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『覆水』
７． 窓の外で、バルコニーを叩く雨音が優しく響いていた。いつの間にか日は沈み、穏やかな春の雨が宵闇の中降り続いている。 窓に触れていた手で頬を撫でると、酒に火照った熱が奪われ心地好かった。ルフレ、と名を呼ばれ振り向く。 「サーリャ」 「もう、酔いは、醒めた？」 イーリス城の一角、来客をもてなすための室は数刻前までの酒宴の気配が未だ残滓として満ちていた。積もる話はいつまでも尽きず、茶会がいつしか酒席へと発展したのだった。 「ふふ。サーリャはちっとも酔わないのね」 「……大切な、話があるもの」 「話って、あたしに？」 「そう……」 きょとりと、不思議そうに瞬くルフレを凝っとサーリャが見つめる。 「あなたは必ず戻ってくるわ。……また、私とこうして飲み交わすのよ」 「サーリャ……」 「必ず。約束なさい」 「あー！ずるいっ。皆とだからね、ルフレさん！約束してっ」 テーブルに突っ伏して寝息をたてていた筈のリズが不意に起き上がり、まくし立てるようにして叫ぶと、再びテーブルに倒れ伏した。 気勢を削がれたサーリャとリズを見比べて、ルフレがくすくすと笑い出す。 「ねえ、サーリャ。それは呪い？」 「―― そうよ。言の葉の呪は、時に強力にヒトを縛る。そこに篭められた想いの強さに比例して」 「でも、あたしはもう、ヒトじゃないわ」 「心はヒトと、思い込んでいる限り……呪いは効くのよ」 ルフレ自身も気づいていなかった葛藤と矛盾を抉るように、言う。 「でも、あたしは、約束はできない」 「ルフレ」 「―― ちょっと酔い、醒ましてくるわ」 サーリャの言葉から逃れるように、ルフレは室をあとにした。 降り続く小糠雨の音が回廊を取り巻いている。昼の間の喧騒も、明日起こるであろうことのすべてをも、雨は今だけは静かに穏やかに包み隠していた。 「クロム」 回廊の途中で最愛の夫の姿を見とめてルフレが声をかける。 「おまえも、逃げてきたのか？」 「クロムも飲まされてたの」 「まあ、な……あいつら、今がどういう状況か分かっているのか」 「きっと。クロムが馬鹿なことをしないようにって、心配してるのよ」 「…………どういう意味だ」 「クロムは、この国にとってかけがえのない唯一の王なのよ。馬鹿なことは考えないで」 「おまえは俺にとって唯一の。かけがえのない相手だ」 「あたしの存在がイーリスにとってこんなにも重荷になっているのに？」 「関係ない」 「クロム ―― 本当に、そう思う？」 「ああ ―― 心から」 真っ直ぐな空色の瞳から逃れるようにルフレが視線を逸らす。クロムの、無骨で大きな手がルフレの顎を捉えて無理に視線を合わせる。 世界中のどんな相手よりも近くに在る筈の心が、いまは、遠かった。 伝わらぬ思いにたまらないもどかしさを覚えながら、クロムはルフレと唇を合わせた。 クロムが扉を開け部屋に入ると一瞬だけ彼に視線が向けられたが、またすぐに会話は再開された。主に話しているのはマーク、そこにフレデリクとガイアが疑問を差し挟む。少し離れた位置で黙って聞くに留まっているのは宰相だった。 “酔い覚まし”とクロムは言ったが、こちらの部屋には一滴の酒も置かれていない。 代わりのようにして、何かを書きつけた大量の紙がテーブルの上に広げられていた。 「父さん、母さんには会えましたか」 「ああ。サーリャの“伝言”通り、そこの回廊で会った」 クロムの表情から何事かを読んで、ガイアが苦々しげに飴玉を噛み砕いた。 「あいつは間違いなく何か企んでいやがる。相変わらず一人で全部抱え込んで」 「母さんの考えは ―― 僕にも読めません。だから布石を沢山置くことにしたんです」 とんとんと、机を叩きながらマークが呟く。 「今頃、また女性陣が母さんをぐるぐる巻きにしている筈ですよ。想いという名前の強い鎖に友愛という名の錨をつけて」 「そのためだったのか」 あの唐突な茶会の誘いは。 「はい。すべては策の内です。希代の神軍師を敵に回そうというのですからね。こちらは全員が一致団結しないと」 申し訳ありませんが、と、口を挟んだのは宰相、マクシミリアンだった。 「私は、国を選びますぞ」 「宰相さん！」 驚いたようにマークが宰相の方を見た。 「それが妃殿下との約定です。どちらかを選ばねばならない時には、過たずイーリス聖王国を一義に置くと。しかし陛下が“その時”に何をお選びになるのかは。私ごときが嘴を挟めることではございますまい」 「―― すまない。マクシミリアン」 さて、なんのことでございましょうか、と。宰相は静かに笑んだ。 ◇◆◇ ルフレの唇が遠い昔、彼女の母から伝え聞いた祝詞を、うたうように口にした。 「あめつちを巡るすべての神々よ ―― 我、大地の竜の器たる者。大地の礎たることを望む者なり。我が声に耳を傾け、我が祈りに応えたまえ」 ルフレの祈りを受けて炎の台座とそこに嵌められた五つの宝玉が輝き出す。輝きが爆発的に広がり、ルフレを押し包み天へと突き抜けた。 輝きから一転、あたりを巨大な影が覆いつくした。 昨日とは異なる晴天の空が、深い闇に覆われた。いや、それは翼だった。冬の夜空のように深い漆黒を纏う巨大な竜の翼だった。滑らかな全身を覆うのも煌く満点の星空のような美しく青みがかった黒の鱗だ。恐ろしい牙を具えた竜の顔にどこか深い英知を感じるのは、夜空に浮かぶ満月のような黄金色に輝くふたつの瞳のためだろう。 圧倒的な存在感を放つ闇色の竜を、クロムはただ、美しいと思った。 闇色の竜は巨体に似合わず音も立てずに地上へと舞い降りた。その羽ばたきひとつで力の弱い者などはあっさりと飛ばされ尻餅をついた。 「なんだ、あれは」 「まさか、邪竜……」 「なんと禍々しい」 「化け物め」 「おお、神竜よ。どうかご加護を」 正気を取り戻し、なぜこんなものをと不思議そうに仮面を外した人々は、すぐに闇色の竜に気づいて口々に恐れを言い募った。 ナーガの意識が奥底に染み渡っていた者達にとって、深い闇をまとう竜は恐怖の対象でしかなかった。嫌悪と畏れの入り混じる十万の視線が竜の巨体へと向けられる。 そして、その向こうに立つ聖王クロムへと。 「ああ、王様がいらっしゃる」 「いまの聖王さまは神剣の使い手だというじゃないか」 「大丈夫だ。きっと王様が邪竜を斃してくださる」 「しかし、あんなでかいやつに人間が敵うのか」 ざわざわと、無責任な言葉が言い交わされる。 人々の思いなど知らぬげに、闇色の竜は静かに佇んでいた。 どこか苦しげにその姿を見据え、クロムは深く息を吸い込んだ。 最愛の妻の名を呼ぶために。 以前、ギムレーと共に一度世界から消えた時とは逆の、どこまでも続く真白な空間。眩しいほどに明るく、けれど冷たい光に充ちた場所にルフレは居た。ここはナーガの“場”なのだと彼女の勘が告げる。 ―― すべての魂はナーガのもとへと還り、無垢な状態へと戻され輪廻を巡る。 では自分は二度目の生も終えたのかと。安堵に似た吐息をルフレは吐き出した。これで、いつか遠い遠い先に狂い果て、大切な人を、その子孫を、苦しめることになるかもしれぬと恐れる必要もなくなるのだと。 時間の流れすら曖昧な、上も下もない果てのない白い空間に言い知れぬ不安をルフレが覚え始めたころ。彼女の目の前に白い衣を纏った女性が現れた。 長く膝まで流れる翠の髪。額にいただいた金の宝冠。―― 神竜ナーガだった。 以前ルフレたちの前に姿をあらわした時とは異なり、今のナーガには実体があった。やはりここが彼女の“場”なのだろう。 なにか、聞きたいことがあった筈だった。だが全てはナーガの静かな瞳を目にした瞬間に霧消した。 「久しぶりですね。ルフレ。こんなところまで何の用ですか」 一瞬ナーガの言っていることが分からず、ぽかんとルフレは固まった。 「神竜ナーガ……」 「はい」 「あなたの仕業じゃなかったの」 ナーガの無表情な眉が、わずかに顰められた。 「あなたを純粋に信じる人々の精神を支配して、あたしを殺そうとしたんじゃなかったの」 ああ、そんなことが起きていたのですか、と。淡々とナーガは言った。 「屍兵がギムレーの根源的な憎悪に従って生命を屠ったように。彼らは私の根源的な畏れを感じ取ったのでしょう。ギムレー亡き後わたしには世界の調和を保つ必要がありました。全ての意識はそちらへ向けられていましたが、わずかな深層の意識が ―― 地の竜たるあなたへの恐れが世界に漏れ出して人々に影響を及ぼしたと見えます」 「おそれ。あなたが、あたしのことを？」 「あなたには、最高か、最悪か、どちらにもなりうる可能性がある。ギムレーが消滅したあとのひととき、あれの役を肩代わりして改めて思いました。あの役は、つかれます。人々の肉が抱く念はそのままでは大地に返せないほど強すぎる。私には炎で焼き尽くすことしかできませんでした」 ナーガの無機質な瞳がルフレの姿を映している。 「あなたの魂にはそれらを受け止めるだけの強さと、広さがある。人の質を持つ竜であるが故に。純粋にして強かな魂は、あるいは最悪の邪竜へ、あるいは最高の神竜へと昇華する可能性を持っています。私はただ、それを畏れました」 「違います。あたしは、そんな ――」 ふるりとルフレがあたまを左右に振る。 「神竜ナーガ。どうかあたしを、受け容れてください。もう一度ヒトとしての輪廻を巡ることができるように。あたしの魂をまっさらな状態に ――」 「それはできません」 「どうして……」 「見えませんか」 そう言われて、ルフレは気づいた。 ルフレの魂を幾重にも光の糸が覆っていた。ナーガの空間を満たすつめたい光とは異なる、あたたかな光を宿した糸だった。 以前、邪竜と共に世界から消えた時に目にしたものと、同じ糸。彼女が愛する、彼女を愛する人々の、ねがいが縒り合わされた糸だった。 「それを断ち切ることができるのは、人の子の想いと私の力を併せ持つ者だけです」 「クロム」 「そうですね。彼ならば、あなたに終わりをもたらせるでしょう」 一際つよく、光の糸がルフレを引いた。急速にナーガとの距離があく。 「おゆきなさい。願いを果たし再びこの場に戻った時には必ず、あなたの魂を焼き尽くしましょう」 最後にナーガはそう言った。 「ルフレーーーーーーーっっ！！！」 強く、名を呼ばれ。ルフレの意識は覚醒した。在り得ぬほど高い位置にある視点から、たった今彼女を呼んだクロムの姿が見える。 そこでようやく自身の姿に ―― おおきな竜へと変じた自身の姿に思い至った。 ―― ああ。早く終わらせなければ。 ルフレはもどかしげに巨体をふるわせた。闇が一点に収束するようにして一瞬後そこに在ったのは、竜の巨体に比して余りにも華奢な、ひとりの女性の姿だった。 光を透かすと青みがかる、夜空にも似た黒髪が、先ほどまで空間を占めていた闇色の竜を連想させた。 ぽかりと口を開け、目前の光景に言葉を失ったのはもと“光の使途”たち、この場に結集した十万の群衆たちだった。 「確かにルフレとおっしゃられたぞ」 誰にともなく呟く声に、 「ならありゃあ、妃殿下かい」 隣にいた男が応えをかえす。 「妃殿下が恐ろしい竜なのか」 「確かに、邪竜の血を引く方だとは聞いてたが。邪竜そのものだとは聞いちゃいねえぞ」 ならば王妃は自分たちを騙していたのか。この国を滅ぼすつもりなのか。恐ろしい。おぞましい。 ―― 殺せ。 「ころせ」 誰かがそう、口にした。 「殺してしまえ」 「このままじゃ国が」 「はやく化け物を滅ぼしてくれ」 口々に洩らされた呟きはやがて高まり。互いの声に煽られるようにして皆が、殺せと叫び続けていた。狂ったように。 地を揺るがす叫びにも眉一筋動かさず、クロムはルフレと対峙していた。
2013/6/15
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