『屍と踊る月の夜』





　快晴の夜空にかかる満月は紅く染まり、魔都の妖気を吸って凄艶と輝いていた。
　誰かの瞳みてえに赤い月だ、と、彼が思ったかは分からない。

　月よりも紅い一滴が、地面に新たな染みをつくった。
　満身創痍、という表現がこれほどぴたりと来る姿も、そう拝めるものではないだろう。
　額からの出血も目を引くが、左肩全域を覆い尽くす傷からは拍動にあわせて血が噴き出しコートを赤く染め続けている。いや、コートの、残骸か。左肩を中心に、爆薬で吹き飛ばされたかのように無残に焼け焦げたコートから硝煙の香りが立ち昇る。きつい血臭と混ざり合う。
　右腕全体で押さえつけるようにして左腕を支えながら、屍刑四郎はふと空を見上げた。一つきりの瞳が、赤い月にシルエットを浮かばせた蝙蝠羽の主を捉え、わずかに細められた。
　羽ばたきの音、かすかな風。音もなく地上に降り立つ。宵闇色をしたケープが揺れる。
　都営〈戸山住宅〉の若き長、夜香だった。
「お送りしましょうか？」
　メフィスト病院まで、と、訊ねる声音に心配の色は欠片もない。社交辞令に似ていた。
　そのことが分かっているのか、屍はぞんざいに手を一振りすることだけで返事に変えた。
「すぐに塞がる」
　常に覇気に満ちた凍らせ屋らしからぬ、気だるげなもの言いだった。血を流しすぎたのかもしれない。
「では」
　にい、と、乱杭歯を覗かせて、微笑んだ。
「いただいても？」
　その訊ね方の優雅さに、笑みの美しさに。直球すぎる提案に、屍がぽかりと呆けた隙を逃さずに。夜香の繊手が屍の頬に触れて。
　ひやりと、冷たい舌が首筋を這った。
　メフィスト病院で強化措置を施された細胞が、凄まじい勢いで再生させてゆく傷口と競い合うように、ぴちゃぴちゃと水音が響く。牙を立てぬよう慎重に、一滴も溢さぬよう大胆に、生命の奔流を掬い取ってゆく。
「俺は血液パックじゃあないんだが」
　憮然たる口調も届かぬのか、聞かぬふりをしているのか、一心に、丁重につづく水音に、屍が諦めの吐息を漏らした。

　ぺろり、紅い舌が唇を舐めた。
「報酬にはなにをお支払いすれば？」
　今宵の月のように紅く染まる双眸が凍らせ屋を射る。
　どこまでも不機嫌なまま、気だるげに、屍が応える。
「――少し、付き合え」
　途端吹き上がった殺気に、夜香がおやと眉を上げた。
「血も肉も骨も持っていかれすぎた。過剰な再生のせいで滾るんだよ」
　怒張しきった股間を隠しもせずに、言う。
　あらゆるホルモンが分泌され、オーバーヒートの炉のように全身の血が滾る。数十人単位の――もちろん、凶悪な犯罪者を選んで――血を見なければ静まりそうもないほどに、熱を持つ。
「俺で満足いただけるなら」
　にこりと、典雅に匂い立つように、微笑が刻まれた。

　瞬きも許されぬほどの一瞬で巨大なリボルバーが現れて、撃鉄が起こされ引き金が引かれるのを。〈魔界都市〉の夜族を統べるものの超感覚が辛うじて視認して。
　猛烈な爆音が轟いた。
　飛び散った新たな赤に、一番驚いたのは屍自身だろう。
　避けられることを前提にして、よーいどんの鉄砲代わりにぶっ放したつもりの弾丸が、まさか命中するなどと。露ほども考えなかったのだから。
　左肩からとめどなく血を噴き出させ、蒼の衣を朱に染めながら、
「これで、おあいこですね」
　痛みを感じていない筈はないのに、微笑さえ浮かべ夜香が言った。
「相変わらず気障な野郎だな」
　目にしたことを後悔するような、獰猛な笑みだった。
「それは、どうも」
「褒めてねえ」
　軽口の間にもじりじりと互いの距離がはかられる。掛け値なしの純粋な殺気に、鬼気に、血肉が沸き立つことを自覚する。全霊をかけて殺しあえる事実に、ただ歓喜する。狂喜する。
　何気なく突き出された夜香の右手から、なんの予兆もなく魔気功が放たれた。今度こそ、それを合図に屍が駆ける。駆けざまに、ドラムに装填していた残りの弾丸をすべて撃ち込んだ。一瞬で弾を込めなおし、再び撃つ。続けざまに響く轟音に、びりびりと夜気が震える。
　互いに、左腕はだらりと垂れたまま。完全な再生にはまだ時がかかる。
　屍が繰り出したフェイントまがいの足払いを、夜香が軽やかに避ける。そのまま宙で一回転し、遠心力を乗せた踵落としがドレッドヘアの後頭部を目がけて落ち――頭上にかざされたドラムが難なく受け止めた。すかさず伸ばされた“素手の”右手が夜香の足首を掴み、ひょいと投げ飛ばした。
　空中で翼が一瞬だけひらき、地上に降り立つ。その隙を逃さずに、地面一蹴りで距離を詰めた屍の拳が夜香の顎にヒットした。数メートルを吹っ飛ばされた――衝撃を殺すための意図的なものも含めて――夜香に屍がふたたび肉薄する。
　間近で見たのは、悪戯っぽくきらめく紅い瞳だった。
　同じ位置、同じ角度、同じ力で繰り出されたパンチが巨漢を軽々と吹っ飛ばした。
　砂煙を撒き散らしながら、夜香が飛んだ半分ほどの距離で屍は体勢を立て直した。
　脇に吐き出した血糊と共に、コン、と欠けた歯が落ちた。
「遊ぶな。殺っちまうぞ」
「おや。手加減してくださっていたのですか」
　ありがとうございます。言葉と共に優雅な一礼が成され、屍の盛大な舌打ちが重なった。
　大股に歩み寄る。いつの間にか殺気の失せた屍の様子に、夜香がぽかんと目を瞠る。
「屍さん？」
　太い両腕が伸ばされて、左手が肩に、右手があたまの後ろに回されて。
　あぐりと、大口が開けられて。食らいつくように、キスをした。
　文字通り、食らいつくようにだ。雰囲気も艶っぽさもあったものではない、欲望が赴くままの、貪るようなキスだった。んぐんぐとくぐもった声、舌が絡み合う音、伝い落ちる唾液、すべてに無頓着にだが貪欲に、恥じらいなどあろう筈もなく、充分に味わってから。はじまった時と同様唐突に、屍は夜香を解放した。
　愛を込めた抱擁――には程遠く、気だるげに体重を預けるようにして、耳元でほんの思いつきのようにして言葉を吐いた。
「疲れた。ヤりてえ」
「は？」
「眠い。ヤりてえ」
「ええと。あの」
「少し寝る。運べ」
　言うが早いか、夜香にかかる体重が倍加した。耳元をくすぐるように寝息が続く。
　深く長くため息が洩らされて――もちろん、その程度では屍は起きない。
　夜香は、体積でいえば彼の倍はありそうな恋人の巨漢を軽々と、かつ恭しく抱き上げた。
　音もなく蝙蝠羽が展開され。

　紅い赤い満月の下、ささやかな羽ばたきが渡った。








--了--





2016/10/25
（2014/4/10 pixiv より再録）



Home








pixivのやつを収納。