『νεκταρ―nektar ／蜜―』
 しらゆき








部屋の扉がいきなり大きく開いた。
彼だと分かっていたので、大して気にもせずデスクに向かい、カルテに目を通したままで迎え入れる。
次の瞬間、耳を疑った。
それは、部屋に入ってきた彼の第一声が
「抱いてくれ、メフィスト」
だったからだ。

「…今、なんと言ったのかね？」
聞き間違えなどあり得ぬことを分かっていながら、それでも念のため訊ね返す。
返ってきた答えはやはり
「抱いてくれ、メフィスト」
だった。
手にしたカルテをデスクに置き、彼の顔をまじまじと眺めた。
そして気付く。様子がおかしい、と。
…体温37.5度。
血圧142／85。脈拍125。
全て常より高め。軽い興奮状態。
ざっと見たところ、臓器に異常はない。怪我もしていないようだ。
しかし…

雫を湛えて光る、長い睫毛の下でけぶる黒瞳も。
薔薇色に上気した頬も。
紅を注したかのように血の色が透け見える唇も。
微熱で仄かに桃色に染まった肌膚も。

まるで事後のように、婀娜めいて…
茫洋とした雰囲気は"僕"であるにも拘わらず、目を逸らしたくなるほどの凄艶な色気を全身から放出していた。
こんな状態で、彼が外から来たのかと思うと軽く頭痛がし、小さく溜め息を吐いた。
今頃、病院は大騒ぎに違いない。

ツカツカと足早に彼が近付き、背凭れに手をかけ椅子を少し後ろへ引いた。
隙間の出来たデスクと私の膝との間に、黒いコートを割り入れる。
顎を上げ、彼に問いかけた。
「せつら。どうしたんだね？」
ぼうっと、こちらを見下ろす顔に手を伸ばす。
上気した頬を撫でるついでに、目蓋を押し上げ黒瞳を確認する。
僅かに瞳孔散大。
何かおかしな薬でも盛られたのか。

と。
徐にせつらが膝に乗り上げ、腿に跨がって座った。
引き締まった尻朶が、腿の上で揺らめく。
長い腕が、しなやかに首に巻き付き、身体を寄せる。
見上げた貌に浮かぶのは…明らかな欲情の色。
腰を屈めて耳許に唇を寄せると、せつらは艶めいた声で囁いた。
「抱いてくれ、今すぐ」
耳孔を擽る吐息が熱い。
そのままパクリと耳朶が熱く濡れた咥内に食まれ、思わず彼の肩を押し退けた。

―この街の《主》として、No.1の《人捜し屋》として。
一人で峻烈に生きてきたせいか、彼は非常に甘え下手だった。
こうして抱き合う関係になってからも、それは変わらない。
構って欲しくなると、ふらりとここに立ち寄りはするものの、私が手を差し出すのをただ黙って待っている。
与えれば与えるだけ、貪欲に貪り尽くすくせに、彼は決して自分から求めてこなかった。
それが、どうしたことだろう。

眉を寄せ、彼の瞳を覗き込む。
「せつら、どう…」
みなまで言う前に、首に絡む腕に力が入り、顔が引き寄せられた。
噛みつくように口付けがなされ、柔らかい舌が咥内に侵入しようと歯列を探る。
…積極的なのは好ましいが、どうもこの状況は気に入らない。
熱く紅潮した頬を掌で挟み、強引に引き剥がした。
「ん…っ」
不満げに歪んだ唇に、チロリと覗いた舌先から唾液が糸を引く。
唇に落ちたその雫を舐めとった。
味雷に残る、妙な甘ったるさ。これには覚えがある。
…なるほど。合点がいった。

「ね…メフィスト」
愛撫をねだる猫のように、背中を丸めケープに額を擦り付けるせつらの顎を捉え、今にも溢れそうに潤む漆黒の瞳を見据えた。
濡れ光る唇を親指で軽く撫で、薄く開いたそこに口付ける。
舌を絡める。
「う…あ。んんっ」
せつらが咽喉の奥で喘ぎ、身体をくねらせた。
舌下の唾液を吸い上げると、噎せ返るほど甘い。
…やはり、な。
確認を終え、下唇を軽く啄んでから顔を離した。
「メフィスト…もっと」
うっとりと目蓋を閉じ、切なげに身を捩るせつらの肩を押さえ、問う。
「君はどこで"淫霧"を拾ってきたんだね？」

＊＊＊

「…いん、む？」
甘い吐息交じりに、せつらが問い返した。
伏せた長い睫毛が細かく震え、ゆるりと開く。
睫毛の下で、焦点の合わない真っ黒な瞳が揺れる。
「君の体内には、淫霧が入り込んでいるようだ。どこで接触した？」
瞳を見詰め、幼子に言い含めるように、ゆっくりと繰り返した。

"淫霧"は、ごくごく稀にしか発生しない、霧状の妖物だ。
皮膚から人体に入り込み、粘膜に定着する。その際、独特の甘い分泌物が生ずる。
今のせつらの咥内のように。
分泌物は、淫心を刺激するフェロモンを含んでおり、淫霧に入り込まれた人は激しい劣情に襲われるのだ。
ただ劣情が満たされると、淫霧は体内で自然消滅してしまうので、放っておいてもそれほど害はない妖物だった。

…淫霧を体内から溶かし出す薬なら、簡単に調合出来る。
腿の上からせつらを退けようとした時、桜色の唇が「メフィスト…」と小さく呟いた。
せつらがきつく目蓋を閉じ、激しく首を振る。
光を振り撒きながら、黒髪が乱れた。
「…っ。もう頭……おかしく、なりそうだ」
ぐっと私に身体を預け、肩先に顔を埋める。
首にかかる息は、先程よりも温度が上がっている。
そして、より濃密に甘美な香りを漂わせていた。
「メフィ…スト……早、く…」
火照った指先が私の手を掴み、自らの下腹部へと導く。
黒のスラックスの上からでも、そこがすでに硬く形を変えているのが分かる。
触れているだけで何もしない私に焦れたように、せつらが腰を揺らした。
チロと舌を出し、ぽってりと紅く充血した下唇を舐める。
そして
「お前が欲しい」
吐息混じりの甘くとろけるような声で囁いた。

思わず、咽喉が鳴った。
…彼が自分から愛撫を求めるのは初めてで、彼の口からこんな直接的な言葉を聞くのも初めてだ。
もう少しこのまま眺めていたい、と思うほど、欲情に身悶えるせつらは、ひどく淫靡で美しい。

「…治療をするのが惜しくなるな」
目を細め、汗ばんだ黒髪を撫でる。
髪に触れられるだけでも刺激になるのか、せつらはブルッと身体を震わせた。
「メフィスト……早く…早く抱いて…くれ。もぅ…おかしく、なる…っ」
咽喉を反らせ、切羽詰まった声を上げた。
仄かに染まった眦から、つぅっと雫が一筋、頬を流れ落ちる。
「…それは楽しみだ」
睫毛に残る雫に唇を寄せ吸い上げると、やはりひどく甘かった。

＊＊＊

翌朝、朝の回診時間が間近に迫っていた私は、ベッドの上で途方に暮れていた。
「せつ…」
「うるさいっ！藪医者っ！」
毛布をすっぽり頭まで被ったせつらが、ひどく掠れた声を張り上げた。
目が覚めた途端、せつらは毛布にくるまってしまい、かれこれ一時間近く、この状態だった。

こんもりと膨らんだ毛布の中から、ケホケホと咳をする音と、「ノドが痛い…」とブツブツ言う声がする。
…あれだけ啼けば、声も掠れるだろう。
零れそうになる笑いを堪える。
今、ここで笑ったら、更に拗れるのは目に見えている。
それでも
「なに笑ってんだ、藪！」
…お見通しだったらしい。
宥めようと毛布の山に伸ばした指に、鋭い痛みが走る。
サックリと、鮮やかに斬れた指先から流れる血を舐めとり、毛布の周りをよくよく見れば…

「…せつら。ベッドに"糸砦"は不粋ではないかね」
「お前が悪いんだろ。それ以上、僕に近寄るな！僕に触れるな！」
相当、お冠なご様子。
軽く溜息を吐いた。
説得には時間がかかりそうだ。回診はダミーに任せるしかない。

毛布の山がモゾモゾと動き、くぐもった声が悪態をつく。
「人にあんな…あんな、おかしなことばっかりしておいてっ。このエロ医者！」
「君の要望に応えたまでだ。多少、調子にのったのは認めるがね」
「～っ?!く、薬があるなら最初にそう言え！」
「言いそびれた。君があまりに可愛くて」
ピタリとせつらの動きが止まる。
顔が見たい、と切に思う。
照れて真っ赤になっているであろうその顔を、想像すると頬が弛んだ。

糸に触れぬよう慎重に、毛布を囲んでシーツに手を突く。
「せつら」
「…この変態」
悪態も先程より力がない。
ゆっくりと毛布の端に手をかけると、ふわりと糸が解けた。
毛布を捲り、横向きの頬に唇をそっと押し当てる。
「すまなかった」
「…なんで謝るんだよ？悪いと思ってないくせに」
「そうだな」
覆い被さるように抱き締めると、せつらが僅かに身を捩って暴れた。
構わず抱き寄せ、顎を捉えて口付ける。
舌を挿れた咥内に、昨夜のような異常な甘さはもう感じない。
ただ微かに甘いだけだ。

昨夜の狂態が思い起こされ
「…また、どこかで"淫霧"を調達してみるか」
そう呟くと
「～～っ?!このド変態エロ医者っ!!」
せつらが思いきり、髪を掴んで引っ張った。





＊＊＊終＊＊＊





2013/11/22



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調子にのったDr.が、せっちゃんにどんなおかしなことをしたのかは、ご想像におまかせします(笑)半年前、途中で放置していたものに加筆しました。久しぶりの魔界都市は、言葉の選び方とか台詞とか、本当に難しいです…orz
お読み下さりありがとうございました！