『指輪』


　ここは、いつも静かだ。
　ページを繰る音が煩いぐらい。
　だからルフレはいささかならず驚いた。思い切り叫ぶのだけは気合で堪えた。
「ガイアさん」
　恨みがましく頭上に訴えかける。
　足音ひとつなく近づいて、ルフレの背後からごく自然に、彼女の形のいい頭に顎を乗せている盗賊に向けて。
「なんで俺だと分かる」
「なんとなく」
　甘いのだ、彼の周りの空気は。
「仕事ですか」
　さりげなく話題を変える。
「おう。甘味が足りん」
「平和ですからねえ」
　空は澄み渡る晴天。邪竜の滅んだ世界でなお起こりかける争いの芽を丁寧に摘み取り続けて数年。今尚、ガイアは密偵の任をこなしてくれてはいるが、それももう潮時なのではないかと錯覚するほどに、世界は平和だった。
　ルフレは一通り目を通し終えた書物を閉じ、書棚に戻した。
「松竹梅、どれにしますか？」
「ショウチク……なんだそれは」
「ソンシンで使われている慣用句ですよ。難しい、普通、簡単どれにしますか、という意味で使ってみました」
「どれでも良いが、甘味が食いたい」
「手っ取り早く？それとも手間がかかっても高級菓子が良いですか？」
「その中間」
「なら、あれですかね」
「なら、それだ」
「……ガイアさん」
「なんだ」
「とりあえず、その顎どけてもらえませんか」
「ん？ああ、すまん。丁度いい高さだったから、つい、な」
　ルフレは軽やかに振り向くと、ガイアを見上げた。頭ひとつぶん。ようやく視線が合う。
　にこりと笑みを浮かべ、相手の呼吸をはかり、告げた。
「ガイアさん、デートに行きましょう」
　ガイアの口から飴の棒がほろりと落ちた。

　一年を通して穏やかなイーリスの四季の中でもとりわけ過ごしやすい、よく晴れた春の空の下、城下は非常に賑わっていた。
　今日は市の立つ日だ。海の向こうから運ばれた香辛料や、北方で採れる宝石、南方の織物と、店店に並ぶ品たちが今のイーリス聖王国の豊かさを示している。
　そぞろ歩く人並みに綺麗に溶け込んだ、ガイアとルフレの姿があった。
「で。目的はなんなんだ」
　懐から出した新しい棒つき飴をもてあそびながらガイアが言う。
「だから、デート、ですよ」
　なぜ何度も確認するのかという不思議そうな口調でルフレが返す。
「そうじゃなくて俺が聞いてるのは」
「あ、あれなんか美味しそうですよ！」
　ルフレが指した露店では加熱して溶かしたザラメに発泡性の粉末を溶いたものを加えて膨らませて作る菓子が売られていた。シャリシャリと軽い食感が楽しい、甘い菓子だ。
　ルフレの熱心な視線を気にする風もなく、寡黙な店主が小さな麺棒に白い液体をとろりとつけて、くつくつと溶けた砂糖に突っ込みくるりとかき混ぜる。程なくしてぽわんと、カラメル色の満月が出来あがった。
　財布から代金を支払うと、ルフレは菓子を二つ受け取った。まだ、あたたかい。
　ひとつをガイアに渡し、自身は早速かぶりつく。
「甘いですねえ」
「ああ、うまいな。いい腕だ」
　ガイアの顔がほころぶのを見て、ルフレもにこりと微笑んだ。
「それで、だ」
「ガイアさんとデートがしたかったんです」
　ガイアの問いに被せるようにしてルフレが言う。さらりとした、真意の測りづらい口調だ。
「ほんとうに、それだけですよ」
　念を押すように、告げた。

　宣言通り――という表現が妥当かはともかく――なにごとも起こらずに、太陽は中天を過ぎて。
「お昼はさすがに甘いもの以外がいいです」
「好きにしな」
　あっさりしたやりとりのあと、ルフレが選んだのは大衆食堂だった。
　焼きたてのパンとスープの簡単な昼食を、ルフレが嬉しげに頬張る。
「なんですか？」
　面白そうにこちらを見つめるガイアにそう問うた。
「いや、あんなに甘味を食ったあとで、よくそんなに食えるなと」
「だって久しぶりのあたたかいご飯ですよ。もう、嬉しくて」
「なら毎日定時に食堂に来りゃいいだろうが」
「昼の、皆が休憩する時間が、一番集中できるんです。静かで」
「そんなもんか」
「そんなものです。あたたかいご飯は格別ですが、背に腹は変えられません」
「そんなもんか」

　店主と気さくに言葉を交わしていたルフレが包みを手に戻ってきた。
「今日の夜食にします」
　先ほどのパンに肉と野菜を挟んだものを包んでもらったらしい。
「仕事熱心なことで」
「あと少しなんです」
「新しい戦術かなんか考えてんのかい」
「あと少しで、私の手を離れます」
　静かな声音だった。
「ルフ……」
「ガイアさん」
　常に先を読み聡く振舞うこの娘が何かを躊躇う姿をガイアははじめて見た。
「デザート、食べましょうか」
　がらりと変わった話題が甘味とあらば、抗える筈もないガイアなのであった。

　小麦と卵で作った生地をまるく成型して油で揚げたこの菓子は、たっぷりと砂糖をまぶしたもの、チョコレートをからめたもの、半分に割ってクリームを挟んだものと種類も多く、人気の甘味だ。
　数種類の詰め合わせを買い求めると、ルフレが先にたって歩く。程なくして、見晴らしのいい広場に辿り着いた。適当なベンチを選んでルフレが腰掛けると、ガイアも隣に座った。
　包みを開けるとほんわりと、甘い香りが立ち昇る。
　しばし、無心にドーナツを堪能した。
　空になった包みを畳んでいると、ガイアがどこからか買い求めてきた茶を渡してくれた。まだあたたかい。
　両手で包んで息を吹きかける。慎重にすすると花の香りがした。
　心地好い無言の中、視線の先を雲がゆく。道行く人の楽しげな声、ものを売る掛け声や、煮炊きの香り。ゆっくりと西へ落ちてゆく太陽が街路に長い影をつくる。
「ガイアさん」
「うん？」
　街並みから視線を動かさず、ルフレが言う。空を見上げたままガイアが応える。
「私のお嫁さんになってください」
「……は」
　思わず振り向くと、ルフレの視線とかち合った。
「あ。間違えました。間違いです」
「ルフレ」
「わた、わたしと、」
「ルフレ！」
「は、はい！」
「嫁に来るか」
　ぽかんと、ルフレの口が開いて、閉じると笑みのかたちになった。
「はいっ」
　きらきらときらめくルフレの瞳を真正面から見つめ返しながら、素直に、綺麗だとガイアは思った。
　大きな掌がルフレの頬に触れる。
　長い睫毛が伏せられて。

　唇が、重なった。

　　　＊

「おまえはイーリスに一生を捧げるもんだと思ってたから指輪もなにも用意してないぜ」
「ふふふガイアさん」
「うん？」
　常に愛用するローブのポケットをごそごそやると、小さな箱を取り出した。
「おい。まさか」
　ガイアの目前に掲げるように、ルフレが箱の蓋を開ける。
　夕日の最後の一筋を弾いてきらりと輝く、それは。
「特注品ですよ」
　飴細工の宝石がきらめく美しい指輪だった。
　ガイアが真顔で指輪を取り上げる。
　美しいカットが施された、本物と見紛う飴細工に目を細める。
「確かに、高級菓子だ」
　感嘆の吐息とともに呟いた。






--END--




2016/1/5




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二万ヒットお礼リクエスト企画のその４、です。
長らくお待たせしてすいませんでした！久しぶりのガイルフ楽しかったです。