『覆水』





２．

　それは確かに油断ではあったのだろう。いや、ゆきすぎた信頼か。
　彼らはルフレの類稀なる勘と、索敵能力をいつの間にか、頼みにしすぎていたのだ。
　ルフレにも読み誤ることはあるというのに。
　ルフレの失策は、なんであったろうか。
　転移の術を持つ者の存在を見誤ったことであったかもしれない。それは彼女の知識においては、本当にごく少数の ―― ギムレー教の高位の司祭と、イーリス教の斎宮しか知りえない筈の術であったから。

　ストップモーションのようにして。
　突如あらわれた刺客の刃にルフレの心臓が貫かれるのを、クロムはただ呆然と視界におさめた。
　時が、ふたたび流れ出す。
「ルフレっ」
　引き抜かれた刃の先から噴き出す血潮に導かれるようにして、ルフレが地面に崩れ落ちた。
　弾かれたようにルフレのもとへと駆け寄るクロムには目もくれず、血にぬれた刃もそのままに暗殺者がクロムとすれ違う。転移の魔法を行使して暗殺者を導いた今一人の刺客 ―― 魔道師の足元で、ふたたび青銀の光が展開され。
　ふたりの刺客はそこで、ちらりと彼らの“成果”に視線を送り。
　時が、ふたたび凍りついた。

　立ち竦むクロムの目の前で、ルフレの身体は淡く輝く黄金色の燐光に包まれていた。
　左胸から背中までを貫通する傷口からこぼれ出すようにしてルフレの全身を取り巻いた輝きが爆発的に光度を増して、一瞬、その場に居た全員の視界を奪った。
　熱のない、ただ眩しいだけの光が徐々に引き ―― それは、ルフレの傷ついた左胸に収束したように見えた ―― 視界が晴れた先で、クロムは、それを見た。
　突き破られた黒の外套から覗く肌に傷はなく、血も、溢れ出ることはない。
　ルフレの力なく垂らされていた指先が微かに震え、穴の空いた血まみれの黒衣の胸元が上下した。

　ぼんやりと覚醒したルフレが最初に目にしたのは、彼女の夫の顔だった。
　ルフレが一度も目にしたことがないような。恐怖そのものを表情に貼り付けて立ち竦むクロムの姿を目の当たりにして、ルフレの顔が絶望に歪む。
　そのまま。ルフレの意識は落ちるようにして深い眠りに浚われた。「化け物」、と。彼女を貫いた凶刃の持ち主が呆然と呟く声を遠く聞きながら。



　　　◇◆◇



　ルフレが目覚めると、見知らぬ部屋の天井が目に入った。
　ゆっくりと、記憶をたぐる。
　―― 心臓を突き破られた衝撃と激しい痛み。
　あれが、夢だとは思えない。
“もう、死ぬこともできなくなったの、ね”
　意外なほど心は静かだった。
“クロム…ルキナ、マーク”
　愛する夫と子供たち、そして生死を共にしてきた自警団の仲間たち。自分を快く思わない人間が多い中、それでも優しくしてくれた数少ない、大切なイーリス城の人々。
　もう、二度と会うことはない人々の顔を順に思い出す。忘れることのないように。
　―― 誰も居ない。今のうちに。
　早く、ここを出ていこう。もう二度とイーリスに帰ることはできない。
　素性の確かでない自分でも、ペレジア前国王の娘であろうと、邪竜の血を継ぐものであろうとも、イーリスの人々は受け入れてくれた。
　だが。
“王妃が化け物だなんて、冗談みたいな話よね”
　なによりも。
　心臓を貫かれた傷が癒えて目覚めたルフレを見たときの、クロムの、あの目。もう一度あの目に見つめられるぐらいなら、二度と会えない方を選びたい。
　誰よりも愛する夫の口から、それが真実だとしても、化け物、と聞くことにルフレは耐えられそうもなかった。
“もっと早くに、彼の前から消えるべきだったのに…”
　どうしても、できなかった。
　昔、半身だと言ったことがある。
　いまは、それでは済みそうもない。
　クロムはルフレの全てだった。
　彼を失うことは、彼女の魂が死ぬことに等しい。

　まだふらつく身体を起こし、音をたてないようにそっと床に足を下ろす。
　素足にひやりとした床の感触。
　意識がない間に着替えさせられたのだろう。血ひとつない、彼女自身の着替えをルフレは身につけていた。
　一瞬、すべてが夢だったのではないかと錯覚する。
　そっと、ルフレの指先が自らの胸の中心に触れた。僅かにチリチリと、痺れに似た感覚が渡る。再生した皮膚はまだ薄く、触れると違和感があるのだった。
　知らず溜息が漏れた。寝台の傍らに置かれていた長靴を身につける。
　扉から出ると誰かに出会うかもしれない、そう考えて窓の方に向かう背中に声がかけられた。

「どこへ、行くつもりだ？」

　彼女が聞き間違う筈のない、いま一番会いたくない人物の声。
　振り向けずにいるルフレの近くまで歩み寄ると、クロムは彼女の肩を掴んで無理矢理振り向かせた。
　クロムが目にしたのは、静かな光をたたえたルフレの琥珀色の瞳だった。
「離して、クロム」
「どこへ行くつもりだったと聞いている」
「―― どこでも」
「なに？」
「あなたが居ない場所ならば、どこでも良いわ」
　目を逸らし、感情の籠らない声が言った。
　ざわりと、クロムを取り巻く空気が変わった。冷たく燃える蒼い焔が彼を包む。
　乱暴にルフレを抱き上げると、彼女が先ほどまで横たわっていた寝台に放り出した。
「―― っ」
　落下の衝撃に顔をしかめるルフレを閉じ込めるように、クロムが両脇に手をついた。
　ぎしりと、二人分の体重を受けて寝台がきしむ。
　逃れようとするルフレの両手を捉えると、首筋に顔を埋め乱暴に口づけた。
「―― っ、あ」
　首筋をきつく吸われ、ルフレが傷みに顔をしかめる。
　鎖骨に沿って舌を這わせると歯を立てた。
　ルフレの身体が大きく震えた。
　クロムを押しのけようともがくルフレの両手を頭上で器用にまとめ、左手だけで押さえつける。
　無理やりに口づける。強引に歯列を割って舌を滑り込ませ、口腔内を蹂躙する。絡め取ったルフレの舌を捕らえるように吸い上げると、もう一度、ルフレの身体が大きく震えた。
　執拗にキスを重ねる内に、ルフレの抵抗が次第に止んで。
　ルフレを押さえつける拘束は全くゆるめぬまま、クロムはゆっくりと身を起こした。
　怒りをふくんだ深青色の瞳が捉えたのは、涙に濡れた金の輝き。上気した頬に右手で触れると怯えたように肩を震わせた。

「何故、俺のもとを去ろうとする」
　激情を秘めた瞳が青い焔を噴き上げるようだ。
「俺に ―― あの苦しみをまた味わえと言うのか」

“どうしてこの人は平気で自分に触れられるのだろう”
　不思議なほど冷静な頭でルフレはそう思った。
　あの、光景を見た筈なのに。
　一度は恐ろしいものを見るような目で、自分を見ていた筈なのに。
「―― ルフレ！」
　何も言えずにいるルフレに業を煮やしたのか、クロムが苛立った声をあげる。
「あたしのこと ―― こわくないの？」
「なに？」
「聞こえたのよ、『化け物』って。知らない声だった……たぶん、あたしを『殺した』刺客が言った」
「ルフレ……」
「その通りだわ。クロムも、そう思ったでしょ？あたしはもう、人間じゃない。命を終わらせることもできない化け物なの。だからイーリスにはもう帰れない」
　クロムの隣にはもう居られないのよ、そう、静かな声が続ける。
　クロムが殊更ゆっくりとため息を吐き出した。押さえつけていたルフレの両手を解放し、そっと、愛おしむようにしてルフレの頬に両手を添えて、触れるだけのキスをした。
　ごく至近距離で、空色と琥珀色の視線が交わる。
「おまえの言うことはいつも概念的で難しい」
　苦笑混じりにクロムが言った。
「―― え？」
「愛している。俺はおまえを手放す気はない」
　クロムの言葉に一時、ルフレの思考活動すべてが停止した。
「ルフレ。おまえはどう思っている？」
　きゅ、とルフレが固く瞳を閉じる。小さく肩が震えている。彼女にしては珍しい、激しく動揺する気配。
　しばらくして、ルフレはそっと目を開けて、クロムの様子を覗った。
「だってあの時……」
「俺がどんな顔をしていたのかは、自分ではよく分からんが ―― 驚きはした」
「ちがう。クロムは怖がってた」
「そうか？……ああ。そうかもな」
「ほら」
「おまえをもう一度喪う ―― しかも突然に、あんな形で喪うかもしれなかったんだ。確かに、ひどく恐ろしかった」
　ふたたび、クロムがルフレに優しく口づける。
「だが、それだけだ。おまえが言うような意味で、俺はおまえを恐れたりは決してしない。信じられないか？」
「―― 嘘じゃ、ないのは分かるわ。でも」
「まだ『でも』があるのか……」
　クロムが僅かにうんざりする気配。
「皆がそう思うとは限らない。あたしが、イーリスの王妃に相応しくないことに変わりはない」
　静かに、とても綺麗にルフレは微笑んだ。
「だからクロム、ここで、別れましょ ―― っいた！」
　ぱちんと、小気味いい音がした。クロムの指がルフレの額を弾いた音だった。
「おまえは俺の話を聞いていたのか」
　苛々と、クロムが言う。
「クロムこそ、あたしの話、ちゃんと聞いてた？」
　負けじと苛々とルフレが返した。
「諦めるにはまだ早いと言っている」
「もうどうしようもないことなのよ？」
「一人抱えて悩んでいたようなやつに言われたくはないな」
「あたしがっ、どれだけ悩んだかも知らずに ―― 何度、離れようとしてできなかったかも知らずにっ」
「なら、ずっとこのまま俺の隣に居れば良い」
「それはもう、叶わないことなの！」
　じりじりと、互いに視線を外さず睨みあう。
「神竜の巫女が、目覚めたそうだ」
　ぽつりと、クロムが切り札を見せた。
「―――― え……だって、ナーガと同じく眠ったままだったんじゃあ」
　ルフレが僅かに動揺する。
「おまえが倒れた後にマークから聞いた。つい先日のことだそうだ」
「チキが、何か方法を知ってるとは、限らないわ」
「そこに僅かでも可能性がある限り、諦めないのがおまえの信条じゃなかったのか？」
　クロムはそっとルフレを抱き起こすと、腕の中に閉じ込めるようにして抱き寄せた。
「クロムも……来るの？」
「あたりまえだ。おまえに逃げられては敵わんからな。バジーリオとフラヴィアに、もう船の手配は頼んである」
　はあ、と隠しもせずため息を吐き出したルフレの顔を真正面から覗き込み、クロムがきっぱりと宣言した。
「ヴァルムへ行く。異論は許さん」
　ルフレには最早、諸手を挙げて降参する以外の策は残されていなかった。






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2013/4/15