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『受け継がれゆくものの名は』
３． 緑の匂いを含んだ風、目蓋を通して感じる午後の陽射し。 長い、夢を見ていたような気がした。 ゆっくりと浮上する意識に逆らわず、彼女は目蓋を押し上げた。 視界に沢山の顔が映る。 懐かしい顔、はじめて見る顔が入り混じって、どこか心配そうに、そして祈るように彼女のことを見つめていた。 最初に目が合った彼に、彼女は静かに呼びかけた。 「ダルさま ―― お久しぶりです」 次いで、その隣に立つ女性に語りかける。 「大きく、なりましたね。私のむすめ ――」 ◇◆◇ ルフレはペレジア城でも奥まった位置にある一室に居た。 開け放たれた窓から清しい風が流れてくる。風に、柔らかな緑の匂いが混じる。イーリスとの国境地帯を越えペレジア王都へと向かう間、そこここに、芽生えた緑が目に眩しかったことをルフレは思い出した。ゆっくりと、枯れていた大地に満ちてゆくものの存在を感じたことを。 この国は変わろうとしていた。 ゆるやかに吹き続ける風に、寝台に横たわる女性の青みがかった黒髪が、微かに揺れたようだった。 妙な気遣いを発揮してガイアは城下に繰り出している ―― ペレジア産の菓子を買い求めたいだけかもしれないが。いまこの部屋には、ルフレと母の二人きりだった。 再会した時には気づかなかった。あの時、ルフレの記憶は戻ったばかりで、記憶の中にある母の姿と寸分違わぬ母の姿に違和感を感じなかったのだ。 母は、全く年を取っていないように見えた。虹の降る山の麓 ―― 彼女たちが隠れ住んでいたあの家で生き別れた時から、全く。 そっと、ルフレの指先が母の頬に触れる。微かに感じたぬくもりに、ほっと息を吐き出した。 突如吹き込んだ窓からの突風に、ルフレの長い黒髪が煽られた。振り向くと、真っ黒な鴉の群れが窓から飛び去るところだった。 「ヘンリー ―― サーリャも、一緒に来てくれたのね」 そこには、笑顔の白髪の呪術士の青年と、憮然とした黒髪の呪術士の娘が立っていた。 以前は、早急にイーリスへ戻る必要があり、充分に診ることの叶わなかったルフレの母を前にして。サーリャはいくつかの印を切りながら憮然とし、ヘンリーは右手をかざしながら珍しく、真顔になった。 「ああ。これは、複雑ね」 「術者の性格の悪さがにじみ出てるね〜」 「ファウダーの、置き土産」 「ねえ取り敢えず解いてみようよ」 「危険だわ。複雑すぎて、何が起きるか予測できない」 「でも何もしないとこの人はずっとこのまま、眠ったままだよ〜」 「分かって、いるわ」 そこでサーリャはルフレを振り向いた。 「どうするの、ルフレ。あなたには選ぶ権利がある」 優しいと呼べる口調で。 「この人は放っておけばずっと眠り続ける。ずっと、この姿のままで。ファウダーの呪いが擦り切れて消えるまで、ずっと。何年も何十年も、ひょっとしたらそれ以上 ―― 厚い呪いの層が擦り切れて、この人の命が磨り減るまで。ずっと」 言葉を切り、ルフレを見つめる。サーリャは黙ってルフレが彼女の言葉を受け容れるのを待った。 「でもこの呪いは複雑に絡み合っているから〜。永劫の眠りの呪いを解くことでどんな副作用が起きるか、僕にも予想がつかないよ」 あはは。ほんとファウダーって性格悪いよねぇ、とにこにこと笑みを絶やさずヘンリーが言う。 「起きた途端に発狂するかもしれないし。記憶全部が真っ白に塗りつぶされるかもしれないね〜」 「そん、な……」 それ以上、ルフレは何も言えなくなった。 それは幾重にも張り巡らされた呪いだった。全ては、ルフレに絶望を与えるためだけの。 あるいは、ファウダーがルフレの母親を ―― 遂にその手に堕ちることのなかった女性をその手中に置くための ―― 「それでも目覚めさせたいというのなら、できるだけの手は尽くすわ。時を惜しまず、出来る限り呪いの糸を解く」 「僕もちゃんと手を貸すよ〜」 「ただ、必ず、という保証はできないわ。だから、よく考えて決めなさい」 「あたしは ――」 どちらか、など。選ぶまでもなく、ルフレの答えは決まっていた。 ◇◆◇ 私のむすめ、彼女はそう言って、枕元に立つ女性を見つめた。 「ディーネ」 ダルの隣に立つ、長く青銀の髪を垂らした女性に向けて、彼女はそう言った。 「あなたを生んですぐ、私たちは離れ離れになって ―― ずっと、寂しい思いをさせましたね」 痛みを堪えるような表情で、こみ上げる想いに涙を滲ませながら言う。 「母上さま……」 ディーネが、そっと彼女を呼ばわった。 「ここは、ペレジア城ですか？私は今までどうしていたのでしょう」 「ずっと眠り続けていたのよ。ファウダーの、呪いのせいで」 そう、言葉を挟んだ相手の方へ彼女の視線が移る。 「……ファウダー？」 不思議そうに見開かれた瞳に映る、彼女によく似た青みがかった黒髪の女性の姿。 「あなたは、どなたですか？」 「そうですか。私はその、ファウダーという邪術士の手で眠らされていたのですね。そして、あなた方が目覚めさせてくださった」 等分に、彼女の視線が注がれる。ルフレとサーリャとヘンリーに、等分に、初対面の相手に対する感謝と親愛の情を込めた視線が。 「ありがとうございます。見ず知らずの私などの為にご尽力いただき、感謝いたします」 謡うように軽やかに、残酷な言葉がルフレの胸を深く抉った。 ◇◆◇ 城内に与えられた部屋に戻ると、ルフレはへたりと床に座り込んだ。 ぱたぱたと雫が床に落ちる。殺しきれない嗚咽が漏れた。 しばらくして扉の外に沸いた気配に構う余裕もなく、ただただ涙を零し続けた。僅かに残った冷静な軍師のルフレが扉の外の気配を探り、ひとつは彼女の弟のもの、そしてもう一つは、この場所に居る筈のない、けれど今、誰よりも会いたいと願う相手のものであると分析していた。 廊下へと続く扉が開いて閉じて、背後に気配を感じても。ルフレは顔を上げることすらできなかった。 不意にうしろから抱きしめられて。ルフレは身体を強張らせた。だがすぐに、その腕が、ふわりと感じた日向の匂いが誰のものであるかに気づき、ゆっくりと息を吐き出した。 「クロム…」 少しゆるんだ腕の拘束の中で振り返り、視線を合わせる。 「すまん。来て、しまった」 「だ、って。あんなに政務が」 「片付けてきた」 「二人してイーリスを空けるなんて」 「宰相も、フレデリクも居る。リズも、最近は政務を助けてくれている」 「でも ――」 クロムの両手がルフレの頬を包み込み、俯いていた顔を上向かせる。 「ルフレ」 ぱたぱたと、止め処なく溢れるルフレの涙を指先で優しく何度も拭いながら、 「辛い、思いをしたな」 労わるように、慈しむようにクロムはそう言った。 「―― っ」 クロムの胸にすがりつくようにして、ルフレは喘ぎ、泣いた。 ルフレの母親の頭の中からは、ルフレとファウダーに関する記憶だけが、綺麗に抜け落ちていた。サーリャとヘンリーが手を尽くしても、それだけは、取り戻せなかった。 死して尚、宿願を果たそうとあがき続けたファウダーの魂が完全に消滅した時に、共に彼の岸へと連れ去ったかのように。 恐ろしく回りくどい方法で。ファウダーは彼女の全てを手に入れようとしたのかもしれなかった。 「ルフレ。愛している。おまえの母君が喪った記憶の分まで俺が ―― いや、今でも母君はおまえのことをきっと」 「クロム」 静かに名を呼ばれ、クロムが黙り込む。 「ありがとう」 ルフレは、微笑んでいた。痛々しいほどに、澄み切った笑みだった。 ◇◆◇ ペレジア城のまわりを巡る水の流れを辿ってゆくと、ひとつの小さな泉に辿り着く。 ルフレと、その異母弟エードラムが地下神殿を出て、初めて目にした外の世界がこの場所だった。 そっと、ルフレは泉に指先をつけた。燦々と照りつける陽射しに、冷えた水の感触が心地良い。 明日、ペレジアを発つ。 母の目覚めを待つために既に一月をこの場で過ごしていた。これ以上、留まるわけにはいかなかった。 ルフレが辿ってきた水の流れの下流から、近づいてくる人影があった。そちらを見ずとも気配で母と、ダルであると知れた。 そちらを見ないようにしながら立ち上がり、逃げるように立ち去ろうとしたルフレを呼び止めたのは母の声だった。 「待ってください」 立ち止まり、諦め混じりにそちらを向いた。 「なにか、用かしら」 目を合わせずに済むように瞳を伏せ、ルフレが言った。 「いきなりこんなことを言って、失礼だとは思うのですが…」 ルフレのそんな態度を気にしたふうもなく、母は語りかける。 「私たちどこかで、お会いしたことがあるでしょうか」 「え」 思い出しかけているのだろうか、とルフレの感情が揺れる。 「あなたを見ていると、懐かしい気持ちになるのです。―― あなたは、私の父にどこか似ています。気配と、その、瞳が。……ああ。それでこんなに懐かしいと思うのでしょうか」 そして、無条件に沸き上がる愛情を、彼女はルフレに対して感じていたが。初対面の相手に言うべきことではないと、黙っていた。 「あなたの父君であるリアン様とは、遠い縁があるようだから。きっと、そのせいだと思う、わ……」 そっと目を伏せたままぽつぽつと、ルフレが応えを返した。 そうですか、と彼女は答えた。どこか遠い目をして、言葉を続ける。 「私の記憶は欠けていると、ダルさまに教えていただきました。ですからもしかしたらあなたが ―― いいえ、やはり、分かりません」 彼女はふるりと一度頭を振った。 「とても大切だったと、記憶ではなく心が、言っているのに。どうしても思い出せないのです。私が命に代えても守ろうとしたものが、愛し慈しんでいたものがあったと、私の心は叫ぶのに」 それがヒトなのか、モノなのか。生物なのか無生物なのかすら、分からないという。 それでもソレを、愛していたと彼女は言うのだった。 「ごめんなさい。会ったばかりのあなたにこんな話をしても、困らせてしまうだけですね」 謡うように、流れるように話していた彼女が、そこで言葉を切った。 「ルフレさん ――」 そ、と、彼女はルフレの頬を流れる透明な雫に触れ言った。 「どうして、泣くのですか？」 「あ……」 指摘されてはじめて、ルフレは自分が泣いていたことに気づいた。 得ることにも、喪うことにも意味はある。 彼女がルフレに関する記憶を失ってしまったのならば、無理に思い出させようとすることは危険だと、サーリャに教えられたからこそ。こうして、ずっと母のことを避けてきたというのに。 聡い彼女は気づいてしまった。 「あなたがそうなのですか？だから、こんなに懐かしくて ―― 愛しいと感じるのでしょうか……いえ、駄目ですね。思い出せません。なにも、思い出せません」 そっと、あやすようにルフレのあたまを撫でた。 涙を拭い、ルフレは無理やり笑みを浮かべ言った。 「いつか、思い出せると良いわね ――」 彼女の問いに、否も応も与えることはせず。母さま、と呼ぶこともせず。 踵を返し、母に背を向けルフレは歩き出した。その顔はどこか晴れやかなものだった。 ルフレ母のはなし完結です。 ルフレさんがこのまま壊れちゃいそうな気がしたら、クロム様が来てくれました。相変わらず思い通りには動いてくれない聖王陛下に今回ばかりは感謝を。 ディーネの母親については最初から決めていたのですが、話の流れに必要なかったのでここまでノータッチで来ました。ルフレ、エードラム、ディーネの父親母親が違う三人兄弟です。期せずしてイーリス三兄弟と構成が同じに。狙ったわけではないのですが。
2013/2/15
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