『μηλον―melon/林檎―』
 しらゆき








「今日だって大変だったんですよ！観光客の団体が、５組!!次々とバスが来て。全部私一人で捌いたんですから!!」
「ふ～ん」

閉店後、店の裏手の自宅まで時給交渉にやって来たアルバイト店員の剣幕に、半分圧倒されながら…外見上はあくまでノンビリと…せつらは焙じ茶を啜った。
「あちっ」
「店長っ！聞いてます？」
思いの外、熱かった茶に驚き、座蒲団から飛び上がった店長に、アルバイトの女性は目を三角にし抗議をする。
ああ、と気の抜けた声で返事をしたせつらは、今度のアルバイトはしっかりしていて助かるが、口煩くて敵わない、とぼんやり思った。

「そのうち一組は、外国人観光客の団体！私、英語で接客して」
聞いている振りをしながら、桜色の唇を尖らせふーふーと茶を冷ます。
―カチャリ。
背後で裏口のドアが開き、せつらは僅かに黒瞳を細めた。

「だから200…150。せめて100円。とにかく今の時給じゃ、割に合わな…」
身を乗り出し、ギャンギャンと捲し立てていた女性が、突如として固まった。
大きく見開かれた瞳に、白い影が映り込む。

「取り込み中だったかね？」
「もう済んだ」

背後から聞こえてきた銀鈴を振るような声に、せつらは短く返した。
口をポカンと開いたまま、硬直したアルバイト店員に繊手を伸ばし、肩に軽く触れる。
ビクンと身体を震わせ、意識を取り戻した店員に、「明日までに考えておく」そう告げ、お疲れ様ーと彼女を家から追い出した。

＊＊＊

「珍しいね。お前が家に来るなんて」
座蒲団にきちんと正座したメフィストの前に、お茶を注いだ湯呑みを置く。
煤けた畳や色褪せた襖が、魔界医師を迎えた歓びに、自ら光を放ち出し耀くようだ。
見慣れた和室がきらびやかに様相を変えるのを、せつらは茫と眺めていた。
菓子皿が空なのに気付き、煎餅でも取ってこようかと、立ち上がり、店に続くドアに手をかける。
「せつら」
「…?!」
白いケープがふわりと小さく広がり、メフィストが何かを投げた。
それは綺麗な放物線を描き、せつらの手に収まる。
焙じ茶の芳ばしい香りに満ちた部屋に、仄かに甘酸っぱい香りが混ざる。

せつらが受け止めたもの。それは、丸い真っ赤な林檎だった。

「林檎…？」
「《区外》に往診に出ていてね。君に、と思い、依頼人の果樹園から頂いてきた。今年の出来は、最高だそうだよ」
確かにその林檎は、赤い皮から蜜が染み艶々と耀き、いかにも甘く美味そうだ。
せつらは林檎を見詰め、首を傾げた。
「どうして僕に？」
「特に意味はないが…」
メフィストが緩やかに頭を振る。長い黒髪が表情を隠した。
少しの沈黙の後、黒曜石の瞳を上げ、真っ直ぐにせつらを見据えた。
「敢えて言うなら、黄金の林檎、かな」
「…パリスの審判？」
せつらの呟きに、メフィストは優しく目を細めた。

―一番、美しい女神に捧げる。
不和の女神、イリスが投げ込んだ黄金の林檎。
その林檎には『この中で、一番美しい女神に捧げる』そう書かれていた。
三人の女神が、林檎を争い、ゼウスは人間の男パリスに審判を任せた…

果樹園で太陽の光を浴びて耀く林檎を見た時、その神話が頭に浮かんだのだ、とメフィストは言った。
甘味を含んだ柔らかい声に、せつらは目蓋を伏せた。
長い睫毛が頬に陰を作る。
手元の林檎に眼を落とし…
不意に、メフィストに向かい、林檎を投げ返した。

「せつら？」
「それは僕のじゃない」
メフィストの手の中で、妖しく艶を増す林檎を睨み付けるように見詰め、せつらは茫洋とした顔を歪めた。
メフィストの片眉が跳ね上がる。
「…?!」
「お前が本当にそれを渡したい相手は、"僕"じゃないだろ」
せつらはゆっくりとそう繰り返し、ぷいっと林檎から視線を逸らした。

メフィストが睫毛を瞬かせた。
ゆらりとケープを揺らし立ち上がる。
「私は"君"に渡したのだよ？」
足を踏み出し、突っ立ったままそっぽを向くせつらに近付く。
せつらの繊手を、メフィストの白く透き通る手が捉えた。
掌を上向かせ、林檎をのせる。手と林檎を一緒に、両手でそっと包み込んだ。
「私にとって、この世で一番美しい…愛しい男は、"君"だよ。せつら」
ベルベットのように柔らかな囁き声が、甘く心を溶かす。
せつらが瞳をゆっくりと、メフィストに向けた。
至近距離で向かい合う。

ふっとメフィストが表情を緩め、せつらの手を握ったまま、徐に片膝を畳についた。
ふわりと。
六畳間にシーツを敷き詰めたように、白いケープの裾が広がる。
黒髪がさらさら、その上を流れた。
「受け取ってもらえるかね？」
握った手に優しく力を込めて、主君に使える騎士のごとく、恭しくせつらを見上げ悪魔が囁く。
煌めく黒曜石に魅入られ、せつらは動けなくなった。
やがて
「…メフィスト。お前の方が、綺麗だ」
ようやくそれだけ口にする。
メフィストは紅い唇で綺麗に微笑むと、せつらの手に顔を寄せた。
そして繊手が握る赤い果実に、軽く口付けた。

＊＊＊

「ところでパリスは、女神に林檎を渡す代わりに贈り物をもらった筈なのだが」

三人の女神は、黄金の林檎を得ようと各々パリスに提案する。
―林檎を私に渡すなら、そなたにこれを贈ると約束しよう。
すなわち…
一人の女神は、力を。もう一人の女神は知恵を。
そしてパリスの選んだ女神の贈り物は…？

「君は私に何をくれるかね？」
足元で、白い悪魔が囁く。誘惑する。
せつらは三日月型に吊り上がる、悪魔の艶やかな朱唇を見詰めた。
林檎の代わりに彼が得たいと望むもの。
それは。
「…この世で一番美しい人を、そなたに」
腰を折り、メフィストに顔を寄せ囁いた。
メフィストの瞳が細まる。
「喜んで、頂戴しよう」
手首を優しく強く引かれ、せつらは畳に膝を突く。
手から落ちた林檎が、コロコロと畳を転がった。





＊＊＊終＊＊＊





2013/3/22



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拗ねる幼な妻、経験豊富な超歳上の夫に余裕で丸め込まれる、の巻(≧∇≦)
…いや、陸様とのやり取りの中で「陸様のせつらは、初々しくて幼な妻のよう」という話が出まして(てか、私が言い出したんですけど（^^;)自分で言ったその言葉に、すっかり脳を侵食されました(爆)スイマセン。
次からは立て直して、もう少しまともな話を書きまーす。多分…(￣▽￣;
コッパズカしいお話を、最後までお読みくださりありがとうございましたーっ！