『Πασχα―Paskha／復活祭―』
 しらゆき








目を開けて最初に瞳に映ったものは、鼻先に迫ったメフィストの顔だった。
思いのほか、近付き過ぎている顔にピントが合わず、僕は目を瞬かせた。
ドアップで見ても、すべすべと凹凸のない白い肌に感心する。
「せつら…」
メフィストが、額に唇を押し当てる。
それから右の目蓋、左の目蓋。鼻の頭。両の頬にも、唇で触れる。
顔中にキスをする。
こいつの唇はいつも、ふっくらと柔らかくて、少し冷たくて、心地好くて…
そして少し擽ったい。
メフィストが顔を上げる度に、長い髪がさらさらと首を擦る。
これも少し擽ったい。
避けようにも、両頬ともに白い掌に挟み込まれ、頭が動かせなかった。
「メフィスト、擽ったい」
のんびりした口調で文句を言うと、唇が降ってきて口を塞がれた。
抉じ開けるように蠢く熱い舌を受け入れながら、なんでいきなりこんな状況になっているんだ？と考えていた。

―僕は戸山住宅の地下の石室にいた筈だ。
三日間。
その約束で石室に入り、石柩の中で眠りについた。
それなのに、何故ここに？

目覚めてから、メフィストの顔しか見てはいないが、ここが何処だかは、糸で探らなくとも空気で分かる。
ここはメフィスト病院の特別室。
病院にいるということは…
石柩にいた僕の身に、何か問題が起きたのだろうか？
そもそももう三日たったのか？
時間の感覚が麻痺し、今がいつだか分からない。
石柩に入ってから以降の記憶が、全く頭に残っていなかった。

＊＊＊

考えに沈んだ僕を他所に、咥内を好き勝手に弄っていた舌が、上顎をざらりと舐めた。
ぞくぞくと身体中に拡がる甘い痺れに、何も考えられなくなる。
僕は思考を放棄した。舌を絡ませる。
それは蜜のように甘く溶け合う。劣情に流される。
その時、メフィストと瞳が合った。
少し驚いた。

常にツンと澄まし、恐らく世界が滅ぶ瞬間でさえも冷静に見続けるであろう、冴えた黒曜石の瞳が、不確かに揺れている。
しげしげと覗き込んでみれば、瞳に浮かんでいるのは…
嫉妬？切なさ？焦り？哀しみ？苛立ち？
冷徹が掟の魔界医師には相応しくない感情が、混沌と渦巻き、今にも溢れ出してきそうだ。
普通の人が見たことのない、こいつの姿を一番見ているであろう僕でさえ、こんなに不安定なメフィストを見るのは初めてだった。

「なにがあった？」
近付く朱唇を掌で押さえ、訊ねる。
メフィストは眉を顰め、僅かに頭を垂れた。しなやかな黒髪が表情を隠す。
そのまま額をコツンと、僕の肩に当てた。
「覚えていないのかね？」
錆びた鉄のような声が囁く。
吐息が首を擽る。
「覚えていないか？夜香の首を斬り落としたのも？私を四つに斬ろうとしたことも？」
「…っ?!」
夜香の首を斬り落とした？メフィストを四つ切にしようとした？
"僕"もしくは"私"がってことか??
…全く記憶にございません、と政治家みたいな言い訳をするしかない。
茫と霞む記憶を辿っても、やはり何一つ思い出せない。
ふと、気になった。
「夜香は？大丈夫？」
…まぁ、夜香なら首の一つや二つ、ちょん切っても平気だろうけど。

夜香、と口にした瞬間、メフィストが身体を硬くした。
「…気になるかね？夜香のことが」
ゾワッと鳥肌が立つ。
地を這うような声というのはこういう声か、とぼんやり思う。
何か地雷を踏んだらしい、と気付いた時には大抵もう手遅れだ。
白い手が、タートルネックの首元を、グイっと押し下げたかと思うと、メフィストがいきなり僕の首に噛み付いた。
ビックリして、身体がビクンと飛び跳ねた。
ギリギリと薄い皮膚に歯が喰い込み、眉根が寄る。
喰い千切る気はないらしく、皮膚が破れる前に顔は離れた。それでも歯形は残っているだろう。まだチリチリと痛む。
「メフィスト…？なにがあった」
もう一度、訊ねた。
こんなメフィストは初めてだ。
メフィストが、僕の身体に傷を付けたことなど、今まで一度もなかった。
いつもその細く長い指で、大切に大切に、壊れやすい硝子細工を扱うように僕に触れ、僕が指先に負った小さな傷にさえ、綺麗な眉を顰め悲しんだ。
それなのに…？

いつの間にか上衣が剥ぎ取られ、僕はメフィストに組み敷かれていた。
鎖骨に歯が立てられる。
「メフィスト…っ」
白いケープを纏ったままの肩を、両手で押し返すがビクともしない。
全身ほっそりしているくせに、なんて馬鹿力だ。
手足をじたばたさせケープを叩くと、煩いとばかりに手首を掴まれ、シーツに押し付けられた。
足も膝で上手く押さえられてしまい、全く身動きがとれない。
「おーい、メフィストってば」
唯一、自由になる口と目を動かし、精一杯、白い顔を睨む。
メフィストは、ちらっと上目で僕を見ただけで、何も言ってはくれなかった。
…本当に四つ切にしてやろうか。物騒な思いが胸を過ぎる。
その途端、横っ腹に噛み付かれ、息を呑んだ。
上下の歯に挟んだ柔らかい皮膚を舌が舐め、ちゅうっと吸い上げる。
痛みだけではない刺激が、背筋を走る。
「…ぅんあっ」
思わず変な声が洩れ、周章てて口を噤んだ。
やがてメフィストの唇が、舌が、身体を這い回り、肌に歯形が残る度に湧き上がる快感に、声なんてどうでも良くなる。
メフィストはいつもより余裕がなく、ただひたすらに僕を求めた。
激しく揺さ振られ、頭の中が白くなる。閃光が走る。
「どっちだね、せつら…？」
切なげになされた、質問の意味を問う前に、僕は意識を手離した。

次に目を開けると、散々乱れたシーツもそのままに、部屋には僕しかいなかった。
…いつもは頼みもしないのに、勝手に僕を風呂まで連れて行って、フワフワの泡だらけにするくせに。

いつもと違う態度。いつもと違う振舞い。
いつもと違うメフィスト。

僕の覚えていない時間に、一体なにがあったのだろう。
いくら考えても、さっぱり記憶は蘇らない。
後で夜香に聞いてみよう、と身体を起こした。
―手首にぐるりと赤黒い痣。身体中に残る歯形とキスマーク。
あいつは歯形まで綺麗だ、なんて思いつつ、ぼんやりと自分の身体を見下ろす。
あまりの惨状に溜息が出た。

…やり過ぎだよ、メフィスト。

＊＊＊

シャワーを浴び、服を着る。
しばらく待ってみても、僕の主治医たる院長先生は戻ってこない。
仕方がないので、勝手に退院することにした。

扉を開けて、廊下に出た。
振り向いた瞬間、背後に気配を感じ、咄嗟に糸を放つ。
糸がそれを切断する前に、腰に巻きついた腕で誰だか分かった。周章てて糸を引き戻す。
「わぁ。ビックリした」
「せつら…」
背後から抱きつかれ、ふわりとケープに包まれた。
「いきなり後に立つな。斬るところだった」
「ああ…すまない」
何となく元気のない声に、首を傾げ思い切り振り返って、背後のメフィストを見詰める。
メフィストは睫毛を伏せると、僕の首筋に顔を埋め
「すまない」
と再び囁いた。

腰に緩く巻きついていた腕が片方持ち上がり、白い掌が首を這う。
掌は徐々に下方に向かい、鎖骨、胸、腹、と身体中を隈なく撫でる。
擽ったくて身を捩るが、もう一方の腕が腰をしっかり抱き寄せ、逃げられない。
最後に手首をそっと撫で、メフィストは僕を解放した。
「メフィスト」
くるりと振り返ったとき、もう白いケープ姿はどこにも見えなかった。

＊＊＊

家に帰ってみると、手首の痣も、歯形もキスマークも、跡形なく綺麗に消えていた。
少し寂しく思う自分がいることに気付いて、苦笑する。

明日。たまには焼きたての厚焼き煎餅を持っていってやろう。そう思った。





＊＊＊終＊＊＊





2013/4/5



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ブルース幻舞の章『復活祭』、もうもうインパクト凄すぎです！！！本当、どこの同人誌ですかっ?!って、公式ですか。そうですか。
大体、Dr.＋夜香とかって、その時点でもう超俺得っ(≧▽≦)実は私は、せつらより夜香ちゃんが大好きです♪
『復活祭』の後、夜香がDr.に苛められていないかが心配…ま、夜香は打たれ強いから大丈夫でしょうが(笑)毎度、見事なやられっぷり！
お読み下さりありがとうございました！