウム返しに問い返していた。 珍しく自身の言葉に確信が持てない様子で、ルフレが戸惑ったように頷いた。 「なにか、よからぬ考えがあって、というわけではないようなんだけど」 悪意、とは言わない。ヘンリーにその感覚はない。 「一応、やめるように、お願いはしておいたから」 あまり人をじろじろ見るのはぶしつけだとルフレが言うと、ヘンリーはとても不思議そうに「どうして」と聞いた。彼に“常識”や“作法”を教える存在など、居た筈もないことにそれで気づいた。 ルフレがそう言うのなら、と、特に気にした風もなくヘンリーは笑った。 普通ならそこで終わりにする。わざわざ本人に伝える必要はない。だが、どこか、腑に落ちなくて。それを自身でも理解できなくて。 思わずセルジュ本人に伝えてしまったのだった。 それをどこまで察しているのか、セルジュは静かに笑んだままルフレの話を聞いていた。 セルジュがヘンリー本人にわざわざ理由を問うたのも、彼女にしては奇妙なことだった。普通ならば、流す。気にも留めない。筈、なのだから。 「セルジュは偉いな〜、って思っていつも見ていたんだよ」 聞いてみればやはり、予想外の答えが返ってきた。 「いつも笑ってないと、後ろから刺されちゃうからね。石を投げられても困るし〜」 だからセルジュも笑ってるんでしょ、と、なんの邪気もなくヘンリーが言う。 「そんなことをする人が、この軍の中に居たのかしら」 「そういえば、ここに来てからは石を投げられたりしてないかな〜。でもちゃんといつも笑ってるからだと思うよ」 へらへらへらと、笑み続ける。 この子は知っているのだと、思った。それを当たり前のこととして生きてきたのだと。 おまえは自分達とは違うモノだと、突きつけられたことのある人間だけが知る、感情だ。心の深い場所に打ち込まれて、抜けることはない冷たい楔だ。生存のための手段として刻まれる類いの感覚だ。 だからいつも笑っているのだと、ヘンリーは言う。セルジュも、そうなのだろう、と。 セルジュは、咄嗟に否定できなかった。 そしてヘンリーに興味を持った。 誰かの抱える闇を見ると、つい手を伸ばし触れてみたくなる。それが悪癖であるとセルジュは自覚していた。たとえ相手が救われたと感じたとしても、だ。 だがこうして、自身の闇に誰かが触れてくるのは初めてのことかもしれないと。幾度かヘンリーと話す内にセルジュは気づいた。それが不愉快ではないことにも。 「そりゃあそうだよ〜、セルジュは僕のことが好きでしょ」 今日もミネルヴァはかわいいね〜、と声をかけながらヘンリーが先に背に飛び乗る。 「あらあら自信家さんなのね」 セルジュが優しくミネルヴァを撫で、ヘンリーの後ろに乗った。 「ちがうの〜？」 「さあ。どうかしらね」 はぐらかすと、セルジュはミネルヴァに合図を送り、ふたりは空へ舞い上がった。 はじめからそうだった。ヘンリーは高所を怖がらない。恐怖心が抜け落ちているのかもしれない。 激しくあたる風が頬に触れ左右に分かれる。慣れない者は目を開けていることすら難しい、遙か上空に吹き荒れる風の中でも、彼女はすべてを明瞭に見渡していた。 ヘンリーが歓声をあげた。雲間に稲光がまたたく。ちかちかと光が連続して飛び交い、時折平原に落ちる。轟音、光、ひかりひかりひかり。 どこかで見た景色だと思った。いつか、ずっと幼い頃に、今と同じように誰かを乗せて飛んだ。それは友愛だったかもしれないし、淡い恋情だったかもしれない。どちらにしろ、儚く壊れた想いだった。光る雷に、降り始めた雨に、美しくかかる虹に、「綺麗ね」と声をかけようとしたセルジュに彼は、「頼むから早く下ろしてくれ」と恐怖に震える声で懇願したのだった。 異質な者を見るような目で、彼女を見ながら。 「綺麗だね〜」 心底嬉しそうなヘンリーの声に、セルジュは現実に引き戻された。 「……怖くはなぁい？」 つとめて冷静に、問うてみる。 ヘンリーはきょとりと目を見開いて、心底不思議そうな顔をした。 「ほら、雷なんて危ないでしょう。こんな高いところで、もし……」 振り向いたヘンリーと目が合う。真っ直ぐに、すべてを見透かす澄んだ瞳だ。 「そっか。セルジュはそれが怖かったんだね〜」 理解されない恐怖。それをヘンリーはまっすぐに言い当てた。 本心をぴたりと笑みで包み隠して。自身にすら見えないようにしてしまった。恐怖も、哀しみも、寂しさも、なにもかもあやふやに笑んで見えなくした。 「そうね。そうかもしれないわ」 とても正直に返した自身に少しだけ驚きつつ。セルジュはそっと、ヘンリーにキスをした。 ◇◆◇ 黒衣から覗く手が、音をさせないようにそっと扉を閉じた。 あれ以上室内に同席するのは出歯亀というものだろう。 最後に見たセルジュの顔を思い出し、自然とルフレの口元がほころんだ。いつもよりも、ほんの少しだけ、やわらかく笑うセルジュは美しかった。とても。 「まさか、あの二人がねえ」 希代の軍師にも分からぬことはあるらしい。 二人から結婚の報告を受けたのは、それから間もなくのことだった。
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2014/6/7
二万ヒットお礼リクエスト企画のその３、です。 ヘンセル初めて書きましたが楽しかったです！にこにこカップル。 |