『九月十三日』





　深いふかい森の奥に、その建物はあった。邸宅というには大きすぎる。城と呼ぶほどの規模ではない。迎賓館か、そう、学舎が一番しっくりくる。
　広大なダンス・ホールにはシャンデリアが煌めき、磨きあげられた樫の床をきらきらと輝かせている。パーティは立食形式だった。
　静謐と親しみをゲストに感じさせる空間だった。ホールの設計者とパーティの主催者の意図が手を取り合わさった結果だろう。
　野鳥の止まり木のように点在するテーブルで交わされるのは学究の語らいだ。
「メフィスト」
　彼女のひと声で、白い美を囲んでいた人々がぱっと散った。黒豹を目にした栗鼠たちのようだった。
　ドクター・メフィストがゆるりと振り返る。悠然と歩み来る黒衣の美女へと視線をあてる。
「あなたの論文、読んだわ。よく纏まっていた」
　ウェイターが恭しく差し出すシャンパングラスを取る。弄ぶ指先は深紅に染められている。
「けど応用には向かない。あの街特有の症例を、あなたが治療した、ただの記録。あんなものをこぞって引用する輩の気が知れないわ」
　女――シビウはわざとらしくため息を洩らし、紅い唇をグラスにつけた。黄金色の液体がこぞって美女の唇へ躍り込む。
「質問ならば昼に会場でなさればよろしかろう」
「五日間ずっと師に随行していたのよ。助手として。とんだ貧乏くじだわ」
「師は貴方を信頼しておられるのだろう」
「秘蔵っ子がよく言うわ」
　テーブルに大胆に腰掛ける。スリットから優美な脚が覗く。
「何故、学会時期を早めたのかね」
　目の前で、それは悩ましげに組み替えられた白い脚になど欠片も注意を払わずにメフィストが問う。
「あなたの困る顔が見られるかと思って――今日が、その日なのでしょう」
「特に困りはせぬが」
「あれは自然現象ではない。何らかの〈意志〉のもとに起きた地震。だからこう呼ばれるのでしょう。〈魔震〉と」
「〈新宿〉ならば誰もが知ることだな」
「起きるなら、今日だわ」
「第二の〈魔震〉」
　紅い唇が嬉しげに歪む。弟弟子の成長を喜ぶように。
「困らない？」
　小首を傾げる。射干玉の夜を映すように黒髪が肩を滑り落ちる。
「我が病院には優秀なスタッフが揃っている」
「可愛げが無いこと」
「事実を述べたまでだ」
　シビウの瞳が真っ直ぐにメフィストを見据え、見透かすように細められた。

　あの日、あの時間に、彼はその〈場〉には居なかった。
　彼がその〈場〉に立ったのは翌日のことだ。
　七十二時間の壁、その基準からすれば充分に早い段階で彼はその場に在れたと言えよう。事実その手は多くの生命を救ったのだ。崩壊したアパートに埋もれた少女を、遺伝子研究所から溢れた異形の生物に襲われた人々を、死霊に取り込まれた男を、奇跡と見紛う手技で治療してみせた。
　多くの生命は救われた。それ以上の生命が失われた。
　彼は、ひとりきりの彼では、ふたつきりの手では、すべてを救えぬことを知った。
　識ってはいたのだ。解ってもいた筈だ。それでも、その数日で、彼は自信の手の届く範囲を思い知った。

「あなたが総合病院を経営するなんて思いもしなかったわ。優等生さん。一生研究室に篭もるものだと思っていた」
「人は変わるものだ」
「ほんとう、可愛げのないひと」
　呆れ混じりのため息とともに、優雅に脚が組み替えられた。

　九月十三日、午前三時。マグニチュード八．五を越える直下型の地震が〈新宿〉を襲った。
　すべての〈区民〉が直感したという。これは〈余震〉ではなく〈本震〉。第二の〈魔震〉が起きたのだと。後日、〈区〉と政府から出された共同声明が彼等の直感を裏付けた。
〈魔震〉後に再建された数多の建造物が崩れ、道路はめくれ上がり、いびつな進化を遂げた妖物が地下世界から噴出し、巻き上げられた妖気をたっぷり含んだ雨が〈新宿〉全土に降り注いだ。
　人々は冷静だった。〈余震〉とは比べものにならぬ規模の揺れに耐え、隣人を気遣い妖物を撃退した。〈区〉の発行した『災害時マニュアル』が功を奏してもいた。
〈新宿署〉の活躍はめざましいものだった。部署を越えて再編された救援隊が各所に送られ、被災者の救助はもちろん治安の維持、屍肉を得て活動的になった妖物どもの掃討と二次被害の矮小化に尽力した。
　数ある病院の中で最も貢献したのはやはり、メフィスト病院だった。緊急〈魔震〉速報が発令されるやいなや、決められた手順で患者の安全を確保、停電後は速やかに非常用電源に切り替えて生命維持の機能は保たれていた。夜明けには未だ遠い深更に煌煌とあかりを灯す白い病院は数多の人々を勇気づけたろう。的確な指揮のもと各所に派遣されたスタッフが怪我人を手当てし、応急では間に合わぬ者は速やかに病院へと搬送された。鮮やかな手際の数々の影で、病院長が不在である事実に、どれだけの人が気づいたか。

　今回の地震が第二の〈魔震〉であると〈区〉からの正式な発表が成されたのは、発生から一週間後のことだった。十三名――即死だった人々を除いて、死者のなかったことは誇っても良い成果だったが。〈区民〉たちは新たなデータを加味した〈耐震〉住宅の設計や避難経路の見直し、妖物地図の修正と、生きることに余念がないという。








--了--





2017/9/13



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ツイッターで毎年やっている遊び『#魔界都市生誕祭2017』のために書いたものです。
今年はドクター・メフィスト定点観測。