『嘘つきのはなし』
こつこつと、ブーツの踵が床を叩く音がした。長旅に耐えうる頑丈な作りのそれ、久しぶりに身につけたその履き心地を確かめるように、数度。 長剣を剣帯で留めてから腰に吊るし、最後に外套を羽織る。 動きに合わせて流れる漆黒の髪が部屋の照明を弾いて青く透けていた。 「ルフレ」 扉の方からかけられた声に、漆黒の外套姿の女性 ―― ルフレはゆっくりと振り向いた。 「クロム」 未だ納得できてはいないのだろう。複雑な表情を浮かべた夫の名を困ったように呼ばわった。 「できれば俺も一緒に行きたいところだが」 「ありがと。でも、今のイーリスの状況であたしたちが二人とも国を空けるのは難しいもの」 軽く首を傾げ、自嘲気味に笑む。 「あたしがペレジアに行くのですら、あまり良いこととは言えないわけで」 わがまま言ってごめんね、と、ルフレは小さく付け加えた。 クロムの指先がルフレの頬に伸びた。 触れるだけの口付けを交わして、 「行ってきます」 ルフレはそう言った。 城門を抜け、城下へと続く長い回廊をしばらく行くと、漆黒のマント姿が視界に入った。 かがり火に照らされる柔らかそうな赤毛。薄荷色の瞳がルフレを捉え、片手が軽く上げられた。 「よっ。時間通りだな。聖王陛下はごねなかったのかい」 軽い調子でかけられた声に、ルフレの唇が苦笑に染まる。 「大丈夫。クロムはちゃんと分かってくれてる」 「あー……そうか」 ガイアが気まずそうに髪をかいた。 「すまん。余計なことを聞いた」 「ガイアの方こそリズにはちゃんと話してきたわけ？」 「お返しのつもりか」 ルフレは微笑んだままなにも言わない。 「お前の護衛だっつったら」 「うん」 「行ってらっしゃい、お土産は甘いもので良いよ。だと」 「ふぅん。珍しい。着いて行くって言わなかったのね」 「聖王妃殿下の護衛なら全うな仕事だからな」 「でも。たぶん危険よ」 「それはわざわざ言う必要のあるこっちゃないだろ」 「なるほど」 「………………」 「………………」 「……こんなとこでしゃべてても仕様がねえ。行くか」 ルフレが軽く頷き返し、二人は城下へと歩き出した。 イーリス王都からペレジアの首都までは騎馬の行程でおよそ半月。 近くに町や村があれば宿を取り、なければ野宿で休息を取りながら進む。ふたりとも旅には慣れていたし、夏という季節がら野宿に不自由もなかった。 異変が起きたのは王都を発って数日が過ぎたとき。ペレジアとの国境に程近い街道の脇で馬を休ませていた時のことだった。 異変に気づいたのは、いつものようにルフレだった。耳を澄ませるように微かに伏せられた瞳が、黄金色に染まっている。ルフレの変化に気づいたガイアが剣を構えたとき、木々の陰から黒衣の男たちが音もなくあらわれた。 「よっぽど恨まれてるみたいだな、お前は」 「そのようね」 ガイアの隣でルフレも抜刀する気配。 「五人、それで全部よ」 淡々とルフレがそう言ったのと、五人が地を蹴るのが同時だった。 ルフレとガイアの足元に倒れ付した男たちの身体から立ち昇る血臭を押し流すように、さやさやと風が渡る。 「ルフレお前……見えてないだろう」 苦々しい声でガイアが言った。先ほどの戦いでのルフレの動きに感じた不自然を、問いにした形がこうだった。 ぎこちない手つきで剣を鞘へと仕舞うルフレの指先がびくりと震えた。それだけで、ガイアには充分だった。 ルフレの唇から、長く、ため息が漏れた。 「ガイア」 「なんだ」 「―― クロムには、言わないで」 「……いつかも言われたな、その台詞」 「そ？」 言われてルフレが苦笑する。 「ガイアにはそんなお願いばっかりね」 「ルフレ」 「なぁに？」 「何が、起きてる」 病気なのかとも、原因はなんだとも聞かず、ガイアは何が起きているのかと、そう問うたのだった。 「………………だまっててくれる？」 「内容による」 「じゃあ言えないわ」 「おい！」 ふぅ、と、何かを振り切るようにルフレは息を吐き出した。 「あたしも知らなかったけど。人間と竜だと、ものの見え方も、聞こえ方も、感じ方もなにもかも違うのよ」 まあ、違う生き物なんだから、その通りよね。と、なんでもないことのように続けた。 ガイアは黙って話の続きを待ったが、それ以上言うことはないらしくルフレは黙って、困ったように笑んでガイアのほうを見ている。 「ちょっと待て。それが俺の質問への答えだっていうのか」 「そ。人間から竜に、変わる途中の後遺症、てこと」 小首を傾げ、微笑みながら言う。 「この間は聞こえなくなって」 「おい」 「サーリャには言われてたの。そういうこともあるかもって。実際、その言葉通り、少ししたらまた聞こえるようになったし。いまは、以前よりも、よく聞こえるから」 よく聞こえる、そう言ったときだけルフレは曖昧な笑みを浮かべた。 「それもクロムには？」 「聴こえない間は唇の動きを読んでいたから。ちょっと、疑われたけど。問い詰めてもあたしがしゃべらないのが分かってるんでしょうね。だから、何が起きているのかは知られてない」 ガイアはなんともいえない表情を浮かべた。 「お前ら夫婦がそれで構わないんなら、俺が口出しすることでもないが」 「じゃあ、ガイアはリズになんにも隠し事してないわけ？」 「………………」 「ほら。あるんじゃない」 それみたことか、という口調。 「あいつらは何を知ったって、全部まるごと飲み込んじまうよ」 「……そう、ね」 「だが、知らねえ方が良いことがあるのも事実だ」 「知られたくないこともあるし」 「単純に、説明が面倒なこともある」 「でも。馬鹿正直な割にやたらと勘はいいから ――」 「下手にごまかすとすぐに気づかれる」 散在する数多の情報の中から過たず真実だけを掬い上げるあの目は、純粋さ故に持ち得るものだろう。 ルフレとガイアが申し合わせたように、同時に深く息を吐き出した。 「お互い、因果な相手に惚れちまったもんだな」 「ええ。一生勝てる気がしないわ……」 「同じく」 しばしの無言のあと、ガイアがぽつりと呟いた。 「ルフレ」 「なぁに」 「どうして俺にばかり、そういう大事なことを話す」 「だって。ガイアは嘘つきだから」 「間髪入れずに言う答えがそれか」 「あたしも、嘘つきだから」 そう言って、ルフレは綺麗に微笑んだ。 ガイアが眉をしかめるのを、むしろ楽しげにルフレは見つめた。 「さて、と」 ううん、と一度伸びをして、ルフレがガイアに向き直った。 「寄り道しても構わないかしら」 ようやく視力が回復したのだろう、ルフレの琥珀色の瞳は正しくガイアを捉えていた。 「俺の仕事はあんたの護衛だからな。逆らう理由も権利もねえよ」 ありがとう、その言葉のあとにルフレが告げた行き先に、ガイアはふたたび眉をしかめた。 ルフレが、未だ目覚めぬ彼女の母を見舞うためペレジアに行くと知っているのはごく僅か、ほんとうに僅かな人数なのだ。彼女の夫である聖王クロム、親衛隊の長でもある騎士団長のフレデリク、唯一護衛のために同行するガイアと、その妻となったリズ。そして、王妃不在の偽装に手を貸す腹心の侍女ふたりと、宰相であるマクシミリアン。 この中に裏切り者がいるとは考え辛かったし、できれば考えたくもなかった。 では何故、ルフレの動向が刺客たちに知られたのか。その答えはルフレにもまだ分からない。 「私のさしがねではないよ」 嫣然たる微笑、とはこういう笑みを言うのだろうか。微かに首を傾げる動きに合わせて揺れる淡い金糸の髪、エメラルドグリーンの瞳には油断のならない光を宿して聖王クロムの叔父、グレンツェンはそう言った。 「でしょうね。あなたの息がかかっているにしては、ひとつひとつの手が、あまりにも稚拙」 ペレジアとの国境にほど近い場所、聖王直轄領にある館にルフレは居た。 ごく小さな ―― グレンツェンが以前グラース公爵として居を構えていた館に比べればごくごく小さな館の周囲には高い壁が巡らされ、要所には見張りの兵が配置されている。外敵を警戒しての兵ではなく、中にいる人間を外へ出さないための兵だった。 「それは褒め言葉ととっても良いのかな ―― ところで」 グレンツェンの指先が、ルフレの黒髪の流れをついと捉えた。 「皆にするように、私のことは名前では呼んでいただけないのかな。麗しの聖王妃どの」 ルフレの柳眉が思い切り寄るのをグレンツェンはむしろ面白げに見つめていた。 「―― 光の使徒」 ルフレの言葉に、グレンツェンの動きが止まる。 「あれからあたしも調べてみたけれど、一人として具体的な名があがってこない。彼らは、何なの？」 「敬虔なナーガ信者」 「それは分かってる」 「それ以上のことは私も知りはしないのだよ」 「え？」 小さく声を発して、そのままルフレは沈黙した。ぽかんとしたその様子にグレンツェンが笑む。 「必要とあらば集結し、神の意思を代行する。それが彼らだ。それ以上のことを知るものなど居ない。もしかしたら、彼ら自身も互いの正体を知らないのかもしれないね」 「それでも、あんな動きが可能になると？」 小さいルキナを取り戻すため虹の降る山のふもとで戦ったあの日にまみえた光の使徒たちは、ひとつの意思のもとに動いているように見えた。 「私に聞いて答えが得られるとでも」 「……だから、ばらばらに、襲ってくる？」 ぽつんと呟かれたルフレの言葉に、 「どういうことかな？」 グレンツェンが応（いら）えの声をかけたが、それきりルフレは沈黙した。 館を出てきたルフレがしばらく進むと、ガイアが近くの木立からルフレの隣に降り立った。 「あんなやつに何の用がある？」 「ちょと聞きたいことがあっただけよ」 「まさか。さっきの刺客は……」 「違うわ」 「俺が犯人なら否定するぜ」 冗談とも本気ともつかぬガイアの口調。 「―― まぁ、彼も嘘つきだろうけど。ああいう嘘のつき方は、たぶんしない」 「お前がそう言うんなら、まあ、そうなんだろうが」 そこで一端会話が途切れ、ガイアはどこか気まずそうに目を逸らし、再びルフレを見、名を呼んだ。 「ルフレ」 「どうしたの、あらたまって」 「―― いつまでイーリスに居る？」 ルフレの大きな瞳が一杯に開かれた。彼女の目の前には、逃げることを許さないガイアの真剣な瞳があった。 何故、そう考えてから、ひとつの可能性に思い至る。 ―― そう、ガイアも…… 「ずっと居るつもりよ」 真っ直ぐにガイアを見つめ返して、凛とした声音でルフレは答えた。 ルフレが高く空を仰いだ。青い ―― 深く青い夏の快晴の空がそこにはあった。 ルフレがなによりも愛するひかり ―― ともにありたいと願う唯一の半身。 人ならぬ身でクロムの隣に、イーリスの聖王妃としていつまで在れるのか。 逃れても押し返しても流れ込んでくる力の奔流がルフレの身体を人ならざるものへと変えてゆく。人として年を重ね、生を全うすることはおそらく……。 「ずっと……この命が尽きるまで」 天を見上げるルフレの瞳はどこまでも澄み渡って蒼穹の青を映していた。 「そう、か……」 「ふふ、嘘つき、て怒られるかと思ったけど」 「言うかよ。本気なのぐらい分かる」 くすくすと笑い出すルフレをガイアがうんざりと見やる。 「お前の能天気さにはいつも呆れる」 「このくらいでないとイーリスで王妃なんてやってられないわよ」 「そりゃあ、悪かったな」 「―― さあ、そろそろ行きましょうか。日が落ちる前に国境を越えてしまいたいし」 ルフレの表情は既に、いつもの曖昧な微笑に戻っていた。 さっさと歩きだしたルフレの背を、ガイアが追う。 ―― あいつのお袋さんが、なにか知ってれば良いんだが……。 遠いペレジアの空の下、眠り続けるルフレの母に僅かな期待を抱いて。 ―― でないとまた俺は、聖王陛下の恨みを買うことになりそうだ。 ガイアの独り言は、ルフレには届かなかったようだった。 ルフレさんがペレジアにお母さんに会いに行く筈が、会いに行くまでがえらい長くなったので切りました。 クロム様がほとんっど出てきません。聖王陛下のファンの皆様には深くお詫び申し上げます。 私はどうも、正直者と嘘つきだと、嘘つきの方を掘り下げたくなるみたいです。 でも嘘つき同士のカップルだと何かが詰むので正直者とくっつけたくなる。ていうことを考えながら書いてました。 このルフレさんとガイアさんだと、恋愛になると詰むんだろうなぁ、と。だからクロルフでガイリズなのか、という自己分析。
2013/1/15
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