『さくら』





　事後の余韻に桜色に染まる白磁の肌を、美しい指先が愛おしむように撫でる。
　しなやかな背骨のラインに沿って、冷えた感触がするりと落ちて。秋せつらは閉じていた瞳をうすく開いた。長い睫毛が気だるげに、漆黒の瞳を彩っている。
　飽いたように、すぐ、目蓋が落ちる。
　艶やかな爪がゆうるり、脇腹をすべる。肌理こまやかな柔肌を抵抗もなく指先がなぞる。ふるり、白い肩が揺れた。
「メフィスト。眠い」
「寝ていたまえ」
「邪魔をしながらよく言う」
　ふたたび、うすく開かれた視界の端を艶やかな黒髪が流れて。メフィストの指先が頤をすくい上げる。
　口づけは、丁寧に。
　メフィストがそっと離れると、せつらの唇から吐息がこぼれた。
「しばらく会えないよ」
　眠たげな声音が、思い出したように告げた。
「副業かね」
「うん。ちょっとした用事」
　ふわあ、遠慮のないあくび。
　これ以上は耐えられぬと、長い睫毛が落ちて。間を置かず寝息があとを追った。
「せつら」
　呼びかける。答えはない。
　気持ち良さそうに眠る恋人の麗容を見下ろすメフィストの、唇がうすく笑みを刷いた。

　　　＊

　あたたかな大気が満ちる春の宵。
　人の気配の耐えた裏通りをゆく白い影があった。
　月すらも恥じらう美しき影の持ち主の名はひとつしかあるまい。
　ドクター・メフィスト。《魔界医師》。
　今宵のメフィストの行く先は、救いを求める患者の元ではなかった。
　人どころか、妖物の気配すらない、小さな空き地。その中ほどに、月夜にぽかりと浮かび上がるようにして天に向かって花開く大樹は、桜だろうか。
　美しい枝ぶりを彩る花々は満開も満開。花びらひとつ落ちて来ぬのが不可思議なほどの、繚乱たる眺めだった。
　メフィストの歩みが止まる。
　美しい横貌が、花々を見上げる。――いや、見事な枝ぶりに抱かれるようにしてそこに在る、黒いコート姿の麗人を見上げたのだった。
　秋せつら。
　メフィストを見下ろす美貌。透けるように白い肌が、ほんのりと桜の色に染まって見えた。
　手にあるのはワンカップだろうか。
「誰か来るとは思わなかった」
　いつも以上に茫洋と、とろりとろけるような声音が告げて。桜色に頬を染めた美貌がことりと傾げられる。
「この場所、誰から聞いた？」
　さやさやと揺れる花々に囲まれた、異質な黒が問いを放つ。
「君が寝物語に聞かせてくれたと記憶しているが」
「覚えがない」
「君はよく眠っていたからな」
「……相変わらず、趣味の悪い真似をする」
「何を、待っているのかね」
「そこまでは聞き出せなかったのか」
　ぺろり、赤い舌が手に持つワンカップを満たす液体の表面をそっと舐め取る。
　並々と容器を満たす安酒は、ほとんど減ってはいないようだ。
「珍しいものを飲んでいる」
「花見に酒はつきものだろ」
　ふわりと、普段の彼が見せぬような無防備な笑みが浮かぶ。
「私がそちらへ行っても？」
「二人分はちょっと、支えきれないかな」
　せつらが言い終えると、黒衣がふわり宙を舞った。
　満々と咲き誇る桜の枝枝を欠片も損なうことなく、メフィストの目前に舞い降りる。
　着地の衝撃でワンカップの液面が揺れて、白い指先を濡らした。秋せつらの成すことにしては、いささか雑だ。酔っているのだろう。
　うすく開いた唇が、指先を濡らした安酒を吸う。
「おい」
　いともあっさりとメフィストにワンカップを奪い取られて。せつらがぼんやりと抗議の声をあげた。
「君にはもう充分だろう」
　伸ばされた黒衣の腕を避け、メフィストがワンカップをあおる。魔界医師の手の中では、安酒も神の雫のごとく輝きを放つ。
「どろぼう」
　ののしる声音はいつも以上に迫力に欠ける。潤んだ瞳で睨みつけても、相手を煽るばかりだろう。
　白い医師の繊手が、せつらの頬に触れた。愛しげに撫で、指先が唇をなぞる。
　せつらがくすぐったそうに瞳を細める。こぼす吐息に酒精が宿り、甘く香る。
　静かな夜にふさわしく、静かに唇が重なった。

　瀑布を水がすべり落ちるような、すさまじい音が、広くはない空き地に響き渡ったのはその時だった。
　せつらの肩に、黒髪に、彩るように薄紅の花びらが降り重なっていた。
　それらを優しく払ってやりながら、メフィストが美しい声音で告げた。
「すまない」
「何を謝るの」
「これを、見に来たのだろう」
「目を閉じたら“見えなく”なるなんて、魔界医師の言葉とも思えないな」
　せつらが頭上を見上げる。はらはらと、花びらが黒髪からこぼれ落ちる。
「今日、こうなるって、今日にならないと分からなかったから」
　そう端的に『しばらく会えない』の理由を告げた。
　満開に咲き、一夜で散り落ちる、桜の大樹。
　せつら以外には誰も知らぬ《新宿》の春の風物詩なのだった。
　漆黒の視線が正面へと戻る。夢のように広がる桜色の絨毯に佇む白い医師をとらえる。
　花びらすら触れることを畏れたように、常と変わらぬメフィストの姿があった。
　医師の指先が触れるにまかせる。すんなりと流れる黒髪を、なめらかな頬を、すっきりと伸びた鼻梁を、色づく唇を、愛しげに指先がたどる。
　口づけは、先程よりも長く、吐息を交換し尽くすように。
　メフィストの手がそっとせつらの肩を押した。エスコートするように、左手は腰を支えて。薄紅に敷き詰められた花びらの上に、黒のコートが美しく広がった。








--了--





2016/4/1



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突発企画でワンドロをやってみたものの、１．５時間かかった無念の。
桜が、好きなんです。