『ΑΦΡΟΔΙΤΗ―Aphrodite－』
 しらゆき








地下深くまで降り注ぐ月光に照らされた院長室の、さらに奥。
そこには主人である白い病院長と、たまに訪れる黒い煎餅屋以外、誰も足を踏み入れたことのない部屋がある。
光沢のあるシルクのシーツを敷きつめた、豪華な装飾の施されたキングサイズのベッドの上。
どんな上質なシルクよりも白く耀くような素肌を惜し気もなく晒し、せつらはしどけなく横たわっていた。
シーツに投げ出された、一糸纏わぬその肢体は、黄金率に基づいて彫り上げられた、彫刻のように美しい。
肌理の細かな白磁の肌は、今は淡く桜色に染まり、先刻までの名残を艶やかに留めていた。

シルクの滑らかな冷たさが、火照った肌に心地好い。
ひんやりと、しなやかで…
つい先程まで、この身を掻き抱いていた白い医師に似ている。

熱を持ち始めたシーツを厭い、より冷たい場所を求め寝返りを打ちながら、せつらはぼんやりと思う。
ころんと仰向けに転がり、緩く閉じていた目蓋を開けると、かの人の姿が目の前にあった。

ケープは、院長室の黒檀のデスクに脱ぎ捨てたまま。
優雅なレースで飾られたブラウスの袖を、肘近くまで捲り上げている。
捲られた袖から伸びる、白く滑らかな下膊に。その先の繊手に。
せつらは一瞬目を奪われた。
造り物のような…いや、造り物ですら有り得ない、完全な美。
ドクター・メフィスト。魔界医師。

メフィストの繊指が動き、茫と己を見上げる白い裸身に優しく触れた。
「せつら」
愛しげに名を呼び、艶々と光る黒髪の先から、薄桜色に色づく足の爪先まで…
完璧な造形美を体現する想い人の身体に手を当て、ゆっくりと撫で下ろす。

肌を滑る掌の感覚に、せつらは大きく息を吐いた。
「…お前の手」
「何かね？」
茫とけぶる黒瞳を、冴えた黒曜石の瞳が覗き込む。
「シーツみたいだ」
「…」
意味が分からず、メフィストは黙り込んだ。
微かに傾げた首の動きに伴い、黒髪がサラサラと肩を流れる。
「それは…誉め言葉、のつもりかね？」
「別に。ただ思ったことを言っただけ…ふ」
のんびりとそう言うと、せつらはシーツにつけた背中を少しだけ浮かし、うーんと思い切り身体を伸ばした。
「ふぁ～ぁ」
目蓋をぎゅっと閉じ、大口を開け、魔界医師に遠慮もなく大きな欠伸をする。
瞑った目尻に真珠のような雫が浮かび、メフィストはそれを指の背で掬い受けた。
自らの指に口付けるように、指を濡らす雫を紅い唇で吸い上げる。
「眠る前に、バスに浸かりたまえ」
「…ん」
眠そうに長い睫毛をショボショボと瞬かせ、いつも以上に抜けた声で返事をするせつらを、メフィストは優しく見詰め
「せつら」
腕を伸ばし、仄白く耀く裸身をそっと胸に抱き上げた。

背中を柔らかく支えるメフィストの腕のひんやりとした感触に、やっぱりシーツみたいだ、とせつらは微かに微笑んだ。

＊＊＊

チャポン…

せつらを抱いてメフィストが向かったのは一面、大理石で覆われた、広々としたバスルームだった。
大理石の床に据えられているのは、大理石を抉って作られた優美な曲線を描くバスタブ。
黄金の脚の耀くバスタブには、既に適温の湯が張られ、柔らかな薔薇の香りの泡で満たされていた。

滑らせるように、静かにせつらを泡の中に降ろしたメフィストは、バスタブを回って頭側に移動し、想い人の顔を逆さまに覗き込んだ。
水のように透き通った爪で、彼の顔の輪郭を顎から米噛みまで撫で上げ、目を細める。
気持ち良さそうに睫毛を伏せたせつらの、形良く丸い後頭部を掌で包み、バスタブの縁に凭れさせた。
腰を屈めて旋毛に軽く口づけ、大理石の壁から生えた黄金の蛇口を捻り、洗面器に湯を満たす。
せつらの顔にかからぬよう、少しずつ髪を流す。

金ぴかに光る洗面器を横目で眺め、せつらは再び大きな欠伸をした。
…ひどく眠い。
「寝ても構わんよ」
「いや、起きてる」
寝ている間に、妙な悪戯をされては適わない。せつらは慌てて、ぷるぷると頭を振り、軽く眠気を追い払った。
髪の先から小さな雫が飛び散る。
雫は四方八方に散ったのに、なぜかメフィストの顔には一滴も当たっていないことに気付き、せつらはぼんやりと目を見張った。
よし、もう一度。
今度は強く頭を振る。パラパラと勢いよく散った水滴は、やはりメフィストの顔を濡らすことはなく…

―そういえば、この間の雨の日も。

煎餅を配達した帰り。
突如、降り出したどしゃ降り雨に、せつらは慌てて近くの民家の軒下に飛び込んだ。
頭からびしょ濡れだ。髪が頬に貼り付いて鬱陶しい。
ハンカチで適当に、濡れた顔と肩を拭った。
ぼんやり、暗い空を見上げる。まだ当分、止みそうにない。
「参ったなぁ」
大して参っていないかのような口調で、のんびりと愚痴を溢した。
と。
２メートル先も見えなくなるほどの豪雨の中、通りの向こうを傘もささず優雅に歩く白い影が、鮮やかに見えた。
「あ」
とうにせつらに気付いていたのだろう。メフィストは真っ直ぐに軒下に向かってきた。
雨の中を歩く姿を、頭の先から足の爪先まで見る。
ケープや靴は勿論、顔も手も…背中を覆う艶やかな黒髪も一筋として濡れてはいなかった。
雨粒が自分から、メフィストを避けて降ったかのように。
魔界医師の美身を汚さぬように。
「乗っていくかね？」
どしゃ降りの雨の中、雨の気配を微塵も感じさせない声で、メフィストが言う。
いつの間に来たのか、視線の先には黒いリムジンが停まっていた。

―そう、あの雨の日。
バケツをひっくり返したような雨の中、メフィストは全く濡れてはいなかった…

無性にメフィストを濡れ鼠にしてみたくなり、せつらはバスタブの中で身体をムズムズと動かした。
この距離で頭からお湯をかけたら…
さすがにこいつも、びしょ濡れになるのだろうか。
泡の中に隠した掌で、水鉄砲を作りメフィストに向けて湯を飛ばす。
多過ぎる泡のせいか、飛び出した湯はあまり飛ばず、バスタブの縁を濡らしただけだった。
「何をしているんだね？」
「…何でもない」
何となく納得のいかない気分で、せつらは唇を尖らせ、目の前の泡を吹き飛ばした。
泡は軽くふわふわと宙を舞う。
「髪を洗っても良いかね？」
「…ご自由に」
メフィストは掌でシャボンを泡立て、充分に濡らしたせつらの髪にふんわり乗せた。
白い指を漆黒の髪に差し入れ、泡を揉み込むように髪に馴染ませ、指の腹で丁寧に洗う。

手持ち無沙汰になったせつらは、目の端で揺れ動くメフィストの髪に手を伸ばした。
握った一束を目の前に翳し、まじまじと見る。
真っ直ぐに伸びた長い黒髪。仄かに良い匂いがする。
今、自分の頭に乗せられているシャボンと同じ匂い。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「なにかね」
「お前も髪洗ったり…この風呂に入ったりするの？」
ふと生じた疑問を、考えなしにせつらは口にした。
髪をワシャワシャと洗ったり、バスタブに浸かる魔界医師の図は、なかなか想像しにくい。
メフィストの手が止まる。
驚いたように僅かに目を見開き、茫洋とした黒瞳を真上から覗き込んだ。
「なに？」
「それは…一緒に入ろうと誘っているのかね？」
「…」
返事をする気力もなくなり、せつらは黙って目蓋を閉じた。
しばらくして何事もなかったかのように、メフィストがせつらの髪を掻き混ぜる。
髪を梳く指が心地好く、すぐにウトウトと眠くなった。

せつらの眠りを妨げぬよう、メフィストは静かに黒髪についた泡を洗い流し、海綿を手に取った。
湯に浸け、柔らかくほぐした海綿を、そっとせつらの肌に当てた。
首筋、鎖骨、肩、脇、上腕、肘、手首、指…
患者の身体を確かめるように、想い人の身体を愛おしむように、丁寧に優しく身体を拭っていく。

右手の人差し指に海綿が触れたとき、大人しく眠っていたせつらが飛び起きた。
「これは…どうしたんだね？」
芸術品のような、一見何の瑕疵もない美しいせつらの人差し指に、極々細い一本の朱筋があるのをメフィストの目は認めた。
恐らく幅数ミクロンの、肉眼では確認できないほどの細い傷。
「糸を細くし過ぎた」
せつらはただでさえ茫とした顔を、より情けなく歪めた。
チタン製の妖糸を研いでいる最中、うっかり指を切った。
切れ味が良過ぎたせいか、自分でも上手く縫合出来ず、触れられるとひどく痛む。

傷に視線を注いでいたメフィストは、徐にその人差し指を紅い唇にパクリと咥えた。
「ん…っ」
熱く柔らかい舌がねっとりと傷口を這い、瞬間走った痛みに、せつらは柳眉を顰める。
手を引こうとするが、引けない。
大して力を入れているようには見えないのに、メフィストの白い繊手に掴まれた手首は、ビクともしなかった。
やがてチュッと音をさせ、メフィストが名残惜しげにせつらの指を解放する。
指先の違和感がなくなったのを感じ、せつらは忙しなく指を擦り合わせた。
痛みはない。
傷痕もない。
「治療費は払わないよ」
「…では別のもので頂こう」
バスタブの縁に手をつき、メフィストはせつらに顔を近付けた。
ぱさり。
長くしなやかな黒髪がメフィストの頬に落ち、重なる二つの貌を隠した。

＊＊＊

泡を綺麗に流し落としたせつらを厚手の大きなタオルに包み、メフィストは再び彼を抱き上げた。
寝室に戻り、ベッドに座らせる。
せつらは、ぼんやりと目を擦った。
ひどく眠くて堪らず、座っているのも辛い。こてんと身体を倒しシーツに頬をつけた。
やっぱりこのシーツは、ひんやりと、しなやかで…
自然と降りてきた目蓋で、茫洋とした瞳が覆い隠される。

「せつら。髪が濡れている」
「う…ん」
身体を丸め、半分目蓋を閉じたせつらを、困ったように見詰め、メフィストはベッドに乗り上がった。
繊細な彫刻の施されたヘッドボードに背をつけてシーツに座る。
眠りかけた想い人を背中から抱え上げ、膝の上に乗せた。
余程眠いのか、せつらは抵抗せずに、ぐったりと、メフィストに凭れかかる。
力の抜けた背中を受け止め、メフィストはせつらの濡れ髪にタオルを被せた。
丁寧に丁寧に雫を拭い、時々手櫛で形を整える。

頭皮を滑る指先が、ひんやりと優しく心地好くて…

「やっぱりお前の手は、シーツみたいだな…」
「そうかね」
寝言のような、むにゃむにゃとした呟きにも律儀に言葉を返し、メフィストは黒絹糸のようなせつらの髪を優しく撫でた。
茫洋とした黒瞳を長い睫毛が覆い、やがて微かに開いた唇が緩やかな寝息を紡ぎ出す…

メフィストは髪を梳く手を止め
「おやすみ。せつら」
桜色の耳朶に、朱色の唇を寄せ囁いた。
そして腕の中の想い人の身体を柔らかく抱き締め、まだ少し湿った黒髪に鼻先を埋めると、ゆっくり瞳を閉じた。





＊＊＊終＊＊＊





2013/3/12



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《ご挨拶》

魔界都市をお読みの方、初めまして。しらゆきと申します。
今から十ｳﾝ年前。私の腐女子デビューは、魔界医師でした。
青春時代のほとんどをメフィスト先生(と、ちょっと夜香w)に費やしました。
通学途中のホームで銃撃戦に巻き込まれ、撃たれて重傷を負った私の目の前に、《新宿行き》の電車が！あれに乗ればメフィスト先生に治療してもらえる！
―という夢を見るほど、Dr.が大好きでしたー。ちなみにそこで目が覚めてしまったので、メフィスト先生にはお会いしてません(≧Д≦)くっそー。撃たれ損っ！
しかし当時から、相思相愛の白黒というのは私の頭に全くありませんでした。Dr.と"私"のラブシーンが凡人の私には想像外だったので。
今回。
陸様の連載を読んで、Dr.と"僕"のラブラブも良い！Dr.×"僕"なら書けそう！と、魔界都市への興味を失って十年近く経った今頃、目覚めてしまいました(笑)もうっどうしてくれるんですかっ！
と言う訳で、この場を借りて我が師陸様(勝手に弟子入り♪)に山盛りのお礼と感謝と、ちょっとの恨み節を捧げたいと思いますm(__)m
最後までお読み下さりありがとうございましたっ!!