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『一過』
ここはあまりにも静かで。外の嵐が嘘のようだ。 妖糸を手繰る。風に流されて想定外の場所に散った無限長の手足をひとつずつ確かめ定位置に戻す。ひどい風だ。雨も。亀裂が残らず水没する勢い。 不意に集中が乱された。顎を掴まれて顔が上向く。落ちてくる髪がくすぐったい。キスは薄く交わるだけに留められた。 「もうしないよ」 釘を刺しておかねばならない。 「まだ帰らぬ方が良いと思うが」 「店が心配だ」 「対策はしてきたのだろう」 「シャッターと雨戸は残らず閉めた。念のために糸も巻いてある。今日は朝から閉店だったし明日までずっと籠るつもりだった。上客からの配達依頼が入らなければ」 「それは済まないことをした」 「朝のうちに済ませて戻るつもりだったんだ。うちは亀裂も近い。なにが起こるかわからない。――それが、こんな」 メフィストの笑みが深くなる。つくづく、性格の悪い男だ。 「こんな、なにかな」 昼間から、だとか。こんな嵐の最中だとか。そもそも医者は忙しいんじゃないのかとか。言うべき文句は既に言い尽くしていて。今更繰り返すのも莫迦らしい。 「最悪だ」 「随分良さそうに見えたが」 「発言が助平親父と変わらないぞ、メフィスト」 飽きもせず僕の髪をすいていた手が止まり、頬を撫で顎を掴む。余計なことを言ったらしい。今日何度目かもわからないキスは絡みつく舌も濃厚であっという間に頭の芯が痺れて蕩ける。この医者はキスが上手い。呆れるほどに。 「――っ。だから、もう、っあ」 やんわりと押し返す前にメフィストの手が下肢にまわる。 「こんなにしておいてこのまま眠るつもりかな」 いちいち言い方が助平親父だ。とはもう口に出さないでおく。 「この、ば、か」 ロクな言葉をつくれないせいもある。 「せつら」 ちょっと待て本気になるな莫迦。 「っと、待っ」 制止を告げる前に唇が塞がれる。意識と無意識が快楽を期待して収束する。交わった記憶が近すぎてシャットアウトが難しい。身体の中心が熱を持つ。もう、止められない。 制御を離れた妖糸の最後の一筋が、去り行く嵐の名残を伝えていた。明日にはすべて通り過ぎているだろう。それまでは諦めて、この嘘みたいに静かな場所で莫迦医者と抱き合っているのも悪くない。 口に出して言うつもりはまったくないけれど。
--完--
2019/10/14 (pixiv初出:2019/10/13)
台風のはなし。 |