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『せつらと屍と白い部屋』
何処、とも知れぬその部屋は、これといった特徴もない白い部屋だった。家具は一切なく、窓もなく、扉もない。照明すら存在せず、天井全体がじんわりと白光を放っていた。 入ることも出ることも不可能な筈の部屋に、ふたつ、人影があった。 白一色の床と壁と天井は、その黒を引き立てるためにこそあるのかもしれない。 闇よりも黒い影法師。 秋せつら。 長い睫毛に彩られた黒瞳は憂いを宿してなんとなく斜め下の方に向けられている。薔薇の唇からため息がこぼれ落ちる。 静かな部屋だ。小さな小さなため息も、部屋全体によく響く。黒の美影が背を預ける壁の逆サイドで、太い肩がピクリと揺れた。 桔梗、女郎花、沈丁花――可憐な花々がふわりとそよぐ。 魔界刑事、犯罪者の背骨を凍らせる〈凍らせ屋〉。もう一方の人影は、屍刑四郎のものだった。 ふたたびの静寂が、何処とも知れぬ部屋に満ちる。 何処なのか、という問いはあまりにも野暮だろう。 ここは〈新宿〉魔界都市。 なんだって起きる街なのである。 で。部屋の隅と隅、対角上に佇む二人の男に話を戻す。 「ねえ」 「おい」 ぴたりと同時に呼びかけて、気勢を削がれたように同時に黙る。 「あのさ」 「なんだ」 「『ここ』に来る前に、なにか言われた？」 「なにかってな、なんのことだ。つうか、誰にだ」 「……いや、いい」 「おい」 「うむ」 「秋」 「なんでもないよ」 ふたたび視線が斜め下を向く。見とれるほどに完璧な彫像よろしくだんまりを決め込む。 屍が苛立たしげに床を踏み鳴らす。 「おまえのアレでなんとかならんのか」 「凍らせ屋のアレで壁とか抜けられないわけ」 互いにさんざん試したに違いないと、分かりながらも言ってみる。 「引っ掛かりがない」 「分子に隙間がなけりゃ溶け込めねえ」 まことに、残念だった。 「ここに来てからどれくらい経つ」 「目ぇ覚めてから大体五時間ぐらいじぇねえか」 「五時間二分と三十六秒」 「分かってんなら聞くな」 「〈新宿警察〉は戻りの遅い刑事を捜しに来てはくれないの」 「幼稚園じゃねえんだ。数時間行方が分からんくらいで心配する奴が居るか。おまえの方こそ、店のやつが捜してるんじゃねえのか」 「一週間ぐらい戻らないこともざら」 「日ごろの行いがたたるな」 「お互いに」 はあ、と、ため息が斉唱した。うーん、と悩ましげな声音がつづいた。これは一人分。 「気持ち悪い声を出すな」 威嚇するように歯を剥く屍に、意図の読めぬ視線をせつらが向ける。 「実は、心当たりがある」 「――なんで、すぐに試さなかった」 硬い声音が警戒を示す。 部屋の空気が動いた。 黒の長身が、背を預けていた白い壁から離れたのだった。ごくごく自然なふうを装って、対角に陣取った屍の方へと歩み寄る。 秋せつらの武器は無限長の刃である。すなわち、間合い、射程範囲、という概念が当てはまらない。相手に接近する必要がないためなのか、人との距離感がいささかおかしい場合がある。 屍刑四郎は今、身をもってそれを体感していた。 ドレッドヘアの両脇に、白い繊手があった。 ふたりの身長はほとんど変わらない。同じ高さにある視線が合う。 花々を散らしたコートが限界まで壁に押し付けられる。が、これ以上後ろにはさがれない。 「おい。なんのつもりだ」 屍の瞳は既に閉じられている。間近に見ては正気を保てぬ美貌だ。太い眉の狭間に渓谷が寄る。 「黙って」 秀麗な唇がそっと告げた。ゆっくりと、顔が寄せられる。吐息がかかる。屍の、かたく閉じられたまぶたが震えた。 吐息の行く先を辿るようにして白い指先が触れる。左手は牽制するように壁に押し付けたまま。右手がそっと、太い首筋をなぞる。器用に片手だけでボタンを外してゆく。いらうように、丁寧に。 「ガードが固い」 すっかりはだけ終えたシャツを前に、せつらがぽつりと不平を洩らした。濃い色のシャツの下にはきっちりと、黒のＴシャツが着込まれていた。 「っ。おい、いい加減に――」 「えい」 意を決したような、それでもすごく気の抜ける掛け声と共に、せつらが両手を動かした。 スイッチでも押すかのように人差し指だけを突き出して、妖糸を操るに相応しい美しい指先が、ためらいなく触れた。 Ｔシャツを押し上げるように存在を主張する凍らせ屋の胸筋をかざるふたつの、乳首を。 晴れ渡った青い空を怪鳥が渡ってゆく。 妖気を含んだ風がなつかしく頬を撫でた。 そこが何処なのか、二人はとうに気づいていた。 〈新宿〉で最も安全な場所。 白い病院の屋上だった。 ――ちょっとした実験だよ。と、微笑を浮かべた唇が告げた気がした。 「ちょっと、メフィスト、殴ってくる」 茫洋と、けれどぞっとするような声音で放ち、踵を返したせつらに、 「…………俺のぶんも頼む」 げんなりと、凍らせ屋がそれだけを告げた。
--了--
2016/10/25
（2016/8/14 夏コミ無配） 夏コミ無配。 |