『νουμηνια―numenia ／新月―』
 しらゆき








…メフィストに見せたら、怒るだろうな。

コートの肩に手を当てて、せつらは溜息を吐いた。
裂けた生地から覗く素肌に指が触れ、眉根を寄せる。
ヒリヒリと痛む。
恐らく火傷だろう。
目の前の血溜まりで、すでに細切れの肉片となっている男の武器は、電磁鞭だった。
避け切れず、肩に受けた鞭がしなり、背に火傷を残したのだ。

背中に腕を回し、恐る恐る傷を確認する。
「…っぅ」
左肩から右腰骨にかけて袈裟懸けに一筋、背中の皮膚が焼けているようだ。
想像していた以上に大きな傷痕。せつらは桜色の唇を僅かに歪めた。
もう着られないから適当で良いか…と、黒衣の裂け目から白い肌が見えない程度に糸で乱雑に縫い合わせ、次にその糸を宙に飛ばし、病院へ向かった。

＊＊＊

受付で診察を申し込んだせつらに、頬を真っ赤に染めた受付嬢は
「院長室へ、とのことです」
どこかに連絡をとった後、小さな声でそう告げた。
「ありがと」
いつものように案内を断り、せつらはコートを翻し、奥へ続く廊下へ足を向けた。
その肩にキラリと煌めくものが見えたような気がして、受付嬢は思わず声を上げた。
「あ、あの…」
「はい？」
のほほんと振り向くせつらに、首筋まで赤くしながら
「あの、肩に糸屑が…」
受付嬢は、せつらの左肩を指差した。
「へぇ…君、目がいいね」
せつらは軽く目を見張り、太平楽の美貌にニッコリと笑みを刻んでみせた。
受付嬢が絶句し、後ろに倒れ込む。
「あ、ちょっと…?!」
周章てて支え、駆け付けた看護師に彼女を任せながら
「…メフィストにバレたら、怒るだろうな」
と胸中で一人ごちた。

しかし病院内で起きたことが、院長先生の耳に入らないことなど、ある訳がないのだった。

＊＊＊

自分でもよく分からない道順で廊下を歩き、それでも迷うことなく〈院長室〉に辿り着く。
そのことを疑問に思ったりはしない。
ここは魔界医師の城なのだ。不思議なことは山ほどある。いちいち気にしていたら、身がもたない。

いつものように、せつらはノックをせずに扉を開けた。
「診察、お願いしまーす」
のんびりと中にいる医師に声をかける。
黒檀のデスクに広げていたカルテから目を上げたメフィストは、せつらを見て黒瞳をスッと細めた。
「そちらに」
すっと伸びた白い繊指が、ソファーを指差す。
「はーい」
言われるまま、せつらは素直にソファーに、腰をおろした。
白いケープが近付く。
「傷は？」
コートの肩に長く美しい指を這わせ「ひどい縫い方だな」と呟いたメフィストを軽く睨み、せつらはコートを脱ぎ捨てた。
上半身の服も脱ぎ、生まれてから一度も陽に焼けたことのない、真っ白な背中を医師に向ける。

新雪のように白く染み一つない透き通る肌に、斜めに長く、赤黒く焼け爛れた筋を認め、メフィストは大きな溜息を洩らした。
「まったく。肌に傷をつけるなと、何度言わせれば、気が済むのかね？」
「…僕だって、好きで傷をつけている訳じゃない」
せつらが薄桃色の唇を小さく尖らせた。
「痛い。早く治せ、薮医者」
「…その薮医者に毎回治療をせがんで、ツケを溜め込んでいるのは、他でもない君だがね」
メフィストが白い掌をそっと、せつらの肩の傷痕に被せた。
ゆるゆると、傷に沿って背中を撫で下ろす。
腰骨の上まで辿り、繊手を離すと傷は綺麗に消えていた。
ヒリヒリとした火傷特有の痛みがなくなり、せつらは背後を振り返り、能面のように無表情な医師に、ニッコリと極上の笑みを贈る。
「ありがと」
見る者の心をほんわかと解かすような小春日和の笑顔を、メフィストは厳冬のように冷ややかな目付きで流し見た。
「…なんだよ？」
「そんな風に、誰彼構わず愛嬌を振り撒く暇があるのなら、糸の使い方でも練習したらどうだね」
突き放すような口調。さっきの受付嬢のことを言っているのだとピンと来る。
氷点下の視線で射られ、心臓が凍りつきそうだ。
せつらは胸を押さえて目蓋を閉じた。
「愛嬌なんて振り撒いてない…おかしな目付きで僕を見るな」
途端に、メフィストの黒瞳が妖しく光ったのを、目を伏せたせつらは見ていなかった。

「糸を」

徐に白い繊手を差し出したメフィストが、事務的な口調でせつらに告げた。
「は…？」
「糸を全て出したまえ」
せつらは怪訝そうに柳眉を寄せ、魔界医師を見詰めた。
相変わらずメフィストは無表情で、感情が読み取れない。
「さあ、早く」
一転優しい口調で促され、せつらは思わず両手の糸をメフィストの掌に乗せた。
白い掌の上で、微かな煌めきを放つチタンの糸束を、メフィストは満足げに眺めケープの中に仕舞い込んだ。
そして真紅の唇の両端を、きゅうっと吊り上げる。

次の瞬間、部屋の明かりが全て消え、部屋は闇に包まれた。

＊＊＊

「あ、停電…？」
突如として訪れた闇の中で、せつらは間抜けな声を上げた。そして、おかしいと気付く。
昼夜を問わず、常に天窓から室内を照らしていた蒼白い光までも消えている。
どんなに目を凝らしても針の先ほどの光もない。
夜目が効く筈のせつらにも、何も見えない。そのうち自分が目を開けているのか、閉じているのかさえ分からなくなってきた。
どこまでも続く無明の闇が部屋を支配していた。
直前に見た、メフィストの嫌な笑顔を思い出す。
…メフィストめ。また何かおかしなことを。

溜息を吐き、耳を澄ませた。
メフィストの気配を探るが、彼がどこにいるのか分からない。
元々、存在感は大きいくせに、気配の薄いヤツだ。意識して気配を殺されたら、もうお手上げだった。
せつらは周囲を包む漆黒に向かって、糸を放とうとし…
軽く舌を打った。
…それであいつ、僕から糸を取り上げたのか。
うっかり素直に渡してしまった自分に苦笑が洩れる。
「悪戯はやめろ、メフィスト」
のんびりした口調で文句を言いながら、耳に手を当て、耳孔に隠した糸を探り出した。

と、突然。

強い力で手首が掴まれ、後ろに押される。
甘い香りが強くなり、長いしなやかな髪が剥き出しの柔肌をサラサラと流れた。
その擽ったさに身を捩り体勢を崩したせつらは、そのままソファーに押し倒されてしまった。
頭がひじ掛けにぶつかる。
「～っう！おい、メフィス……っんあ?!」
かぷりと、耳が熱く濡れた粘膜に包まれ、身体が震えた。
軟体生物のように柔らかく蠢く舌が、耳孔を弄る。
にちゃにちゃと濡れた音がダイレクトに脳に響き、全身が粟立った。
甘い痺れが背筋を駆け上がる。
ずるり、と糸が吸い上げられるのを感じた。
反対の耳孔からも糸を回収すると、メフィストは低く囁いた。
「全て出せと言った筈だが」
「…っ?!」
せつらはビクッと肩を竦めた。
耳に吹き込まれた艶のある低い声が、やけに身体に響く。
ぞくぞくと、身体の芯が痺れるように疼いた。
視覚が役に立たない分、聴覚が敏感になっているのだろう。

「ここにもあるな」
顎を強く掴まれ、反射的に口が開く。
あっと思った時には、咥内に指が挿し入れられていた。
驚愕で強張った舌を、細く長い指が弄る。ぞわりと首の後ろの皮膚が総毛立った。
指先が舌下の粘膜を優しく掻き、糸を探り出す。
自分を取り戻したせつらが、口許に手を伸ばした時にはもう繊指は引き抜かれていた。
「メフィスト！いい加減に…っ」
振り上げた手は、ただ虚しく闇を裂く。
いつもより濃密に感じられる彼の香りに神経を集中し、位置を探った。
見当をつけて腕を振り下ろす。
髪の毛一本、白いケープの端すら、手に触れない。
苛々と、上体を起こしソファーから立ち上がろうとすると
「…そのまま寝ていたまえ」
深い海の底から響くような声が告げ、途端にせつらは身体が動かせなくなった。

さわり。

腿の内側を、手が擦る。
「…っあ?!」
布越しの刺激に、せつらの身体が大きく跳ねた。脚が縮こまる。
メフィストの手がベルトにかかったのを感じ、無理に動かした腕も、やんわりと押さえられ宥めるように口付けが降ってきた。
熱く溶け合う舌に、全身の力が抜ける。
その隙に、メフィストは器用にせつらの脚から下着ごとスラックスを抜き取った。
あやめも分からぬ闇の中、メフィストにはせつらが見えているようだった。

＊＊＊

漆黒の闇に裸身を晒し、せつらは熱い息を吐いた。

メフィストはせつらの脚に、脇腹に、腕に、胸に、鎖骨に…
そろり、と軽く触れては、すぐに離れる。
時々、しなやかな毛先がさやさやと肌を擦り、微かな吐息とともに柔らかな唇が皮膚を啄んだ。
ねっとりと素膚を這う、舌の濡れた感触に背筋が粟立つ。

目を凝らしても白いケープも見ることが出来ない暗闇の中で繰り返される、戯れのような愛撫にせつらは徐々に追い詰められていった。
次にどこに触られるのか分からず、肌がピリピリと緊張する。
皮膚への軽い接触だけで、妙に身体が昂っていた。
触覚も敏感になっているのかもしれない。

肌に触れるか触れないかに浮かした掌で、メフィストがゆっくりとせつらの身体のラインをなぞった。
敏感になった肌膚が、すれすれで宙を滑る掌の熱を拾い上げ、期待に震える。
薄い上皮の下で、焦れた筋肉がピクリと痙攣した。
快感に似た痺れが、神経を侵していく。
ふと、繊麗な指先が肌を掠め、触れられた肌膚から背筋へと、ゾクゾクとした戦慄が走り抜け、せつらは身体を跳ね上げた。
「ふ…」
じりじりと上がる熱に耐え切れず、せつらは大きく身悶えた。
メフィストが、声を出さずに笑う。
「まだ何もしてはいないのだが」
「うぁ…っ?!」
熱く芯を持ち始めたそこを握り込まれ、せつらは呻き、大きく背中を仰け反らせた。
手はすぐに離れ、中途半端に煽られた熱が行き場を失い、体内を彷徨う。
欲情が脳髄を溶かしていく。
黒一色の視界に、チラチラと白い光が瞬いた。
身体が熱い。息が上がる。

「メフィ…スト…っ」
苦しくて伸ばした手にふわりと髪が触れ、せつらは必死でそれに指を絡ませた。
捕えた髪を思い切り引っぱり、引き寄せる。
「せつら、痛い」
近寄ってきた、熟れた蜜のように甘い香りを纏った声の輪郭に、両手を這わせた。

綺麗な弧を描く眉の形。ふさりと長く上向いた睫毛。
つんと通った鼻筋。ふっくらと柔らかい唇。

指でなぞり、脳裏に焼きつく面影と重ね合わせる。
顔を這う手が擽ったいのか、メフィストが小さく鼻を鳴らし、軽く頭を振った。
髪の束がつるりと、せつらの肌に流れ落ちる。
唇に置いた親指を目印に、せつらはメフィストに口付けた。

唇を触れ合わせたまま
「…ちゃんと、触れてくれ」
掠れた声で呟き、熱い舌を絡ませると、メフィストが咽喉を鳴らしてクツクツと笑った。

＊＊＊

「一体、なんだったんだよ？」

散々、焦らされ啼かされ乱された後で、いつものように連れてこられたバスルーム。
大理石のバスタブで泡だらけにされながら、せつらは常より血色良く紅く光る唇をツンと尖らせた。
「君が言った通りにしたまでだ」
「僕が？何を言った??」
首を反らせ、後ろでせっせとせつらの髪を泡だらけにしている張本人を仰ぎ見る。
張本人は涼しい顔で
「"僕を見るな"と。だから見えないよう、明かりを消した」
と、のたまった。
せつらの眉が寄る。
「そういう意味で言ったんじゃない。て言うか…」
一旦、言葉を切り、バスタブの中で腰を捻って背後を向いた。
正面からメフィストを見据え、茫とした上目使いで睨みつける。
「お前…見えてたよね？」
「さて」
メフィストが小首を傾げ微笑んだ。
揺れる黒髪に月明りが反射して、さやさやと煌く波紋が浮かぶ。
二人はしばらくの間、無言で睨み合った。

先に根負けしたのは、せつらの方で。
目を逸らすと小さく息を吐き出し、身体を戻した。
大人しく泡の中に沈み込んだせつらを見詰め、メフィストが悪戯っぽく目を細める。
せつらの耳に唇を寄せ
「…楽しませて頂いた」
たっぷりと色を含ませた艶美な声で囁いた。
せつらの頬がカッと熱くなる。
背後で忍び笑いをするメフィストの視線から逃げるように、顔をバスタブに満ちる泡で隠した。
「…僕に見えなくて、お前に見えてたら意味ないだろ」
ブツブツと呟く。
泡に埋もれ、ますます泡だらけになったせつらの髪を、目元を柔らかく緩めメフィストは丁寧にかき混ぜた。





＊＊＊終＊＊＊





2013/5/17



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新月、満月、三日月の3タイトルでエロを書いてみようと目論みまして。第一作目の新月です。暗闇ぷれいとかって、非常に美味しいシチュエーションの筈なのに、生かしきれていない感が…orz
お読み下さりありがとうございました！