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『三月二十日』
〈区外〉を震撼させた疫病の蔓延は未だ〈ゲート〉の向こう側に留められていた。観光、ビジネス、目的を問わず区外との往来を禁じ最低限の流通だけを残してゲートを封鎖した区長の決断は、利益――〈新宿〉へのそれと、なによりも自らの懐に転がり込む賄賂と――をなによりも尊ぶ彼をして、と驚くに足る迅速なものだった。新型ウイルスの〈区内〉での変異、更なる拡散を恐れた〈外〉からの圧力がしこたまかけられたという噂もあるが。 秋せんべい店は時間を短縮して営業中だった。高校卒業とともに区外へ就職するというバイト嬢が辞めてからは次の募集も出せずにいる。 軒先を時折かすめて舞う花びらを、美しい視線が追う。 ガイドブックに紹介されてからは日々の売り上げの大半が観光客頼みのこの店も、ご多分に漏れず静かなものだ。時折、互いの苦境を愚痴りに商店街の面々が来る程度。せんべいは腐るものではないが、風味は落ちる。奥の機械は停止して、開封とともに風味が落ちていく醤油を使い切るために作り始めたせんべいを、手焼きで一枚ずつ、慈しむように返してゆく。 「はあ」 ため息とともに、芳しい焼きたての香りが立ちのぼる。秀麗な口元に僅かな笑み。どうやら良い出来のようだ。菜箸で一枚ずつ、脇に置いたトレーに並べる。十分に冷ましてから袋に詰める。 「よく焼けた」 頷く。満足げだ。 「お客は来そうもないが」 首を傾げ、戻す。ひとつ頷くとエプロンを外してコートを羽織ると、せんべいの包みをまとめて外に出た。 ぽかぽかと、あたたかい日差しが惜しみなく降り注ぐ。未だ冷たさを含んだ風が心地よく頬を撫でる。時折強く吹く風に花びらがひらり、舞い踊る。椿に木蓮、タンポポ、ツツジ、そして桜。今年の春は随分慌てて来たらしい。芽吹きを待ち望んでいた草花が我先にとほころび咲き誇っている。 歌舞伎町まで出るとさすがの人混みだった。この街の人々に『自粛』などと呼びかけても誰も聞きはすまい。あらゆるリスクを呑んだ上で、区民は日々を謳歌している。 区民が日々を変わらず営む限り、この場所だけは常に盛況だ。 メフィスト病院のロビーは常と変わらぬ怪我人、病人たちで溢れていた。夫婦げんかの末に妻の腹に出来た人面瘡が夫の頭に食らいついて文字通り離れられなくなった男女、とめどなく垂れ続ける涎からおぞましい蟲を湧かせる少年、右半身を吹っ飛ばされた状態で連れと歓談するサイボーク。院長目当ての観光客が見当たらないだけスムーズに診療は進んでいるようだ。 「マザー・コンピュータを開放したって聞いた」 黒檀のデスクに向かう白い美に、世間話のようにして秋せつらが告げる。 「イン・シリコでの実験精度は演算能力に比例する。今はあらゆる手段を試す時だ。ゲートを渡るケーブルの通信速度が律速になるのは惜しいことだが」 「病気の特効薬なんて、あんたがちょちょいと作れば良いんじゃないの」 ドクター・メフィストが手に持つせんべいの包みから顔を上げた。叡智きらめく黒瞳には出来の悪い生徒に言い聞かせる教師の光が乗る。 「君一人を癒やすためならばそれもよかろう。候補を示すことも可能だ。だが、地球上すべてに行き渡る形でワクチン、あるいは治療薬を量産し処方するためには私一人の力では及ばぬ。〈新宿〉に在るすべての病を癒やすべくこの病院を造ったように、区外の病には区外の者たちがあたらねばならぬ」 せつらの手がコーヒーカップを取る。香りをたのしんでから口をつける。 「区外のせんべいは区外の人間が焼かなけりゃ意味がないってこと」 「飛躍した例えだがその通りだ」 「なるほど」 「せつら」 「うん」 メフィストの視線が再び手元に落ちる。 「この量のせんべいを私一人で食すことは難しいのだが」 「うん」 磨き上げられた黒檀のデスクに積み上げられたせんべいの包みからして百枚は下るまい。微かに漏れる焦げた醤油の香りは食欲をそそるが、圧が凄い。 ぱき、小気味よい音がした。せつらが手元に確保しておいた一枚を割る音だった。 「少し、焼きすぎた。適当に配っておいて」 「そうかね」 「陣中見舞いみたいなもの」 〈区外〉からの患者をメフィスト病院が受け入れ始めたことを、この青年はどこから聞き及んだものか。 「早くなんとかしてくれ、ドクター」 でないと商売あがったりだ。吐き出すように告げる。 「善処しよう」 冷徹な医師の声音に肩をすくめて見せてから、せつらは豪快にせんべいを噛み砕いた。
--終--
2021/1/23 (pixiv初出:2020/3/22)
ワンドロワンライで書いたもの。去年のこの頃から大変だったんだなあ。 |