『覆水』





８．

　風が、静かに渡った。
　ルフレの黒髪がなぶられて流れ、クロムの白いマントの裾が舞った。
　クロムの胸中は激しい葛藤のなかにあった。国と、最愛のただひとりと。本来比べてはならない筈のふたつのものが、彼の心を裂く。
　そんな夫の胸中を見透かすように、ルフレは静かに微笑み、佇んでいた。なにひとつ言葉をかけようともしない。ただ、クロムの決断を待つ表情だった。
　いつしか人々の狂ったような叫び声もやみ、微かに吹くそよ風もやみ。痛いほどの静寂に群衆の誰かが再び叫び声をあげようとしたころ。
　クロムが、ファルシオンを構えた。
「すまない。ルフレ――」
　搾り出すような悲痛な声音にルフレは微笑みを崩さずひとつ頷き返して、
「ありがとう、クロム」
　硝子のように澄んだ声音でそう返した。
　感情の廃された空色の瞳にもう迷いはない。
　一度、切っ先が引かれて。踏み込む足へと重心が移る流れのままに剣が鋭く突き出された。
　ただの一撃で正確にルフレの胸の中心を貫いて。震える手でファルシオンは引き抜かれ、ぽかりと開いた傷口からはあかい血液が溢れ続ける。
　投げ出すようにファルシオンを地面に突き立てて、クロムはくずおれるルフレを抱きとめた。
「クロ、ム……」
　心臓を突き破られてもなお、言葉を発する猶予が与えられたのは、竜として目覚めた身体ゆえだったろうか。
「こんなこと、言うの、ワガママだって……分かってる、けど」
「なんだ」
「あたしのあとに……誰かを、奥さんにしないで、くれたら。嬉しいな……なんて」
　無理なはなしよね、と、苦しげに笑った。
「……おまえは時々どうしようもなく馬鹿だ」
「なっ。なによそれ」
「当たり前だろうがっ。おまえ以外の誰に俺の妻がつとまる。おまえ以外の誰を俺に愛せというんだっ」
　きょとりと見開いた琥珀色の瞳が、泣き笑いのように細められ、
「――あいしてるわ」
　クロム、と。ゆっくり確かめるように口にして。ルフレは穏やかに瞳を閉じた。
　クロムは力尽きたように膝をつき、もの言わぬルフレの身体を強く抱きしめた。

　数刻の後。
　ルフレの身体は王妃の間にあった。傍らにはクロムと子供たちが、周囲にはかつて自警団の一員として共に闘った仲間たちが居た。
　ルフレの血に濡れた身体は女たちによって清められ、今は花嫁のような純白の衣に身を包まれていた。
　クロムの指が愛しげにルフレの頬を撫でる。
　三歳の誕生日を迎えたばかりのマークの手を、五つ年上のルキナが握っている。ちょうど、エメリナが即位したときと同じ年にルキナはなっていた。訊ねたいことは沢山ある筈なのに、子供たちは雰囲気に呑まれたように黙ってそこに立っていた。
　子供たちだけではない。皆、言葉を失ったようにして、黙してそこに佇んでいた。
　リズが、困ったように隣を見上げた。気配に気づいてリズの方を見たガイアと視線が合う。
　――仕方ねえな。
　ガイアの苦笑混じりの緑の瞳が、そう言ってくれたように見えた。
　リズがクロムの方へ進み出る。肩の力を抜き、息を吸った。
「お兄ちゃん……炎の台座をあたしにちょうだい」
　ルフレだけに向けられていたクロムの視線が、リズの方を向く。
「なにを、言っている？」
「炎の台座を、あたしにちょうだい」
　クロムを見据える翠の瞳には、迷いはない。
「あたしが――聖王を継ぐ」
「リズ……」
「お兄ちゃんはもう、今までと同じようにはイーリスを愛せないでしょう？ルフレさんを殺したイーリスを」
「だからといって」
「だから。あたしが聖王を継ぐ。ルキナがもう少しだけ大人になるまで、あたしがイーリスを守るよ」
「…………覚悟は、あるのか」
「あるよ。聖痕を持たないあたしが聖王になることを認めない人も沢山出てくるだろうけど。あたしは負けない。お姉ちゃんとお兄ちゃんが守ってきたこの国を、ちゃんと導いてみせる」
　クロムはまだ何か言葉を重ねようとして、リズの真っ直ぐな瞳に言葉を失い。ただ、すまない、とだけ言った。
　リズの差し出した手にクロムが炎の台座を渡す。五つの宝玉がかすかに光を放った。

　重臣たちが召集され緊急の朝儀がひらかれたのは翌日のことだった。
　謁見の間に集められた人々は、玉座に座る王妹の姿に息を呑み、その傍らに佇む聖王の凄惨な気配に息を止めた。
　嵐のような数日の出来事に未だ自分を取り戻せずに居た人々を更なる混乱の渦へと落としながら。すべての発表は宰相の口から淡々となされ、異論を差し挟む隙を与えず朝議は進められた。
　そうして、イーリス聖王国の永きに渡る歴史の中で唯一の、聖痕を持たぬ聖王が――女王が誕生した。
　在世中は常に穏やかな治世を敷きつづけた彼女は、特に市井での人気が高く。聖王エメリナと並んで慈悲深き名君として名のあがる人物だったが。一部の歴史学者――同時に敬虔なナーガ信者でもある――の記した書物には、異端の偽王であると、希代の悪女として。いっそ清々しいほどに悪し様に描かれている。
　最後に宰相はクロムに向けてこう言った。
「“もと”聖王陛下。あなたに国外追放を申し渡します。ルフレ様を、王妃に迎えた咎への罰として。――ご安心ください。王子と王女に罪はございません。邪竜といえど神。死することによってルフレ様の存在はいずれ神格化されましょう。なればお二人が聖王家の血筋に連なることに異論を唱える者もおりますまい」
　異論など唱えさせはしない、と宰相は言っているのだった。
　一度も口を開くことのなかった前聖王は宰相の言葉に首肯を返し、人々の視線をあつめながら謁見の間を後にした。

　この日も恐ろしいまでの晴天だった。丘向こうまで雲ひとつなく晴れ渡った空が人々の心を洗うようだ。
　ルフレの冷たい、もの言わぬ身体をクロムがそっと抱き上げる。そのまま馬上の人となり、丘の向こうへと馬首を巡らせた。
　その後を喪章をつけた騎士団が粛々とつづく。
　誰一人言葉を発しようとしない。静かな行進だった。
　いくつかの丘を越え、地平まで続く平原に辿り着いた時、クロムはようやく馬を止めた。そっと草地に降り立ち、自らのマントを外すとそこにルフレの身体を横たえた。
　クロムの指が愛しげにルフレの頬を撫でる。冷え切った頬を。
　草原を、あたたかな風が渡った。

　　　◇◆◇

　ふわりと流れるあたたかな風。
　運ばれてくる草の香り。
　瞼を通して感じるやわらかな陽光――
　少しずつ浮上する意識に逆らわず、ゆっくりと、彼女は目を開けた。
「こんなところで寝ていると、風邪をひくぞ」
　三度聞くことになった台詞に琥珀色の瞳が戸惑いを浮かべる。
「――っ、ルフレ」
　強くつよく抱きしめられて。ルフレは何も言えなくなった。恐る恐る、彼女の夫を抱き締め返す。これが夢ではないことを確かめるために。
「どうして……？」
「心臓が鼓動しているのは分かっていたが。このまま目覚めなかったら、と思うと恐ろしかったぞ」
　恐怖の余韻を示すように、クロムの声は震えていた。
「クロム！」
　焦れたように名を呼ばれ、クロムが苦笑する。
「叔父上の反乱のあった時、マークが使ったファルシオンの偽物、覚えているか」
「え。だってあれは折れて」
「フレデリクが律儀に回収して修理していた。何かの役に立つのではないかと」
　実際役に立ったのだから、これからはあいつの世話焼きにも文句は言えんな、と笑い混じりに続ける。
「だって、でも、剣はちゃんと炎を帯びてて」
「サーリャが協力してくれた」
　もう一度、きつくルフレを抱きしめる。
「それでも――ナーガの力を継承した俺が使う限り、おまえの命を奪わず済む確立は五分と五分だと言われた。他に打つ手がない時の、最後の手段として――できれば、やりたくはなかったんだが。希代の軍師相手ではやはりそう思い通りにことは進まんものだな。結局最悪の事態しか残されなかった」
「イーリスを、捨てたのね」
　今度はルフレの声が震える。
「――ああ」
「クロム――」
「おまえさえ、俺の手の中に残れば良い」
　少し身体を離して。空色の瞳が琥珀色の瞳を覗き込み、言った。琥珀の瞳から零れた涙をクロムの指先がそっと拭う。掬いきれなかった涙を吸うように頬に、目蓋に、そして額に――順に口づけてから。確かめるように唇に触れた。次にもう少し深く、呼吸を交わすようにしてキスをする。
　それ以上、言葉もなく。二人は静かに抱き合った。

　馬のいななきに、クロムとルフレは夢から覚めたように顔を上げた。
　瞳を見交わし、苦笑する。
　クロムが先に立ち上がり、ルフレに右手を差し出した。
「さあ、行こうか――半身（とも）よ」
　ルフレはひとつ微笑んで、夫の掌に自らのそれを重ねた。



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2013/6/25