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『覆水』
愛する人たちと共に年を重ね、穏やかに生き、そして死ぬこと。 それが、願いだった。 １． 「たぶん、これが最後のチャンスになるわ」 凪いだ琥珀の瞳が静かにルキナを見つめ、ただ事実を告げる口調がそう言うのを。言葉もなくルキナは訊いていた。 ルフレの裡には、現在と未来で邪竜の贄として捧げられた人々の魂が今も息づいている。彼女がこの世界へと帰還した時に、その肉体を構成する膨大な“闇”が抱いていた数多の魂が、そのままルフレに属することとなってしまった為だ。 それはこれからも変わらない、変えようのないルフレが抱く“業”である、筈だった。 いや。ルフレの無意識は気づいていたかもしれない。 全ての魂は最後にはナーガの元へと還さねばならない。そのことを、ルフレは識っていたのだから。 フェリアの統合王を決する闘技大会が行われたのはつい先日のことだ。 勝敗が決し、息をついたルフレが“視た”ものがあった。 ―― 静かに彼女のもとを離れ、ナーガの元へと還りゆく、淡い緑に輝くたましい。 ずっと共に ―― ふたたび語り合うことはなかろうと、共にあると。信じきっていた相手だった。それが、彼女の夫にとってどれほどの救いとなっていたのかを、ルフレはよく知っていた。 予想外の事態に。ルフレはただ呆然と、「エメリナ様」と、呼ばうことしかできなかった。 急激な喪失感に、ルフレは意識を手放した。 ひとつずつ、確実に彼女を離れてゆく、数多のぬくもりの残滓を感じながら。 説明を終え、それ以上言葉を重ねることはせず。ルフレは未来から来た彼女の娘を見つめた。 ルキナは、眉間に皺を寄せたまま、固まったように同じ表情でいる。 ルフレの話を聞くことでルキナがどれほど苦しむかなど、ルフレには分かりすぎるほどに分かっていた。それでも彼女に選ばせようと。クロムと話し合い、決めた。 二度と逢えぬと悟っていた相手に、もう一度 ―― それが、真実、最後になると分かっていても ―― 逢うことが叶うのは、彼女の救いとなる筈だから。 今すぐに手を差し伸べ抱きしめてやりたいと。思うのは自身のエゴであると、ルフレは静かに自分を律する。 ルキナは逡巡するように幾度か視線を泳がせ、一度固く瞳を閉じてから、空色の瞳で真っ直ぐにルフレを見つめ返した。 「会わせてください ―― “お父様”と、“お母様”に」 穏やかな表情でそう言ったルキナのことを、今度こそルフレは強く、抱きしめた。 アンナから手に入れた“立体映像投影”魔道書。そして、サーリャ手製の呪符。 述式には“場”も必要とされる。鏡のように凪いだ湖面 ―― フェリアの北東に位置する休火山の上に、以前は火口であった場所に水を溜めた湖がある。そこを場と定め、必要な“時” ―― 満月が中天に満ちる時刻にそれは行われることとなった。 「報酬が毎回甘いものなのも、飽きた」 明るいチョコレート色の髪を掻きながら、薄荷色の瞳を軽く眇めた盗賊が放った衝撃の発言に、その場にいた全員が固まった。 いち早く自分を取り戻したルフレがつかつかと歩み寄り、ガイアの額にべちんと手のひらを置く。 「熱は……ないわね」 「おいそれは流石に失礼というものだろう」 「皆、気をつけろ。槍でも降ってくるかもしれん」 「お前ら夫婦は揃って俺をなんだと思っている」 「クロム……どうしよう……あたし、リズになんて言って謝れば」 「―― 大丈夫だ。あいつはああ見えて腹は据わっている。これぐらいのことでは動じん、筈だ ―― おそらく、な」 「おいおいおい。話を聞け」 「……はっ。母さん分かりましたよ！このガイアさんは敵が送り込んだ密偵ではっ」 「え！？では本物のガイアさんはご無事でしょうかマーク」 「いやいやいや。ちゃっかり乗っかるんじゃねえよガキども」 聖王一家の戯れを、少し離れた位置で護衛のために同道したロンクーとオリヴィエがぽかんと見守っている。 「リズに怒られた？」 くつくつと笑みを堪えもせずにルフレが言う。 「……分かってるなら、言うな」 苦々しげにガイアが応じた。 「なんかすっかり尻に敷かれてるわよねぇ。まあ、予想通りなんだけど」 「言うなと、言ったろうが」 「まあ、あたしが妻でも怒るかしら……」 仕事の報酬が二回に一回以上の割合で、甘味だとしたら。 「王族の割にその辺りの感覚がシビアなんだよな、あいつは……」 更になにか言おうと口を開きかけたルフレを、後ろからクロムが抱きしめた。 「クロム？」 首を捻って背後を覗えば、憮然とした空色の瞳と目が合った。 「おまえは、俺の妻だ」 「………………」 ルフレが絶句する。 どこまでも本気の夫を宥める言葉を頭のなかで手繰りつつ、視界の端で笑い転げる盗賊にあとでどう報復してやろうかと、冗談交じりに考えた。 ルフレのかたちの良い唇が、サーリャに教わった通りの抑揚で、音程で、呪文を紡ぐ。 凪いだ湖面、凪いだ夜空、澄んだ真円を描く満月。ルフレの周囲にだけは柔らかく風が舞っている。 ながいながい詠唱が終わり、うごめく大気が再び凪いで。ルフレの内側から光が漏れ出すようにして。 ルキナの前に、彼らはあらわれた。 睦まじく寄り添って立つ両親の姿に、ルキナの身体が大きく震える。 「お父様……お母様……」 「ルキナ。すっかり綺麗になったわね」 先に口を開いたのは“ルフレ”の方だった。どこか冗談めかした口調で。 “ルフレ”の隣から、“クロム”がルキナの方へと歩み寄る。 「ひとりでよく、頑張ったな」 “クロム”がルキナのあたまを撫でる ―― それはルキナにあたたかな感触を与えただけで、実際に触れられたわけではなかったが ―― と、懐かしい、深い声音でそう言った。 「あたしたち、ね。ずっと ―― 見守ってたのよ。見守ることしか、できなかったけど」 再び“クロム”の隣に立った“ルフレ”の言葉に、ルキナがぽかんと目を見開いた。 ふわりと、ルキナは全身をあたたかななにかに包まれるのを感じた。目の前にある“ルフレ”の肩を透かすようにして、背後に凪いだ湖面が見えた。 「ごめんね。ルキナ」 耳元で懐かしい声がする。 「いいえ ―― いいえ。お母様……」 堪えていた涙が溢れ出す。 「愛してるわ、ルキナ」 「む。どうしておまえが先に言う。それぐらい、俺から言わせろ」 「ふふ。だってルキナを産んだのはあたしだもの」 「……それは卑怯だろう」 「ごめん」 “ルフレ”がルキナから一歩退くと、入れ替わるように“クロム”がルキナの前に立つ。 「いや ―― ルキナ」 「はい。お父様」 零れ続ける涙を隠すこともせず、ルキナは真っ直ぐに父を見つめた。 「すまない ―― もう、共には居てやれないようだ」 「ナーガ様のもとへ逝かれるの、ですね」 「ああ。そこで、俺もルフレも ―― 俺たちではなくなる」 「……はい」 “クロム”の大きな両の手が、ルキナの頬を包み込んだ。流れ続ける涙を掬い取ろうとするかのように。 「―― 愛している。おまえは、俺たちの誇りだ。これからは、胸を張って……幸せになってくれ」 「クロムはね。ルキナの花嫁姿は見たいけど、相手の男は必要ないとか。訳の分からないことを言うのよ」 「おい。ここで茶化すやつがあるか」 「―― ふふ」 ようやく笑みを浮かべたルキナに、彼女の両親も、笑みを浮かべる。 「どうか幸せに ―― あたしの可愛いむすめ」 最後にそっと、幼子にするようにしてルキナの頭を撫で。“ルフレ”はマークの方へと向き直った。 彼らから少し離れた場所で、静かにやりとりを見守っていたマークの方へクロムが歩み寄り ―― 一度だけ視線を交わし、マークの肩に“クロム”の無骨な手が置かれ。 ひとことも交わすことなく“クロム”はマークの隣を歩み過ぎた。 「マーク……あなたの道が、途切れず続くことを、祈るわ」 “ルフレ”の口調はどこまでも優しく、慈愛に満ちていた。 「あなたは ――」 二対の、琥珀色の瞳が視線を交わす。それだけで、互いの意図は汲み取れた。 「ありがとうございます……“母さん”」 マークのその言葉に、“ルフレ”は優しく笑んで応えた。 「もう。行くのね」 目前に立った“ルフレ”をルフレは静かに見つめた。 「ルフレ。あなたのゆく道に、いつか終わりがあることを、祈るわ」 「―――― っ」 言葉を失ったルフレのことを、未来の彼女は悲しむような、祈るような表情で見つめていた。 「行こうか ―― 半身（とも）よ」 “ルフレ”の背後から、クロムとの会話を終えた“クロム”が声をかけた。 「ええ」 心から満たされたものの笑みを浮かべ、“ルフレ”は“クロム”の手を取った。 降り注ぐ柔らかな月光に優しく溶かされてゆくようにして。 “クロム”と“ルフレ”の魂は、静かに形をうしなった。 月光の青白い光が夜道を照らすなか、彼らはフェリアの城への帰路についた。 「そういえば、アズールは元気？偶にはイーリスにも遊びに来てね。あの子達、アズールのことが大好きみたいだから」 ―― 恥ずかしがるのを面白がっている節はあるのだが。それは言わずにおく。 「はい。あの、最近は、私の真似をして踊りの練習を沢山しています。彼は……もっと剣術の稽古をつけてあげたいみたいですけど」 「―― あいつには、剣士が向いている」 「ロンクーそれ。親の願望」 「む……」 「ふふ。ルフレさんはそうやって、考えをきちんと言葉にできるから、羨ましいです……」 オリヴィエの柔らかなもの言いに、ルフレが微かに目を見張る。 「いや。四六時中ぽんぽん言われると、流石に堪える時はあるぞ……」 「まぁ」 「クロムあたし……あれでも思ったことの十分の一ぐらいしか、言ってないわよ」 「知っている」 「お前たちは ―― 相変わらずだ」 「はい。本当に」 相変わらず、と。そう言われた瞬間にルフレの瞳に痛みのような彩が流れ ―― すぐに彼女は驚愕に、琥珀の瞳を見開いた。 夜空の中心を主張する満月のように、ルフレの瞳が瞬時に黄金色へと変じる。 なにも、どこにも敵など居ない筈なのに。 全身が総毛立つ、言いようのない感覚に。 ルフレは咄嗟に身体をひらき、クロムのことを護ろうとした。 彼等の目の前に突如、鮮やかな青に輝く魔法陣が出現した。 ―― ギムレー教徒たちが使う黒紫色ではなく、ナーガの信徒たちが行使する、青と銀の光に満ちた、転移の魔法陣だった。 間に合わない ―― ルフレはそう思った。 数瞬早く異変に気づいたのはルフレだけだというのに。彼女の位置からではクロムを庇えない。 ―― クロムっ 護らなければ、と。根源的に思うルフレの願いは、皮肉なかたちで叶った。 刃は、はじめからルフレ一人を狙っていたのだった。
2013/4/5
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