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『花傀儡』 １ 少女は客観的に見て、不幸だった。 父は毎日のように少女を犯した。 母は毎日のように泣きながら少女を罵倒した。 どちらもその時少女を殴った。 手加減などされた試しがない。 いつも、身体は傷だらけだった。 無数の醜い痕があった。 既に痛みに対する感覚がかなり麻痺しているように思う。 出血していることに気付かず、昏倒したことが何度かあった。 生きているのが時々不思議になる。 …本当に生きているのだろうか。心臓は鼓動しているか？感情は揺れ動くか？ けれど少女は幸せだった。自分は幸福だと思っていた。 生きていたから。生きていると思っていたから。 そのことがどれ程希有なことか、僥倖なのかを少女は知っていたのだ。 ここは、<魔界都市>なのだから。 ２ 人通りの少ない路地を、一人の娘が歩いていた。年齢は20代前半といった所だろうか ―― Ｔシャツにジーンズといったラフな格好の、ショートカットの娘だった。良く動く大きな瞳は見る者に溌剌とした印象を与える。 娘は途方に暮れていた。気が付くと、昼間から薄暗い路地裏に一人で立っていた。 他の『<新宿>ツアー』観光客と共に百人町を見て回っていた筈だが、どうもはぐれてしまったらしい。 「…困ったわね」 眉間に皺を寄せて、ツアー付属品として配られた地図に目を通す。現在位置は…よく分からない。 まあ、支給品の中には銃器も含まれていたから、多少の妖物ならば撃退可能だ。 ハンドバッグの中からそっとその品を取り出してみる。自動式拳銃のシンプルなデザインを眺め、これでロシアン・ルーレットは出来ないのかな…、などと娘は思った。ずしり、と手に食い込むその感触を確かめると少し勇気が湧いた。そろり、とハンドバッグに戻す。 普通、道に迷った場合にはその場から動かず助けを待つのが常道だが、ここ<魔界都市>ではそれも当てはまらないように思えたので、自力脱出を図ることにする。 一つ目の角を曲がった先に、ほのかな明かりが見えた。 近付くと、それが細く開いた扉から漏れているものだと分かる。 『占い』 簡潔な看板が掛かっていた。ここは魔法街ではない筈だが、ともかく怪しい商売であろう。 “丁度良いな、現在位置を占ってもらおうかしら…ついでに他のツアーの面子の居場所も。” 何故そう思ったのかは分からないが、彼女は扉に手を掛けた。無防備さは観光客故だろうか。 ―― きぃぃぃ、嫌な音を響かせて扉が開いた。 左を見た。薄汚れた木製の壁に、静物画が掛けられていた。 右を見た。受付らしきカウンタがあった。中は無人だ。奧に黒電話が見えている。 正面を見た。店の奧は薄暗く見通しが悪かったが、古びた椅子や机の更に向こうに扉が一枚あるのが見えた。 「―― こんにちは」 恐る恐る、声を掛ける。 「いらっしゃいませ」 無い、と思っていた返事が返り娘は小さく悲鳴を上げた。 木製のカウンタの内側にいつの間にか座っていた男が声を掛けてきたのだった。頭まですっぽりと被った濃鼠の布の所為で顔はよく見えない。 「親切モットー、安全第一。占いの館へようこそ♪」 明るい口調で語りかける、その内容は胡散臭い。 「あの、占って欲しいことが…」 「その前に、やはり占いが本当に当たるのかどうかをお確かめになりたいのがお客様の心情ではございませんか？」 “わざわざそんな前置きをするなんて…余程自信があるのかしら…” 「はあ、で、どうすれば良いんですか？」 「いえいえ、お客様は何もなさらなくとも結構でございます。私がお客様の事をこれから幾つか言い当てて見せますので、それを、ご見聞頂ければそれで」 どこまでも慇懃な口調で言う。 「……………」 「お客様は、観光客でいらっしゃいますね？…いやいや、応えなくて結構。このくらいは占わずとも<区民>ならば分かることです。本番は、これから」 相手に一言も喋る隙を与えず、矢継ぎ早に男が語る。 「お客様、来月結婚なさいますね」 「いえ、先日フられたばかりです」 「結構な大家族のようで」 「ちっとも」 「実は男性でしょう」 「……そんな、失礼な」 「……………」 「………………」 …………………。 気まずい沈黙が落ちた。 「やっぱり、結構で ――」 「いや、いやいやお待ちになって。わたくし実は単なる見習いのしがない受付でして。この店の主は奧にちゃんと居るのでございます。ええ、その腕のすばらしさ、私が保証いたします…え、私の保証など信用ならない？いえいえ、本当に。『占い』のみの実力で云うなら、<新宿>一の魔女ガレーン・ヌーレンブルクにも勝るとも劣らぬ凄腕。今なら格安料金で、良心的な商いをいたしております」 と言って男は料金を示した。はっきり云って二束三文。 「へえ、こんな値段で占ってくれるんだ…」 少し気を取り直したように娘は言った。この値ならば外れても損はあるまい。 「ええ、ですから是非とも奧へ。私の軽いお茶目など差し引いて有り余るような素晴らしい腕の師匠が、貴女のお悩みを即時に解決して下さいますよ」 「うーん、じゃあ、せっかくだから占ってもらおうかな」 「そうでございますか、有り難うございます。では、こちらへどうぞ」 いつの間にかカウンタから出て来た男は、奧にある豪奢な作りの木製の扉の前に立って娘を差し招いた。 娘が扉の前に立つと、恭しい仕草で扉を開く。 「それでは、ごゆっくりどうぞ」 おっかなびっくりながらも、娘は扉の中に入った。 視界は光に包まれた。 「―― え？」 白、いや薄紅色の波だ…。繚乱と舞い散る花弁。 世にこれ程美しい光景が在ったとは。これを見て感動に打ちのめされない人間などおるまい。それ程の、圧倒的な美が扉の向こうには広がっていた。 娘は呆然と立ちつくした。 見開いた目から涙がこぼれ落ちる。純粋な感嘆によって流れる透明な滴。 『それでは、ごゆっくりどうぞ』 先程聴いた慇懃な声音が、今度は笑みを含んで語りかけてきたような気がした。 ぱたん、と扉が閉じた。 ３ 宵闇が辺りを浸し始めていた。 都庁舎の造り出す影も徐々に消え、西新宿に正常な外気が復し始める。 急須に湯を注ぐと、秋せつらは未だ出しっぱなしの炬燵に足を突っ込んだ。流石に電源は切れている。 愛用の湯飲みに香ばしい湯気の立つ焙じ茶を注ぐ。 湯飲みを傾け、一口すすった。 その口元からこぼれる吐息。 ふと、視線が湯飲みから上げられた。 その澄んだ黒瞳が見据える先には年季の入った襖しかない。 ―― ゆらり。 空気が揺らいだ。 「こんばんわ」 茫とした、だが美しい声音が何もない空間に向けられる。 そこに在る、なにかの気配。 「何か、ご用ですか？」 彼には『なにか』が見えているのだろうか… ―― …ぁ…… 微かに空気が振動したようだった。 ―― …うか………を……けて……い… 途切れ途切れなその震えは、言葉を形作ろうとしていた。 ―― わたし…み…け…くだ…い……いそ…で… 中空を真摯な表情で見据えるせつらの瞳には、そこには存在しない筈の、娘の姿が映っていた。 在り得ない声が、明瞭りと耳朶を震わせる。 「分かりました」 ―― あり…と… 震えに微かに歓喜が混ざったようだった。 気配が消える。 空気の振動は消滅していた。 せつらは目線を湯飲みに戻し、かったるそうに後頭部を二、三度掻くと、 「そういえば、生き霊の依頼は初めてだな」 残りの茶を一息に飲み干した。 ４ 闇に包まれた店内。一人の男が座っている。 その男はカウンタに両肘を付いただらしのない姿勢で、煙草をくゆらせていた。全身をすっぽりと覆う濃鼠の布から唯一見える口元がゆるやかに紫煙を吐き出す。そこに浮かぶ、微かな笑み。 男は『人形屋』と呼ばれていた。それは、男の職業から来る通り名だった。精緻な人形細工、そこに込められた魔力は人形を生在るもののように操ることを可能にする。天気のいい日などは、花園神社の境内に露天を出して『商品』を売りさばく事もあった。だがそれはあくまでも表の商品、<魔界都市>でならば合法で通るモノばかりだ。平凡なプラスティックから屍体まで、男は様々なモノを材料に、見事な人形を造り上げる。 時には、生身の肉体をも使って… 裏での非合法な商売であろうと、細々とやっていれば咎める者など誰もいない。そのような商いを全て摘発していては、<新宿>警察の留置場がパンクしてしまうのだ。 先程終わったばかりの仕事の成果に対する満足気な吐息と共に、紫煙が宙を舞った。 ―― じりりりりりりりりり。 けたたましい呼び出し音が響いた。それは、カウンタの内側に据えてある黒電話からもたらされたものだった。 男は煙にむせながら、受話器を取った。 ここの番号を知る者などそう多くはない。 「親切丁寧いつもニコニコ、占いの館でございます♪」 電話口の向こうに、脱力する気配が涌いた。その後に早口で何かを云う気配が続く ―― 「―― 分かった、感謝する」 云って、男は受話器を置いた。 ５ 夕闇の迫った通りを一人の少女が歩いていた。長い黒髪の、ほっそりとした娘だ。華奢で可憐な外見とは裏腹に、綺麗な琥珀色の瞳には暗い影が揺れている。 少女は帰路を急いでいた。思いの外、学校の委員会が長引いて、帰宅時刻が遅くなってしまったのだ。門限を一時間ほど過ぎている。夕飯を作るのは、少女の役目だった。 “また、殴られる……” ぼんやりと、そんなことを思った。 殴られること自体にさしたる感慨はない。慣れた、と云うのも可笑しいほどにそれは彼女の生活と密着した出来事だった。 人の情も、愛も、憎しみすらも崩壊した街、<魔界都市“新宿”>。この もしかすると自分は彼等の子供では無いのかも知れない、と少女は時々考える。あるいは、近親憎悪なのかもしれなかった。モノのように扱われ、死なぬ程度に殴られる。 どちらでも、構わなかった。少女にとって生きることは何者にも代え難い目的であり、また、耐えることと同義であったから。それを刷り込んだのも、またあの両親なのだろうが… 少女はふと前方に目を向けた。 ―― 闇が、立っていた。 宵闇の中でも更に純粋なそれだけを凝集し磨き上げた後、人の形を取らせたらこんな風になるかも知れない。 「貴方は ――」 ―― 誰？ と訊こうと口を開きかけた。 そこで、意識が暗転した。 気が付くと、少女は見知らぬ路地に立っていた。 記憶があやふやで、意識が明瞭りしない。 薄暗い路面に一筋、光の帯が在った。それに沿って視線を移動させてゆく。 『占い』 そんな看板を掲げた扉の隙間から、光が漏れているようだった。 ふらり、とそちらに歩み寄ると、少女はおもむろに扉を開いた。 ―― きぃぃぃぃ。 耳に付く音を残して扉が開く。 左を見た。薄汚れた木製の壁に、静物画が掛けられていた。 右を見た。受付らしきカウンタがあった。中は無人だ。奧に黒電話が見えている。 正面を見た。店の奧は薄暗く見通しが悪かったが、古びた椅子や机の更に向こうに扉が一枚あるのが見えた。 薄明かりに包まれた店内は無人のようだった。幽かに紫煙の香り漂う空間に人の気配は全く感じられない。 少女は迷いのない歩調で奧まで進むと、豪奢な作りの木製のドアの前で立ち止まった。ノブに手を掛け、ゆっくりと回す。今度は物音一つせずに扉が開かれた。 少女の視界を、薄紅色の乱舞が埋め尽くした。 大きな黒目がちの瞳の中を無数の花びらが舞う。焦点の合わない、硝子のように澄んだ瞳。 ふいに少女は背後を振り返った。 琥珀の瞳の焦点が合った。 目映いばかりの乱舞は、既に少女の意識の外に追いやられていた。彼女の視界を今占めているモノ、生命を咲き誇る花々を凌駕して余りある美しさを有したそれは… ―― かしゃん。 少女の中で、何かが壊れた。 見開かれた瞳から透明な滴がこぼれ落ちる。 “そう、そうだった……私……は………” 理解は一瞬で少女の思考を満たし、次の瞬間霧消した。 薄紅色に染め上げられた地面へと、ゆるやかに少女は倒れ伏した。 満開の桜並木。散りゆく花びらが薄紅色の絨毯を築く。 その白い背景から浮き上がるようにして、黒衣の人影が立っていた。 その貌は絢爛と咲き誇る花々よりも更に美しい。 秋せつらは足下に倒れ伏した少女を、そっと抱き上げた。 ６ 花園神社の境内。快晴の空の下、様々な露店が商いを行っている。 幾つかの店が密集し、無害な妖物、毒虫、薬品・薬草などを安価で商っている。少し裏手に回れば堂々と武器、火器の類を購入することも可能だ。そのどれ一つを取っても<区外>では１０倍以上の値で捌くことが可能であろう。<新宿>に３箇所存在する<区外>との接点、西新宿、早稲田、四谷ゲートでの検閲によってその九割九分九厘までが回収されると云われているが、難を逃れた一厘が<区外>にどのような災いをもたらすのかは想像に難くない。 そのような店々に集まる<区民><区外民>入り交じった人混みから少し離れた辺りに、ぽつんと出された露店があった。露店、とはいうものの その店に並んだ商品達は、露店自体の佇まいを裏切るかのような見事なものであった。 大小とりどりの精緻な人形細工。 その正当な使用法 ―― 幼子の手に遊ばせておくことよりも、硝子ケースに収め停滞した時を在ることこそが相応しい、見るものにそう思わせるような品々であった。人形のものとは思えぬ、だが人形のものでしかない滑らかな肌。黄金、亜麻、漆黒、赤銅、とりどりに染め上げられた柔らかな髪。美しい指、躯のライン、透明な輝きを持つであろう瞳は残念ながら長い睫毛に隠され目にすることは適わないがその顔形の愛らしさ、美しさは瞳を閉ざしていて尚全く損なわれていない。目の当たりにすれば触れずにはおかれぬような、また触れることを躊躇うような繊細な美であった。 影が、落ちた。 男が、顔を上げた。微かに目を見張ると、苦笑混じりに呟いた。 「そろそろ見つかる頃合かと思っていましたよ。流石に、ナンバー・ワンの名は伊達ではありませんね」 時刻は正午に差し掛かろうかという辺りだった。木陰から微かに出ていた男の身体と、並べられた優美な人形たちの一部をその影は覆い隠していた。 その影の形、地に落とされた曖昧なそれだけで美麗な人形細工すら色褪せる、美しさ。 持ち主を、秋せつらという。 彼は、 「―― 何故、逃げたのかな？」 「貴方が私を捜している、と言う噂を聞いたもので。若い身空で命を縮めるような真似は、出来ればしたくありませんからね」 「暗示の解き方は？」 「あれが、貴方に直に 「“美”によって、心を縛っていた。それで間違いはないのかな？」 「流石に、慧眼でいらっしゃいますね」 男の店の一室。そこに広がる景色。満開の桜。美の結晶 ―― ―― それによって、獲物の それが、生けるものを人形へと仕立て上げる為の第一段階なのであった。 暗示が解けそうになるとご丁寧にももう一度掛け直される為に彼の元へ ―― 桜の元へ戻るよう、更に暗示を掛けていたことが自らの首を絞めることになるとは、皮肉な話だ。意思も無く『人形屋』の店へ向かう少女の後をつけることなど、<新宿>一のマン･サーチャーには造作も無いことであったろう。 「貴方は、この少女を生ける人形へと作り変え、と在る夫婦に売った」 せつらは、男の目の前に一葉の写真を翳し、淡々と言った。 生身の身体を器とし、そこに異なる人格、容貌を重ね合わせる。依頼人の要望に従って造り上げられた『人形』は、以前の面影を欠片も留めてはいない。勿論、本人にもその記憶は無い。そのようなものを捜し出すことが可能であったのは、秋せつら故か。 未だ笑みを刻んだままの男の唇が、言葉を紡ぐ。 「私は、貴方の“捜し人”に危害を加えてはおりませんが ―― どうなさるおつもりですか？」 「彼女は元通り回復するそうだ。が、記憶が残らないとはいえ精神的傷害を著しく受けているからね。腕一本、かな」 もしも、彼が今自らを<私>と呼ぶ状態であったなら、それでは到底済まない事をこの男は知っているのだろうか…… 「それは困りました。これでも私のこの腕は大切な商売道具ですので。この、人形達でご勘弁頂けませんか？」 男はゆっくりと立ちあがると一歩退いた。間髪置かず、先ほどまで立っていた石畳に一筋亀裂が疾った。男の腕を薙ごうとした妖糸の行いであった。 男は、それを気にした風も無く恭しい動作で人形達を指し示した。 ―― 人形に、生命が宿った。 他に目撃者がいたならば、そう思ったことであろう。居並ぶ美麗な作品達は、突如その可憐な瞼を開き美しい瞳を顕わしたのだ。 とりどりのドレスを身に着けた身体が次々と立ちあがり、糸に引かれるようにして宙に浮く。 今や完全に見開かれた数十対の瞳が、妖艶な光を宿してせつらを射る。吸血鬼のそれのように、見るものを魅縛し尽くす視線 ―― うっすらと開いた小さな口元には、鋭い牙が覗いている。 そのようなおぞましい姿を曝して尚、愛らしくも可憐な人形達であった。 流麗な眉が微かにしかめられた。 人形一つ一つの放つ『気』は微量だが、それらが化合し重なり合うことで濃密な妖気が生まれているのだ。しかも、厄介なことに放たれる気全てが指向性を持ってせつら一人を取り巻いている。その危険性は最高危険地帯の妖気に匹敵するだろう ―― 常人ならば一分と保たず発狂する。 小さな身体の形作る輪が狭まった。その腕を、首筋を噛み裂こうと開いた口元から牙が覗く ―― 空気が、鳴動した。 人形達の首全てが美しい切り口を見せ、絶たれていた。カラカラカラ、と儚い音を立てて小さな身体が地に落ちる。 水平に上げられた右手をせつらが下ろすと、辺りを静寂が埋めた。 しかし、せつらを取り巻く『気』の濃度は一向に薄まる気配が無い。ねっとりと絡み付く鬼気が感覚を狂わせる。 人形の身体が、不自然に蠢く。頭部を失い奇妙な姿勢で転がっていた胴体から伸びた腕が、空を掴み自らの身体を引き上げようと足掻いていた。小さな手のひらが空をむなしく掻く度に、身体が数センチ持ちあがる。 地に落とされ、一端は目を閉じ転がっていた頭部が再び目を見開き、思い思いの方向を向いていた顔を一斉にせつらの方へと転じた。秀麗な美貌を認め、にっこりと微笑む顔はそれでも尚可憐で、そうして微笑みながら、何かに引かれるようにして再び宙に持ちあがる。 一番近くに居た人形の小さな手が、せつらの右腕に触れた刹那。 ―― かしゅん。 束ねられた妖糸は正確に人形達の左胸と眉間を貫いていた。 今度こそせつらを取り巻く外気が正常に復し、人形達の動きが止まる。 せつらは貫かれた個所から白いねっとりとした気体が滑り出、霧消するのを認めると、 「精魂込めた人形、ね……」 妖気の為かやや掠れた声で呟いた。未だ痺れの残る手のひらを軽く動かしつつ前方に転じた視線の先から、人形屋の姿はとうの昔に消えうせていた。 ７
『それでは、ごゆっくりどうぞ』
先程聴いた慇懃な声音が、今度は笑みを含んで語りかけてきたような気がした。 ぱたん、と扉が閉じた。 娘は、病室で目を覚ました。が、すぐさま瞳を開いたことを後悔した。 ―― こんなものを見てしまっては、この先まともに生きてゆくことは出来ない。だが、再び目を閉じる気力は湧かなかった。一秒でも長く見つめていたい、網膜にその姿を焼き付けてしまいたい ―― 危険な誘惑が理性を押し流し、眼を閉じることを拒むのだ。 漆黒と純白、限りなく遠く、また近くもある、一対の美。彼らの美貌を同時に目の当たりにして正気を保っていられる者など、この 「藤堂かなえさん、ですね？」 その姿に 「―――― はい」 だらしなく口を開いたままポカンとしていた娘 ―― かなえは、ぼんやりと返事をした。 「僕は秋せつらというものです。お母様が貴女を迎えにいらっしゃっています、ご本人に間違いなければ連絡を取る事になりますが、構いませんか？」 「―― 母が………迎えに？」 「そうです」 「…良かった。……私は、どうなったのですか？」 「観光中に神楽坂で行方不明になっていました。ヤクザに拉致される寸前に発見し、怪我をなさっていたので入院していただきました。ここは、メフィスト病院です」 「―― メフィスト、病院…」 ぼんやりと言葉を反芻する、かなえの視線は純白の美に向けられていた。 ―― では、この 「で、いつ退院できるのかな？」 せつらは無造作に白い医師に問い掛けた。 「今からでも可能だ」 「じゃあ、迎えが来るまで置いといてくれるかい」 「―― 我が病院は、宿泊施設では無いのだが」 「まあそう言うなって、今度煎餅持ってくるから」 にこり、と営業スマイル。 「商品を賄賂に充てる前に、少しは本業の腕を上げる努力をした方が良い。近頃また味が落ちている」 「………余計なお世話だ。―― では、迎えが来るまでここでゆっくり休んでいて下さい」 後半の台詞はかなえに向けられたものだ。言いながら、すでにドアの方へ向かっている。 「何か不都合があれば、遠慮無くナースを呼びたまえ」 先ほどの会話など何処吹く風、冷厳な、しかし患者に対する慈愛に溢れた口調でメフィストが云った。流れるように優雅な動作でドアが開かれ、閉じると病室に静寂が満ちた。 そうして、夢幻のように二人の魔人が去った後、かなえは再び眠りについた。 「―― 何故、嘘を吐いたのかね？」 廊下を進むせつらの背に、後を行くメフィストが声をかけた。 「……一から説明するのも面倒だからね」 歩みを止めず前を向いたまま、茫とした声音が返事をかえした。
◇◆◇
―― 舞い踊る花びら、満開の桜並木 「藤堂かなえさん、ですね？」 こちらを振り向いた娘に向かって、秋せつらはそう訊いた。 娘は、焦点の合わぬ瞳に一瞬理性の光を燈し何かを云おうとしたように見えたが、開かれた口元から言葉は紡がれず、そのまま娘は倒れ伏した。 敷き詰められた花びらが、何枚か舞い上がる。 せつらは足元に倒れた少女を、そっと、抱き上げた。 振り向きもせずに声をかける。 「どうだい」 「確かに、それは“人形屋”の作品だな」 聴く者の脳髄を蕩かすような美声が応じた。 「―― 治るか？」 彼にしか許されぬ台詞。 「それは、外側の話かね？」 <魔界医師>に、治療が可能か、と問うこと ―― 「 「なんら、病んだ個所は無い。正確に云うならば ―― 治療は完了している、たった今、な」 ドクター・メフィストは淡々と事実を告げた。 「そう、か……で、なんでここにいる？」 「あの場所で待っていても君は来まいと思ってな」 「まあ、目的は果たせたからいいんだけどさ。―― 呼び出して悪かった。今回ばかりは僕も自信がなくてね」 精工に造られた人形 ―― それと生身の 「君の頼みならば。―― 報酬は…」 秀麗な口元に微笑を浮かべ、秘め事のように囁く。 「あ、詰め合わせのセット、受付の看護婦さんに渡しといたから。前払いで」 あっけらかんとした応えを返し、せつらは娘を抱きかかえると立ち上がった。 ―― 花弁が、後から後から舞い降りてくる。 主を失った木々達は、もう止めるものもないその一瞬を生命の輝きによって押し流そうとしていた。 後、十分もすればすっかりと散りきってしまうであろう桜の、乱舞。 さして名残惜しげな素振りも見せず、黒白の影はその場を後にした。 ◇◆◇ 「そういうことにしておこうか」 背後で、くすり、と微笑う気配。 「…どういう意味だよ」 「それよりも ――」 立ち止まり、降り返ったせつらの手にメフィストの繊手がそっと触れた。 「何かな？」 「それは、こちらの台詞だな。何に、やられた？」 「可愛いお人形さんに。もう大分動くようになった、支障はない」 「勝手な素人判断はやめてもらおうか ―― それに、君にも分かっている筈だ」 普段にも増して冷たい、せつらの手。凝った念による後遺症は未だ彼の身体機能を侵食していた。 「このままにしておけばいずれこの手は使い物にならなくなる。この症状、放っておけば全身に広がり死に至るだろう。保って一日、だな」 「まだ、仕事は完了していない。のんびりと治療を受けている暇は無いな」 「これ以上の手出しは君の仕事の範疇ではあるまい。―― 何に拘っている？」 「別に」 人形屋の行方は依然不明。痕跡一つ残さずあの場を去った魔術師が向かった先の見当は、実はせつらにはついていた。 「ただ、まだ取り返さなきゃならないものがあるだけだ」 ８ 何をされようと、自分たちに従順であるように。 何一つ疑問を覚えぬように。 ただ、諾々と与えられる現実を享受するように。 そんな『娘』が欲しいと夫婦は云った。 こんな顔に、と手渡された写真にはその夫婦にどこか似通った少女が写っていた。 夫婦の本来の娘が今、どうしているのかなど人形屋が知ったことではなかったが…ただ、生きてはいないのだろう、とだけ思った。 完成した人形を目にした時、夫婦が歓喜したことは云うまでも無い。 「どうぞ、いつまでも大切に扱って下さいね」 その言葉に二つ返事を返し、料金を支払うと夫婦は店を立ち去った。 扉を開けたその女性は、ひっ、と短く悲鳴を上げるとニ三歩後じさった。 瞬時に青ざめた顔の中で小刻みに震える薄い唇が、ようよう言葉を紡ぐ。 「な…何の用ですか」 「分かっていらっしゃるのに、敢えて問うのですか？」 にこりと、濃鼠のフードから覗く口元に酷薄な笑みが浮かぶ。 女が慌ててドアを閉めようとするが、男の手がそれを阻止して果たせない。 「あ…なた。あなた！」 恐怖そのものに出会ったかのような悲鳴が口から漏れる。 くるりと踵を返すと女は狭いアパートの室内に消えた。 その後を、濃鼠のマント姿が追う。 軽い歩調が廊下を超え、居間に辿り付いた時、部屋の中で男 ―― おそらく、夫だろう ―― の声が響いた。 「―― 何の用だ」 ありったけの威厳をかき集めたような声。 震えていないだけ、マシかも知れない。 じわりと、男がさして急ぐ訳でもなく二人の方へ向かう。 間にぴったりと何かが満たされてでもいるかのように、男が近付いた分だけ夫婦が後退する。 その様子に、人形屋は微かに苦笑した。 「契約違反にはリスクが付きまとうものです。―― 当たり前のことでしょう」 そう云って、男は後じさる夫婦に一歩近付いた。 「買えばもう、こちらのモノだ。あんたに口出しされる覚えは…無い、はずだ」 憮然とした口調の主は、じりじりと後退してゆく。 「私が心をこめて作った人形をないがしろに扱われているというのに、それについて何かを申し上げる権利が無いとでも？」 無表情で酷薄だったそれが、残忍な笑みへと代わる。 「ご安心下さい。お客様を殺めるつもりはございません。ただ、ほんの少しだけ ――」 ―― こころを、いただければ。 そう、男の唇が綴る前に、夫婦は意識を失った。 人形屋が、焦点の合わぬ目を見開いたまま座り込んだ夫婦の首筋から桜の枝を取り上げる。 「大した役に立つとも思えませんが。もののついでに行うには充分な収穫でしょうか」 更に数歩進むと、雑然としたその部屋には不似合いな、花瓶の中に生けられた桜を取り上げた。 先ほど拾い上げた染井吉野の枝と合わせて、抱える。凛とした雰囲気の、淡い緑の花弁に満足げに微笑んだ。 美しい声が部屋に響いた。 「なんとか、間に合ったかな」 背後に突如出現したその気配に、愕然と振り向く。 いつの間にか居間の入口に忽然と美影身が現われていた。 闇よりも尚黒い闇が、男を悠然と眺めている。 「…この状況を『間に合った』と断定なさいますか」 それでも尚、冷静な声音が慇懃と応対した。 「依頼人に対する加害者だからね。慰謝料を請求しこそすれ、哀れんでやる義理は無い」 茫とした雰囲気を崩さずに、秋せつらは淡々と云った。 「これはまた、恐ろしいことをおっしゃる」 「ビジネスライクなんだと云ってもらいたいな」 「―― 失礼。それで、<新宿>一のマン・サーチャー殿は私に何の御用が？」 「分かっているのに、敢えてそれを問うのかな」 先ほど自らが放ったのと同じ言葉で返され、男は内心舌打ちした。 「…いつから、いらっしゃいました？」 「さっき。ただ、便利な目印が付いていてね。話は全部訊かせてもらった」 アパートの一室に巡らされた直径千分の一ミクロンの妖糸の存在に、指摘されてはじめて男は気付いた。 「成る程。どうやら私は袋の鼠になりに来てしまったようだ」 「そういうこと」 のほほんと、微笑む。 その美しい指先が、男の手元を指差した。 「それ、ね ――」 『人形』が人間に戻った時、その中に封印されていた本来の人格は取り戻された。 だが、そこには『人形屋』に関する記憶も、『人形』であった時の記憶も残されてはいなかった。 ならば、あの時せつらに自らを捜すことを依頼したのは娘の何だったのか… 「返してもらおうかな」 失われた、記憶の欠片。 桜の一枝が抱えた娘の名残。 ―― 私を、見付けてください。 記憶を取り戻し『人形』から人間に戻った娘 ―― かなえにとっては不要なそれも、確かに彼女の一部ではあるのだ。 「これは、大切な商売道具ですからね。そう、簡単にお渡しする訳には参りません」 本物の人間の人格の一部を、その欠片を宿してゆくことで『人形』の人格形成の核となるそれは、本来ヒトでは有り得ないソレに 例え一部とはいえ人格を吸収するためには時が必要だ。急げば、先ほどの夫婦のようになる。 納入を急かす夫婦に人形屋は、少女と供に桜を渡し、どこか、目立つ場所に生けるようにと、云った。数週間も経てば、桜の中に程よく少女の一部が溶け込む筈であった。 「僕の間に、返してくれると嬉しいんだけど」 のほほんと返される言葉の裏に隠された恐るべき意味を、男は知っているのか ―― その手の中で、桜の枝がさらりと振られた。 「貴方のこころと引き換えならば、喜んでお渡ししても良いのですが」 酷薄な笑みを刻んだままの唇が、言葉を綴る。 「無理な相談だな」 さらり。八重の花弁が儚く揺れる。 「では、交渉決裂でございますか。残念ながら」 揺れ動く花弁の軌跡を辿るようにして、 凝り固まった薄緑色の靄は、古の ―― 伝説の獣の形を取っていた。 メタリックに光りを放つ、銀の毛並み。先が幾本にも分かれた尾。鋭い牙を覗かせて唸り声を上げる口。敏捷そうな前肢。 可憐な桜の一枝を守護する為に現われた巨大な妖弧は、紅く輝く瞳で獲物を見据えていた。 血に燃える朱に宿る確固とした敵意の輝きが、不意に揺らいだ。 不死の獣の瞳に灯るはじめての感情の色は、恐怖に、似ていた。 自らには相応しからぬ感情を払拭するように一層強く唸り声を上げる。 ―― その声すら、途切れようとは。 妖弧の目にした光景には、それだけの力があった。 その瞬間、春の日差しは色褪せ、部屋を絶対零度が支配した。 何一つ、原子の欠片すら動くことが叶わぬ程の、冴え凍る気配が辺りを染め変える。 青白い鬼気のゆらめきを、深く澄んだ黒瞳にも宿し、せつらがゆっくりと口を開いた。 それは、確固たる死の宣告であった。 「私と、会ってしまったな」 それでも怯えを抑え、攻撃を開始したのは流石、男が切り札として出したカードだけはある。 赤く燃える瞳と同じ色をした口腔から炎が勢いを伴って溢れ出す。 その攻撃を避けようとすらせず、せつらはただ、左手の人差し指を軽くしならせた。 ―― ピィン。 空間を裂く糸の音。 次の瞬間、炎が、妖狐が、そして背後に佇んでいた男が、綺麗に縦に裂けた。 更に数瞬を置いて、男を残してエクトプラズム製の魔物と炎が消える。 ゆっくりと、人形屋の死体の元へ歩み寄ったせつらの眉根が、微かに寄った。 ただ一つ無傷で残った桜の枝が、男の二つに裂けた右腕の中で花弁を揺らしていた。 ９ 澄んだ青空が、病室の照明に慣れた瞳には眩しい。 藤堂かなえは翌日迎えに来た母親に促され、退院手続きを済ませた病院を後にしようとしていた。 かなえの母親は、観光途中で行方不明となった娘を探す為単身<新宿>を訪れ、その日の内にせつらに依頼をし、かなえの居場所を知ったのだった。 せつらが依頼人以外の人物に捜し人の居場所を知らせた訳は、推して知るべし、である。捜し人が依頼人では引き合わせるべき相手がいない。かなえの了承を取った後、せつらは母親に連絡を入れていた。 あの後美しき病院長に見えることも無く、また、黒衣の麗人が病室を訪れることも無かった。 ―― 仕事が終わればもう、何の関わりも無い。ただの、観光客。 快晴の空に似合わず沈んでゆく気持ちのままに、かなえは一つ溜息をついた。 正面玄関を出る。何かを吹っ切るようにして、かなえは俯いていた顔を上げ、正面を見据えた。 その動きが、硬直した。 顔を上げたその目の前に佇んでいた影の、余りの美しさに。 「…あ………」 ―― 秋さん。 そう、云おうとするが上手く言葉が紡ぎ出せない。 そんなかなえの焦燥を知ってか知らずか、せつらはゆっくりと、春の日溜りを思わせる歩調でかなえの方へ向かい、目前で立ち止まった。 「これを」 「―― え？」 「あなたのもの、ですから」 彼が右手にある桜の枝をかなえに差し出しても、しばらく彼女は反応できなかった。 目の前の若者が人に何かを渡す、という行為を脳が受け入れなかったのだ。 だが、反射的にかなえの手は、桜の枝を掴んでいた。 せつらの手が離れる ―― 美しき者の手に在ったことを恥じ入るかのように、桜の枝はその瞬間崩れ去った。儚げな花弁も、たおやかな枝も、輪郭を薄れさせおぼろに消え失せたのだ。それは、かなえの掌に吸い込まれたようにも見えた。 「これは…一体」 困惑交じりの声音が前方に向けられた時、既に黒衣の青年はかなえの横を通り過ぎ、病院内へと消えていた。 全てのもの思いを連れ去るように、柔らかな風が吹く。 先程よりも幾分吹っ切れた気持ちで、かなえは病院を後にした。 そう、彼女は奪われていた『自分』を取り戻したのだから。 それが、表層意識には現われぬ類のものだとしても。 「―― 来ぬつもりかと思っていたが」 唐突に背後からかけられた静かな声音に、せつらが振り向く。 「僕の後ろに立つな、と何度云ったら分かるんだ。メフィスト」 「<私>ならば、許さぬのだろうが、な」 口元に微かな笑みを刷いた応えに、せつらは憮然とした視線を向けた。 「残念ながらこんなことで一々あんたを喜ばせてやる趣味は無いね」 「情ないな ―― だが、私の君も珍しく今回は敵を取り逃がしたようだな」 せつらの美しい眉が片方だけ、上がる。 「何故、知ってる。…まさか」 「救いを求める者は全て私の患者だ」 「節操無し」 「傷の所為で腕が鈍っている責を私に置かれても困る。治療を拒否して出て行ったのは君だよ、せつら君」 「急がないと、逃げられる所だった」 とあるアパートの一室にせつらが仕掛けた妖糸の伝える情報は、人形屋の訪問がそう長くは無いことを告げていた。 痺れの増した右腕をひらりと振って、のほほんとした口調で、けれど憮然たる感情をそこに込めつつせつらが云う。
エクトプラズムの残滓が消え失せた後、六畳間に残されていたのは緑の花弁を揺らす桜の枝と、確かに頭頂から股間までを両断した筈の
自らの右腕を媒体にして 人形屋に結び付けた妖糸は、切断されていた。 「それで、取り返さねばならぬものとやらは、手に入ったのかね」 場所を院長専用の診察室に移して、メフィストがせつらに問いかけた。 「ああ。さっき渡してきた」 「君の苦労も知らず、あれが何かも気付かぬ女にか。もう一度云おう。君の仕事の範疇ではあるまい。まして、女の為に利き腕を無くす危険を犯すなど、正気の沙汰とは思えんな」 わざとらしく洩らされた溜息に、せつらが露骨に嫌そうな顔をする。 「あんたの歪んだ哲学を聞く気は無いよ。それよりもとっととこの腕を治療してくれ」 うんざりとした口調と共に、黒衣の布地越しにも分かる完璧な均整を有した美しい腕が差し出された。 「―― ふむ」 メフィストの瞳が冷徹な光を帯びる。 美しい指先が右手首に触れ、ゆっくりと腕のラインを辿り肩に至った。 「手首から侵入した“気”が肩まで達している。既に、指一本動かせぬ筈だが… 「…いらん所で目ざといね、お前は。で、どう？」 「この腕を切断して、優秀な義手に付けかえる」 「―― おい」 「と、一般的な医師ならば云うだろう。少々、時間がかかるぞこの傷は」 「あんなものを飾る暇があるなら、傷の楽な治療法でも聞き出せば良かったんだ」 せつらが、診察室の片隅に生けられた桜の枝に視線を向け、云った。 一体いつ手に入れたものか、幽玄とも云えるその枝ぶりは、確かに、あの場で見た桜並木の一枝に相違無い。 「人を傷つける者が必ずしもその治療法を知っているとは限るまい」 まして、<魔界医師>以上にそれを知るものなど、存在し得ない。 「餅は餅屋だろ」 のほほんと、冗談とも本気ともつかぬ口調。 そのまま彼は背後の扉を降り返り、こう、云った。 「―― そう思わないかい」 扉に、動揺が湧いた。 それに呼応するようにして、ゆっくりと、扉が開く。 「流石に、勘がよろしくていらっしゃる」 濃い鼠の布を頭からすっぽりと被った男の姿が、扉の向こうから現われた。 「立ち聞きは良くないな」 「私はただ、そこにいらっしゃる院長殿に呼ばれただけ、なのですが」 せつらがメフィストの方を振りかえり、じろりと睨み付けた。 「右腕の具合はどうかね」 それを完璧に無視する形で、メフィストが人形屋に語りかける。慈悲に満ちた医師の口調で。 「すっかりと、元々の身体とも馴染んでおりますよ。院長先生には感謝の言葉もございません」 「それは、何よりだ。―― 患者の治療は医師として当然の行為だ。本来、礼の必要はあるまい」 「…それは初耳だな」 茫、とした声がぽつりと呟くのに、メフィストがちらりと視線を送った。 その瞳を見返すようにして、せつらが言葉をつなげる。 「病院内で争い事を起こして欲しいのでなけりゃ、彼と僕とを会わせるのは得策とは云えないと思うんだけど。どういうつもりだい、メフィスト」 「君には、未だにこの男を葬り去る意思が有るのかね」 「―― いや。仕事は完了した。もう、何の用も無い」 「それは、重畳。この街であなたに目をつけられては、命は無いも同然ですから」 「それなら、今後一切仕事の邪魔はしないでくれると有り難いんだけど、ね」 のほほんと、釘を刺すことは忘れない。 「それは、その時にならねば分からないことでございましょう」 慇懃な、笑み。 そこでふと、男が自らの首筋に手を当てた。 「―― 今、落とされますか？」 「それが望みなら。…僕であったことに感謝するんだな。苦しまずに、逝ける」 男の腕が、マントの内側に消える。 その手が何かを取り出す前に、彼の首は、宙に舞っていた。 その動きに合わせてはらはらと、薄紅色の花弁が舞い踊る。 せつらが、一つ溜息を吐いた。 「…何故止めないのかと思えば」 「君が糸を巻く直前に変わったようだな」 <僕>であるとはいえ秋せつらの目を誤魔化した、身代わり。 太い幹の上部を断たれた玲瓏たる桜の大木は、断たれて尚美しく、妖気すら纏ってそこに在った。 衝撃で、満開の花が枝を離れ、診察室の床へ落ちる。 後から後から落ちゆく花弁の乱舞が、白い床を埋める。 「魔術師ってのは皆こんなに逃げ足が速いものなのかい」 ひらり、目の前を行き過ぎた花を、せつらの指先が捉えた。小さな花をくるりと弄ぶ。 「私に尋ねられても困るが ――」 メフィストが、せつらの右腕を取った。 その、長く美しい指が右肩に沈むのを、せつらはどこか嫌そうな目で見つめた。 「…痛い」 「当然だ。壊死して断たれた神経組織を全て繋げ直すのだからな。麻酔を使うかね？」 「いや、結構」 左手をひらりと振る。 美しい黒瞳が、ふと、桜を見上げた。 「まあこれで治療の間、花見で暇つぶしが出来る訳だ」 その点は感謝しないとな、と、直に神経に触れられる違和感と激痛など知らぬげに、のほほんと呟く。 くるくると手の中で回る桜の花。 <魔界都市>の何処か片隅で、時期外れの桜が今日も咲く。
--了--
2003/5/6
リライト版はこちらです。 確か『これで落ちがつく』というところで堪えて書き続けるとどうなるかを、試す実験をしたんだったと思います。 ↓当時どうしても入れ込めなかった会話文（笑）↓ 思い出したように、せつらがぼんやりと言葉を続けた。 「後は、お茶と煎餅があれば文句無しなんだけどな」 その物言いに、メフィストが苦笑する。 「治療中の飲食は感心せんな」 ゆっくりと、肩に沈んだ指先がそのまま腕の中を移動してゆく。 「やっぱ、駄目か。……ほんとに、痛い。もう少しマシな治療は出来ないのか」 「ならば、次からはこうなる前に治療を受けたまえ」 「……ヤブ」 「敵に三度も逃げられる人捜し屋に言われたくは無いが」 「余計なお世話だ」 |