朔

『猫』

　その猫が秋せんべい店の暖簾――の遙か下をくぐったのは、台風一過の青空も眩しい午後のことだった。
　昨夜はどこかの家に匿われていたものだろうか。クリーム色の毛並みは艶やかで嵐になぶられた様子もない。
　店主がとめる間もなくとことことショーケース下まで歩み来て予備動作なく軽やかに飛び乗る。
　にゃあ。と一声鳴くとしぱしぱとまばたきし小首を傾げた。猫にも美貌は少し眩しい。
「うちは人間用しか置いてないよ」
　のんびりと、諭すように、秋せつらが小さな客に向けて告げる。超大型台風の影響で〈新宿〉ツアーは軒並みキャンセル。閑古鳥鳴くせんべい屋の今日はじめての客が猫だった。
　なお。猫はもう一声鳴くと、落ち着かなげに毛並みを舐める。丁寧に顔をあらい、鼻を湿らせせつらを見上げる。
「もしかして、人捜し」
　あおん。先ほどよりも強く鳴く。尾がぴんと立ち、気持ちを込めて震える。
「せんべい、食べる？」
　ぴんと立っていた耳がぱたりと倒れる。尾が揺れる。不快を表明している。
「人捜し」
　ふたたび耳がぴんと立つ。まん丸な瞳がせつらを見上げる。
「うちはボランティアではないんだけど」
　にゃん。なおん。とさかんに鳴く。飛び乗ったときに比べてぎこちなく床に降りる。一度だけ、せつらを降り仰ぐと表に消えた。
　ぼんやりと猫の後ろ姿を見送ったせつらはしばしの沈黙のあと、エプロンをはずし奥へ消えた。コートを羽織り、裏口から出る。
　なん。生け垣の狭間で猫が鳴いた。
「仕方ないなあ」
　導くように、時々振り返りながら猫がゆく。尻尾をぴんと立てて、誇らしげに。
　裏通りを商店街沿いに抜け、〈中央公園〉を避けて東口との連絡通路に向かう。かつて一日に三百万人を越える人々を受け入れた巨大ターミナル駅は魔震での崩壊は免れたものの再建されることもなく家持たぬ人々と妖物の棲み家と化している。
　猫が導いたのはその一画だった。外と比較的近い――雨風をしのぐには心もとない場所に不自然に瓦礫が積み上がっている。昨夜の嵐で天井が崩落したようだ。天井から、溜まった雨水が未だに滴り落ちている。
　なおん。最後にせつらを振り向いてひと声鳴くと、猫は瓦礫の狭間に器用に潜り込んでいった。
　それよりもはやくせつらの妖糸は瓦礫の内部を精査していた。更に数本の糸を飛ばして慎重に――中に居る者に瓦礫が降り注がぬよう慎重に、コンクリート塊を動かす。
「息はあるのか」
　十分ほどかけて除かれた瓦礫の下から猫が顔を出す。倒れ伏したその人の右手の甲を舐め、倒れて散らばったドライフードをかりかりと音立てて食べる。
　せつらの指先が精妙に動く。最後の――脚を埋めていた瓦礫を慎重に持ち上げる。妖糸で素早く止血を施す。
　着古されたぶかぶかの――体型を隠すための襤褸を纏った娘の脈と体温を確認してから、せつらは携帯端末を取り出した。
　人助けは仕事ではないが一応、依頼だ。最後まで完遂せねばならない。
　ほどなくして到着した救命車に娘が担ぎ込まれたのを見届けると、猫は満足げに伸びをして、せつらの脇をすり抜けた。
　振り向くともう居ない。濡れた肉球の足跡が点々と残されているだけだ。
「猫の恩返し」
　只働きを嘆くでもなくせつらが呟く。
　傾きはじめた太陽に気づき、都庁の影が落ちる前にと慌てて通路を引き返した。

--終--

2021/1/23 (pixiv初出:2019/10/14)

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台風一過の魔界都市。