この年の春に即位したばかりの聖王が、その弟殿下を伴って夏の避暑地を訪れたのは八の月も半ばに差し掛かる頃のことだった。
　喫緊の政務のない限り、毎年の夏をこの別邸で過ごすことは聖王家の慣例となっていたので、別段国民の耳目を集めることもなく。周辺の村むらからとれたての野菜が差し入れられる、その程度の出来事だった。
　だから、その十日ほど前に別邸に入った壮年の男性と二十歳前後の娘の姿を目にした者もなく。人々の口の端に彼らの噂がのぼることもなかった。

『おとぎ』


　照りつける真夏の陽射しを遮るように、黒衣のフードを目深に被り街道を足早にゆく長身の影があった。
　フードの陰から微かに話し声が聞こえる。周囲に他に人影はない。独り言か、はたまた見えざる何者かと会話を交わしているものか。
　聞き取れぬほどだった声音がわずかに音量を増した。
「そんなことは僕だって、分かっています」
　吐き捨てるように言って、ふるりと首を左右に振った。
「次に会ったとき。それを、最後にしますから……」
　ふと、黒衣の歩みが止まった。耳を澄ませるようにして空を見上げる。
　ぱさりと落ちたフードから覗いたのは、二十代も半ばと思われる青年の顔だった。伸びるに任せた青髪が瞳を半ば覆い隠している。僅かに覗く琥珀の輝きが不思議そうに二度瞬いた。
　気のせいか、と青年が再び歩み出そうとした、その時。
「きゃあぁぁっ」
「うわぁ」
　どさりと、青年の背中を目がけてなにかが落ちてきた。
「マーク！大丈夫ですか！？」
　背中から聞こえた良く知る声に、マークはそろりと背後を振り仰いだ。
「…………ルキナさん？」
　ずっと、避け続けてきた彼の姉の姿がそこにはあった。

「サーリャさんにお願いしたんです。次にマークに会ったとき、呪いをかけてくださるように」
「それって、以前母さんがかけられていた」
「はい。望む相手の背後に転移する呪いです」
　ルキナの言葉にマークが深くため息をつく。
「あの人は……油断も隙もありませんね。まあ、母さんが引っかかったぐらいですから。僕が気づけなくても仕方ないのかもしれませんが」
「元はといえばマークが逃げ回るのが悪いのですよ」
「別に、逃げてなんかいませんよ」
「嘘です。マークは私を避けています。……二人きりの姉弟なのに。何故、ですか？」
　ルキナの大きな瞳が真っ直ぐにマークを射る。
　マークはもう一つため息を吐き出した。珍しく真顔で押し黙る弟をルキナが静かに見つめている。どこか吹っ切れたようにひとつ笑むと、マークは小首を傾げこう言った。
「ルキナさん。おとぎ話をしましょうか」

　　　◇◆◇

　神竜が棲まうという、聖なる泉がこのお話の舞台です。
　泉の周りはとても大きな、樹海と呼ばれるほどに大きな森でした。
　ここに、この森に住まう木こりの青年がいます。年の頃は１８か９。澄んだ空色の瞳が印象的な、濃紺の髪色の青年でした。木こりらしく無口な青年は一見すると無愛想で近寄りがたい印象でしたが、気を許した相手に見せる愛嬌や、日に焼けた顔をくしゃりと弛ませて浮かべる笑みはどこか人を惹き付けるものがありました。
　青年には想い人がいました。幼い頃に一度だけ、出会った娘がその相手です。
　まだ一人で斧も振るえないような。ほんの少年の頃に彼は樹海で迷ってしまったことがありました。父とはぐれ、途方にくれた彼が辿り着いたのは美しい泉――後に、父から聞いたところでは、それは人の身では辿り着くことはできないと言われている聖なる泉――生命の泉だったのです。
　泉の傍らには美しい娘が佇んでいました。
　長い、とても長い黒髪が印象的な娘でした。樹々から零れる木漏れ日を受けると深い青色に輝く髪色は晴れ渡る空のようにも、澄んだ星空のようにも見えました。少年を見つめる瞳は吸い込まれそうな黄金色で、娘が人の子ではないことを示していました。その金の瞳に微かな戸惑いが浮かんでいることに少年は気づきません。
　木こりとして育った少年は、丁寧な話し言葉、というものを知りませんでしたので、いつものようにぶっきらぼうな口調で娘の素性を訊ねました。
　彼の言葉に娘は、どこか懐かしそうに瞳を細めます。
　やんわりと諭すように、人に名を問うときはまず自分から名乗るものだ、と娘は言いました。少年は娘の笑顔に心臓がやけに早鐘を打つのを不思議に思いながら、ようよう返事を返しました。
　少年の名を聞いて、娘は一度瞳を伏せ、そして真っ直ぐに少年の瞳を見つめて名乗りました。
「あたしの名前は――よ」

　娘と少年の初めての邂逅から十年の月日が流れました。
　少年は青年へと成長し、父親を越すほどに背は伸び、儚ささえあった手足は逞しく育ち、真っ直ぐに煌いていた瞳にはいつしか強固な意志のひかりが宿るようになっていました。
　しかし、ひとつだけ変わらないものがありました。
　十年前、泉に棲まう娘に抱いた恋心。ただ一度きり逢っただけの娘に対するこの想いだけは、大切に、彼は育て続けてきたのでした。
　今日も青年は森の奥へと分け入ります。
　けれど、件の泉があったとおぼしき場所まで行き着くと、伸ばした指の先さえ見えない程の濃い霧が青年の行く手を惑わして。堂々巡りの末に彼は、森の入り口へと戻ってきた自身に気づくのが常でした。
「くそ。またこの霧だ」
　青年が、苛立たしげに呟きます。
「なぜ、たどり着けない。あの時は確かに行けた場所へ……！」
　苛立ちに任せて青年は拳を振り上げ、運悪く振り上げた拳を近くの木立にぶつけてしまいました。手加減なくぶつけた拳はじんじんと痛みます。
　青年は立ち止まり、搾り出すように言いました。
「……おまえが俺を拒むのも、嫌うのも自由だ」
　俯いたまま話す青年の表情は分かりません。
「だが、あと一度だけ、一目だけでもおまえに会いたいと。そう、思うことすら許されないのか――」
　――愛しているんだ、と。消え入るように囁いて、
「ルフレ！」
　顔を上げ、十年の間、片時も忘れることのなかった娘の名を、青年は力の限り呼ばわりました。
　どうしたことでしょうか。
　途端に、霧が晴れ渡ったのです。
　そして、青年の前には、十年前と何ら変わらぬ姿の娘が静かに佇んでおりました。
　霧は、生命の泉を守るため娘が張った結界でした。
　彼が心の底からの、真実の愛を叫んだ時、結界はその意味を失いました。彼が娘の心に分け入ってしまったからです。
　こころを分けてしまった相手には、彼女が張り巡らせた結界も喜んで道を分けたのでした。

　それから更に時は流れ。いくつかの障害を乗り越えて、竜の娘と人の青年は夫婦となっていました。
　二人は、可愛らしい男の子供を授かりました。
　生れ落ちた子供の顔を見つめると竜の娘は片時も迷わずに、「よく来てくれたわね、マーク」と赤子に語りかけました。
　男の子が十の年を数えたとき、世界に異変が起きました。
　竜の娘と対を成す神竜、天の竜として人々が崇める神竜が、狂い果て闇へと堕ちたのです。天の神竜が棲む山を常に取り巻いていた虹は消え、あとからあとから湧き上がる暗雲が世界を覆い。暗雲の広がる先から神竜の尖兵があらわれて、逃げ惑う人々を屠りました。
　以前から、異変は少しずつ起こってはいました。人々が目を向けず耳を塞いでいただけで。彼らの神の変容を認められずにいただけで。
　竜の娘は言いました。自分の力では天の竜を止めることはできないと。神竜が滅びるのは、神竜自身の力によってその命を断たれた時だけなのだと。
　狂う以前に天の竜は自身を滅ぼせる手段を残していました。いずれ、闇へと堕ちる未来を予見して。しかし、その唯一の手段は永き時を経る中で既に失われてしまったと、竜の娘は言いました。
　千年の時の中に失われた神竜の牙。それだけが、狂い果てた神竜を滅ぼせる唯一の手段だと。
　男の子は神剣を求め、千年の過去へと飛びました。世界を、父と母を救うために。

　　　◇◆◇

「お話はこれで終わりです」
　静かに、そう告げて。マークはルキナを見つめ返した。
　ルキナの空色の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
「…………わかって、いました」
　嗚咽をこらえ、話す。
「あなたが“私のマーク”ではないことにぐらい、はじめから気づいていました」
　瞳の色が違うからではない。ルキナと対になるようにして、その瞳に刻まれていた筈のナーガの聖痕が消えていたからでも、ない。
「だって、マークは“あの時”私を庇って――」
　最後は嗚咽に呑まれ、言葉にはならなかった。
　マークが静かに微笑んで、ゆるりと首を左右に振った。
「“あなたの弟”は、ちゃんとここに居ますよ――“姉さん”。僕たちは、一緒に時を下ってきたんですから」
　マークの指先が優しくルキナの涙をぬぐう。
「千年の時を下る途中で、僕はもう一人の“僕”と会いました。魂だけになって、それでも使命を果たそうとこちら側に留まり続けていた“僕”に。姉を救い世界を救うことを望む“僕”と、神竜の牙を得る必要のあった僕はたまたま利害が一致していました。だから“一緒に”来たんです。この時代へ。ルキナさん――あなたに会うために」
　そこで一度言葉を切って、
「姉さん、あなたを救うために」
　同じ顔、同じ口調、同じ声の、それでも違う響きを持つ言葉がルキナに向けられた。
「マーク……」
「ファルシオンを僕にください」
　琥珀の瞳から感情の色は消え、淡々とした声音でマークは言った。
「“僕”の目的は果たされました。次は、僕が目的を果たす番です。千年後には失われた神竜の牙を、僕に、渡してください。狂い果てたナーガを滅ぼすために」
　いやいやをするように、ルキナが首を左右に振る。豊かな青髪が遅れて揺れた。
「ファルシオンは渡せません」
「――そう、ですか」
「私も、連れて行ってください」
「ルキナさん？」
「あなたは私のたった一人の弟です。そんな大変な戦いに、一人きりで行かせるわけにはいきません」
「…………ルキナさん」
「はい」
「よく、考えてください。千年後、ですよ？今度こそ誰も、あなたを知る人の居ない未来ですよ？ナーガを滅ぼすことができなければ全て滅びる世界ですよ」
「はい。分かっています」
「分かっていますって……そんなあっさりと」
「考えるまでもありません。私はあなたを助けたい。だから、一緒に行きます」
　にこりと、邪気のない笑みを浮かべて。
「それに。あなたは勝つつもりなのでしょう？……ナーガ様を滅ぼす、ということに抵抗はありますが……でも、私は戦えます」
　挑むように、空色の瞳がマークを見据える。まっさらな快晴の空のように澄んだ青に、真正面から見つめられて。
　――この目に弱いのは、母さん譲りですね。
　淡く苦笑するマークを見て、ルキナの眉が不審げに寄る。
「ルキナさん」
「……はい？」
「僕には時を渡る力はありません。一度イーリスへ戻りましょう」
　唐突に進んだ話運びについていけず瞬きを繰り返すルキナに、落ち着いた口調でマークが言った。
「それを僕に知らせに来てくれたのでしょう？父さんと母さんがイーリスに戻ったと」

　　　◇◆◇

　しゃきしゃきと、軽快に鋏をつかう音がする。丁寧に鋏をつかいながら、椅子に座した男の髪を切っているのは二十歳過ぎと思しき娘だった。よく晴れた日の夜空のように美しい黒髪は腰までを覆う豊かさだが、いまは無造作にひとつに結われている。
「よし、完成」
　呟いて、男の肩にかけていた布を外した。琥珀色に煌く瞳が満足気に瞬く。
「む。随分と短くしたな」
　日に焼けた大きな手で、がしがしと頭を触りながら、壮年の男の声が返した。短く刈り込まれた髪の色は濃紺。黄昏時の空の青にはまだ白いものは見られない。
「そ？よく似合ってるわよ。男ぶりが上がったんじゃないかしら」
　ふふふ、と、花が綻ぶように微笑んで。男の額に口づけた。
「おまえがそう言うのなら、構わない」
　仏頂面に仄かに笑みが乗る。
　父娘にしては年がやや近い。なにより、二人の間に流れる気安さは長年連れ添った夫婦のものだ。奇妙な、二人であった。
「母さん、今日はこの本を読んでください！」
　ぱたぱたと回廊を駆けて来たのは十をいくつか越えたぐらいの少年だった。くせのある濃紺の髪、空色の大きな瞳にはよく見るとナーガの聖痕が浮き上がっている。大きな本を手にしたまま、娘の背中から抱きついた。少年が手にした戦術書に目を落とし、娘が淡く笑みを浮かべる。
「マーク。悪いけど、今日はお客さんが来るのよ」
「えー……僕は後回しですか？」
「マーク、ルフレを困らせるな」
「だって、父さん。僕、来週には王都に戻るんですよ。貴重な時間をちょっとも無駄にしたくありません！」
「偶にはクロムと剣の鍛錬でもしたらどう？」
　ルフレの提案にマークがむうと頬を膨らませる。
「僕、剣術は苦手なんですよね……姉さんから一本も取れたことがないし」
　どうせ神剣の継承者は姉さんなんですから、僕は王佐の才を磨くべきだと思うんです。とぼそぼそと続ける。
「なら、ルキナから一本取れるように。俺が稽古をつけてやろう」
　クロムの大きな手が、マークの濃紺のあたまをくしゃりと撫でた。
　姉から一本を奪うという魅力的な提案と、父に頭を撫でられたむず痒い嬉しさでマークがそわそわと視線を泳がせる。
「マーク、行って来たら？クロムは剣技だけは確かよ」
「だけ、は、余計だろう」
「はい。では父さん、よろしくお願いします！母さん、明日はきっと一緒に本を読みましょう」
「ええ。約束するわ」
　微笑んだまま夫と息子を見送って。ルフレは茶の仕度をすべく踵を返した。

「マーク！ルキナさんも！」
　軽やかに弾むような乙女の声が呼びかける。
　年のころは１７か８。濃紺色の豊かな髪はしっとりと結い上げられて、額には宝冠が載せられている。あどけなさを残す瞳には、ナーガの聖痕。深い青のドレスがよく似合っていた。
「お久しぶりですルキナさん――いえ、聖王陛下。ご即位、おめでとうございます」
　マークは優雅に、膝をつき最上級の礼をとった。
「弟君はご一緒ではないのですか？」
「マークはお母様のところへ行くと言っていました。ようやく気兼ねなく会えるようになったのです。余程、嬉しいのでしょう」
「おや。先を越されてしまいましたね……僕も、ルフレさんにお話があったのですが」
「マーク、どこかで待たせていただきましょう」
　マークの隣でルキナが言った。この春、聖王へと即位した“ルキナ”よりも僅かに背が高い。背に流したままの濃紺の髪がかすかに揺れた。
「いえ。お母様は、お二人が来ることをご存知のようでしたから。今頃はお待ちの筈ですよ」
　姉のように慕う、自分と同じ名の女性に親しげな目線を向けて、“ルキナ”はそう言った。

「よく来たわね、二人とも」
　“ルキナ”に言われた部屋へ向かうと、茶の仕度を終えたルフレが出迎えた。勧められるまま席についた二人は、不思議そうな視線をルフレに向けた。マークが疑問を口にする。
「母さん、どうして僕らが来ることを知っていたのですか？」
　特に連絡をしたわけでもなかった筈だ。
「んー、なんとなく、そんな気がして。ルキナがマークを捜しに行くって息巻いて出て行ってから、結構立つし、ね」
　まあ、どうぞ、と茶を勧められて。ルキナとマークがカップに口をつける。
「随分、思いつめた顔してるのね」
　笑みを浮かべ、小首を傾げる。
　ルフレの、深い色を湛えた琥珀の瞳に引き込まれるように、マークは滔々と語り出した。彼が来た道について、彼がゆく、道について。
「だから、時を渡る方法を確かめに来たのね」
「はい」
　ルフレの瞳がルキナを向く。
「ルキナも、一緒に行くつもりなのね」
「――はい」
　空色の瞳に宿された決意のひかりが決して揺らがぬことを、ルフレは誰よりもよく知っていた。
「明日。虹の降る山へ、行きましょう」
「母さんの力では、難しいのですか」
「飛ばすだけなら、できると思う。ただし精度が落ちる。それは、ナーガだけの力でも同じことなのよ。だから、これはナーガと相談になるわね――力を、合わせることは可能か」
　頭の中に存在するノートをぱらぱらとめくり内容を確かめるような調子でルフレは言った。
　部屋を用意してもらうから今日はとりあえず休みなさい、とルフレに言われて。部屋を出た廊下の先で彼らは“ルキナ”と行き会った。真っ直ぐな空色の瞳がルキナを見つめる。
「どうかしましたか？」
　優しく訊ねるルキナに、
「ルキナさん、剣の稽古の相手をお願いします」
　きらきらと輝く瞳で“ルキナ”は言った。
「お父様がマークに剣の稽古をつけているんです。私も、負けてはいられません」
　まだまだ弟に遅れを取るわけにはいきませんから、と。当代の聖王は父譲りの負けん気の持ち主のようだ。
　こちらです、と促され別邸に設けられた訓練場へと向かうふたりのルキナを見送ってから。ルフレがぽつりと口をひらいた。
「未来であたしは、クロムにもう一度、会うのね」
「はい」
「これからあたしは、クロムを、見送るのね」
「――はい」
　マーク、と震える声が呼びかけるのに。はい、と静かにマークは返した。
「あたしは、耐えられる？」
　最愛の人の死を思うと身がすくむ。いくら覚悟を重ねても“その時”が来ればそんなものは何の役にも立たないのだと、ルフレは知っていた。
　今のルフレにならばどんな病も治せるのだ、完璧に。肉体を作り直すことすら、できる。だがクロムの魂はあくまでもヒトのもの。人の輪廻の中にあるべきものだ。人の世の理に手を出すことを、ルフレの理性は否と断じる。
　答えにはならないかもしれませんが、と、マークは前置きして。
「いまから何年後のことになるのかは僕も知りません。けれど一つだけ確かな事実を知っています。大地の神竜はいずれ、眠りに就きます。長い、千年に渡る眠りに」
　ひとつ瞬いたルフレの瞳から、透明な雫がこぼれ落ちたのを。マークは気づかぬふりをした。

　よく晴れた空の下、幾重にもかかる虹に覆われた山は、常と変わりなく静かにそこにあった。以前この山を訪れた時とは違い、軽やかな足取りでルフレが歩を進める。
「クロムー、おんぶしてあげましょうかー？」
　振り向いて、少し下を歩く夫に呼びかけた。
「馬鹿を言うな。自分で歩ける。というか、何の冗談だ？」
「ふふ。昔言われたことへのささやかな仕返し」
「？そうか」
　全く記憶にないらしい。クロムはしきりと首をひねりながら、ルフレに追いつき足を止めた。
「ナーガは、応えるだろうか」
「まあ、これだけ面子が揃ってれば、誰かの声には返事してくれるんじゃないかしら」
　あっけらかんとルフレが返した。
「母さんは、ンンさんみたいにナーガとの間に繋がりはないんですか？」
「んー、なんともいえないけど。天と地の竜は本来異質なものだから。相性はあんまりよくないかも」
「まあ。でも、お父様とお母様はとても睦まじくていらっしゃいますよ」
　素直なルキナの言葉に、ルフレが苦笑する。
「ここまで薄まれば、ね。そうじゃなくても、クロムは、とくべつ」
「「………………」」
　ルキナとマークが流石に言葉を失う。
「……ルフレ」
「なあに、クロム」
「流石に、照れる」
「そ？クロムも、まだまだ若いわね」
　ここに居る誰よりも――外見上は――若いルフレの言葉だった。
“あなたたちは――相変わらずですね”
　おっとりとした女性の声が、彼らのあたまに直接響いた。
　同時に、前方に緑の炎が燃え上がり、なよやかな女性の姿をとる。炎のように揺らめく髪、同じ色の玲瓏たる瞳――神竜ナーガがそこには居た。
　炎ゆらめく竜の瞳がルフレを射る。
“あなたに、私に場に入られることを私は好みません。何の用ですか、ルフレ”
「ちょっと力を貸してもらいたくて」
　どこか曖昧な笑みを浮かべたまま、ルフレは語り始めた。

“話は分かりました。千年後の私を滅する手助けを、私にせよと”
「無茶を言ってる自覚はあるのよ」
“いえ――闇へと堕ちて尚永らえることは、私の本意ではありません。私自身が時を渡ることは困難ですが。繋ぐ手助けならばいたしましょう”
　数千年を生きた神竜たる身には、生きることも死ぬことも、さしたる感慨を見出せぬ事象なのかもしれない。どこまでも淡々と、生命の匂いのしないナーガの声が言う。
“未来は数多に分かれ存在するもの。正しくあなたの未来へと戻れるのかは、あなた自身の意志のつよさに依存されます”
「向こうの母さんが目印をつけてくれました。お守りも、ここにあります」
　マークが取り出して見せたのは、煌く涙形の宝玉だった。光に透けて七色に輝く。
“神竜の涙、ですか。それがあるならば、作業は幾分容易いでしょう”
　感情のない緑の瞳が、ふたたびルフレの方を向く。
“ルフレ。私に続きなさい”
「……おてやわらかに」
　ふうと、息を吐き出した。
　さながら一対の舞いを見るようだった。ナーガとルフレの両腕が美しい軌跡を描きながら流れ、流れたあとに青銀と黄金の炎が揺れる。複雑なステップに合わせて、白衣と黒衣がふわり、揺れた。
　そうして半刻ほども舞いは続いたろうか。金と銀に揺らめく炎で編まれた複雑な陣の中心に、ぽかりと、道は開いた。
「ルキナさん……」
　なにか言いかけたマークの手を、ルキナが取った。
「行きましょう、マーク」
　決意を秘めた空色の瞳を、眩しげに見つめ返して。
「はい。――父さん、母さん。行って来ます」
「お父様、お母様。どうぞ、お元気で」
「……やはり俺たちも一緒に」
「駄目よ、クロム」
　上がりきった息を整えながらルフレが諭す。
　跳躍する先に“自身”が存在する。それは、大きすぎるリスクだった。事実、ギムレーがこの時代に飛んだことで、ルフレは記憶を失い、ギムレー自身は力を失ったのだ。ルキナがこの時代に来た時に“ルキナ”が未だ生を受けていなかったのは幸いだった。千年後には確実にルフレが居り、クロムの魂を宿す者も居る。だから、子供たちと共に行くことはできないのだと、ルフレはクロムに説明したのだが。理屈で感情は抑えられないのがクロム、といったところか。
「だが」
　尚も食い下がる。
「だが、じゃないの。行っても足手まといになる可能性が大なんだから、駄目なものはだめ」
　取り付く島のないルフレの言葉に、クロムの眉間に思い切り皺が寄る。
“繋いだ道、長くは保ちませんよ”
　ナーガの静かな声に、全員が押し黙った。
　ルキナとマークが視線を交わし。
「「行ってきます」」
　そう言うのへ、
「ああ。行って来い」
「気をつけて。出来れば、もう一度会えることを祈ってるわ」
　クロムとルフレが返した。
　ルキナとマークが同時に頷き。開いた道と相対して。

　青銀と黄金の織り成す道へと、彼らは一歩を踏み出した――






--END--




2013/8/19




あとがき



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