朔

『初恋』

　殺人課に始業はない。なにしろ〈新宿〉だ。皆常になんらかの事件を抱えているし、非番と二十四時間勤務の交代制のため開始時刻という概念が薄い。だから、今日屍刑四郎が午前八時に〈新宿〉警察署の受付に立ち寄ったのは珍しいことだった。
「おはようございます」
「おう。借りるぞ」
　受付脇に常設された危険物チェッカーへ屍が小箱をセットする。妖物、毒物、劇物、爆発物――ランプはオールグリーンだ。単なるチョコレートらしい。
　もの問いたげな受付に無視を決め込んで屍は署の奥に消えた。

　屍のデスクは常に整理されている。PCと、必要書類がいくつか束ねられた脇に先ほどの小箱を置く。無骨な指がリボンをほどくと、ふわり、甘い香りが広がった。ハート型に整形されたチョコレートはつややかで、シンプルにアラザンが散らしてある。ひとつ摘まんで口に放り込む。
「手作りね、それ」
　不意にかけられた声に屍がむせる。油断していたとはいえ〈凍らせ屋〉の背後を取る人間が〈新宿〉には幾人か存在するが、彼女もその一人なのだった。シャーリイ・クロス。屍の同僚だ。
「シャーリイ」
「私からの義理チョコはやめておく？」
「いや。もらう」
　ひょい、と頭越しに差し出された箱を受け取る。箱にはピエールなにがしと書かれていた。〈区外〉の品だろう。これは引き出しに仕舞う。
「今日は内勤かしら」
「いや。すぐ出る」
　さきほどのチョコレートもリボンをかけ直して引き出しに仕舞うと、屍は席を立った。

　とびきりの晴天の下、北風が吹き荒れる。腰まで伸ばした黒髪が煽られて、すっぽり巻かれたマフラーがそれに続いた。〈新宿〉高校だろうか。膝がすっかり見える丈に着られた制服のスカートから覗く素足が寒々しいが、本人はへっちゃらなのだろう。若さだ。
　屍が〈新宿〉署の正面玄関から姿を現すと、制服姿の娘はすぐに気づいて駆け寄った。そのまま歩み去ろうとするドレッドヘアの長身を遮る形で正面に回り込む。息を吸って、吐き出すと、娘は屍を見上げ告げた。
「さっきはあんまりあっさり受け取られて言えなかったから」
　もう一度深呼吸を。
「あの。好きです。返事はすぐじゃなくて良いので……」
「菓子はうまかった。ガキに興味はない」
　ひゅ、と、呼吸の止まる音がした。娘の頬が朱に染まり、瞳から大粒の涙がこぼれても、屍は表情を変えもしなかった。
「――十年」
　低く、漏れた言葉に屍が眉を寄せる。
「十年、経ったらなって言ったじゃない。だからわたし、ずっと、待って、なのに。制服だから？　胸が小さいから？　高校はこの春卒業です。就職先だって決まってます。胸はもう少し大きくなる予定だし……わたし、立派な大人ですっ」
　すっかり顔を覆った両手の狭間からしゃくりあげるような嗚咽が続く。それがすっかりおさまるのを待って、屍は娘の頭に手を置いた。
　縋るように見上げる瞳を見下ろし、なだめるようにそっと声をかけた。
「茶でも飲みに行くか」

　午前九時の喫茶店は客もまばらだった。オーダーから数分で屍の前にホットコーヒーが、娘の前にイチゴパフェが運ばれてくる。
　大きな口がイチゴを頬張るのを眺めながら屍がコーヒーを啜る。良い食べっぷりだ。若い。
「落ち着いたか」
　食べ終わるのを見計らって声をかけると、娘がこくんと頷いた。
「ポチを、見つけてくれたんです。犬です。今も元気です。あの。十年前に」
「俺がか」
　こくんと、娘がまた頷く。
「あの頃子供がたくさん誘拐されてたこと、後から知りました。ポチが、あなたのお手伝いをしたことも、後から」
「――ああ」
　そんな事件があったからもしれない。主人が狙われていることを知った忠犬が導いた先で犯人と対峙することになったのだった。
「子供の告白なんて、覚えてないです、よね。あなたの名前、あとから知りました。屍刑四郎さん。わたし、あなたが好きです。八歳の時から、ずっと」
　十八歳の澄んだ瞳がまっすぐに屍を射る。
「お前さんが真剣なのは分かった」
「！　じゃあ……！」
「答えはノーだ」
　どすん、と音がした。娘がテーブルに突っ伏した音だ。うつ伏せになった後頭部から「どうしてですかぁ」と恨みがましい呻きが漏れる。
「理由を聞かれても困るが……一般的な話をするなら、よく知りもしない相手を恋愛対象にはし辛いし、なによりやはりガキにしか見えん」
　娘が少しだけ顔を上げて、屍を上目遣いに見る。
「知り合えば良いの？　大人に見えれば良いの？」
「そうとも言えるがそうとも言えん」
「――わかった」
　ばん、と、勢いよくテーブルに手をついて娘が立ち上がる。
「また来年、チョコを渡します。その次の年も、その次も、ずっと。だから」
　わんわん泣きわめいたのが嘘のように娘がにっこりと笑う。
「きっと、刑四郎さんはわたしを好きになる」
　席を立った勢いのまま、娘の唇が屍の額に触れる。後ろも見ずに喫茶店を走り出た娘をぽかんと屍が見送る。
「若いってのは、凄えもんだな」
　誰も居なくなった空間に、ぽつんと屍の言葉が落ちた。
　彼は知るよしもない。ほんの一月半後に、署内で『制服』姿の娘と再会することになるなどとは。

--了--

2019/2/17 pixiv初出

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女子高生ちゃんは１０年後くらいに大人の女性に成長してワンチャンあるとわたしが楽しい。