『覆水』





３．

　一瞬だけ目覚めたルフレがふたたび意識を失ったとき、クロムの顔に浮かんでいたのは安堵の表情だった。
　しかし、その顔がふたたび強張った。背後から聞こえた『化け物』という言葉に。
　クロムの行動は素早かった ―― ガイアも。静かに愛刀を抜き放ったふたりは、ほぼ同時に、刺客たちに致命傷を与えていた。
　クロムがファルシオンを振ると、血飛沫がぱたぱたと散った。
　愛剣を丁寧に拭ってから鞘におさめたガイアが、いささか呆れた口調で言った。
「随分、思いきりよくいったな。……お前らしくもない」
　ま、お前がやらなきゃ、俺が二人とも殺すつもりだったがな。そう、続ける。
　ガイアの問いには答えずに。クロムは固まったように彼らを見守っていた子供たちの方へと歩み寄り、マークの前で立ち止まった。
「マーク。服を脱げ」
　ぽかんと、マークが呆けた顔をする。次いで、焦ったように両肩を抱いた。
「とと、父さん！一体なんですかっ」
　じりじりと、二歩ほど距離を取る。
「いや ―― 俺と服を交換しろと、言いたかったんだが」
「……ああ。そういうことですか」
　マークがようやく肩の力を抜いた。
　クロムがルキナの方を見る。
「ルキナも。ルフレと服を ――」
　言いかけて。ルフレの衣服には穴があき、べったりと血がついていることに思い至りクロムは黙った。
「お父様、あの……」
　まだ事態を飲み込みきれぬルキナの困惑混じりの声に被せて、
「大丈夫ですよ父さん。僕の荷物のなかに、“母さんの外套”が入ってますから。それをルキナさんに着てもらいましょう」
「構わないのか？」
「他ならぬ、父さんと母さんのためですからね」
「ちょっと。待ってください！」
　ルキナの叫びにクロムとマークが驚いたようにそちらを向いた。
「お母様は……」
　言いかけて。なんと言ったものか分からなくなり言葉に詰まる。
「ご無事、なのですね？」
　ようやくそれだけを問うた。
「ああ。生きている。傷も ―― もう、ない」
　ルキナが胸の前できゅっと両手を組む。
「竜に変わるとは言ってたが……こりゃあまるで ――」
　竜族ではなく、ギムレーそのもののような治癒力ではないか。とは、さすがにガイアも口にはできない。こちらを、怒りを含んで睨むクロムと目が合ったせいもあるが。
「ルフレは ―― お前には何か話したのか」
「小さい方のマークが生まれるよりも前の話だが……ペレジアに護衛で同行したときに。あいつ、目が見えてなかったからな。問い詰めたらあっさり吐いたぜ？この身体は人から竜に変わる。その過程で五感が一時的に失われる」
　にやりと、ひとつ笑んで。ガイアはクロムの怒りを受け流した。
「俺は、嘘つきだから話しても構わんのだと」
「なに？」
「そう、怒るな。ルフレの唯一はお前だよ。だから話せない ―― お前がこだわりなく全てを受け入れると分かっているから。話せないんだ」
「……分からん」
　くくく、と。ガイアが思わず笑みを洩らす。不意に笑みをおさめると、ことのほか真剣な顔と口調で言った。
「なあ、クロム。正直に答えろ」
「なんだ改まって」
「ルフレと ―― イーリスと。どちらか一方しか選べないとしたら……お前はどうする？」
「！」
「いや。比べるようなもんじゃないことは、分かってて、聞いている」
「そこまで、ことは深刻か」
「最悪の場合は、そうなるだろう。ルフレもそう、考えている筈だ。お前にその選択をさせたくないからこそ、あいつは何も言えなかったんだ」
　クロムが、真剣な顔をして押し黙る。自然、あたりを静寂が埋めた。
「俺は ――」
　かなりの時を置いてから、ようやくクロムは口を開いた。

　　　◇◆◇

　ヴァルム大陸に吹く風は、以前よりも柔らかく、ルフレの頬を撫でた。
　風、というよりも、空気が柔らかい。いまのこの大陸は戦時にはなく、ゆるやかに復興の道を歩む途上なのだから。当然のことではあるのだが。
　ふと、気配を感じてルフレが顔を上げると馬車を降りたサーリャと、その夫であるヴィオールがこちらへ向かってくるところだった。
「サーリャ。―― とヴィオールはわざわざ来なくてもよかったのに」
「ぐ。出迎えに対してあんまりな言い方ではないかな。ルフレくん」
「だって。忙しいんじゃないかと思って」
「確かに。セルジュくんをイーリスに取られて目の回るような忙しさだけれどね。旧友をもてなす時間ぐらいは取れるものだよ」
　さらりと。気障な動作で前髪を払いながら言う。
「そ？ありがとう」
「分かってくれれば良いのだよ……ぐほっ」
　不意にヴィオールが激しく咳き込んだ。
「誰の許しを得て私よりも先に、私のルフレと話しているのかしら」
「何度でも言うが。俺の、ルフレだ」
「あら居たの聖王」
「お前……わざと俺を無視していないか？」
「さあ。私には、ルフレしか見えないもの」
「おお。私はもちろん特別だろうね愛しき我が妻 ―― ぐふごほがふっ」
「うるさいわ。ヴィオール」
　たまりかねたようにして、ルフレがくすくすと笑い転げた。
　その顔をまぶしそうに見つめて、
「まだ、覚悟を決めるのは、早すぎるわ」
　サーリャはそう言った。
「それは。この世界に戻って来たときから」
　ルフレは柔らかく笑むとそう返した。
　サーリャは、どこか痛ましげな視線をルフレに向けてから、
「先に馬車に乗っていて。その聖王と、話がある」
　珍しくそんなことを言った。

「まだ、間違えてはいないようね聖王」
　馬車から離れた場所へクロムを導いてから、サーリャが口を開いた。
「そう、願っている」
　なにを、と聞くことはせずクロムが応える。
「せいぜい、頑張りなさい。今回だけは ―― いくらでも手を貸すわ」
「済まない」
「ルフレのためよ。当然だわ」
「ああ。―― 済まない」
「分かっているなら、あなたの全てを賭してルフレを守りなさい」
「当然だ」
「その言葉、忘れないで」
　ふいと、それきり興味を失ったように。サーリャはクロムから視線を外した。

　　　◇◆◇

　クロムとルフレはヴァルム大陸に入ってから更に数日をかけて、チキの棲むミラの大樹へと向かった。途中、ソンシンへも立ち寄り、サイリにチキの元への案内を請うた。
「ちょうど先日、巫女様と話をいたしましたが。ルフレ殿のことを話題にされておられたのです。さすがは巫女様。私が何も話さぬ内から、ルフレ殿がこの世界に戻られたことを知っておられる口ぶりでした」
「そう。チキは、元気だった？」
「はい。まだ目覚められて間もないせいか、お起きになられている時間は短いようですが。以前とお変わりなく、お元気でいらっしゃいます」
　先日は、近隣の村から供された林檎を美味しそうに召し上がっておられたのですよ。と、どこか嬉しげにサイリは言った。
　見張りの兵と挨拶を交わし、サイリの先導でミラの大樹を登る。
　私はここでお待ちしています、と立ち止まったサイリが示す先、枝葉の生い茂る木陰に瀟洒な寝台が据えられて。そこに眠る淡い緑の髪の女性が、ゆっくりと身を起こした。
　歩み寄るクロムとルフレを順に見て、どこか眠たげな目を瞬いて、チキは言った。
「ルフレ……クロム。おはよう」
　ふわぁ、とひとつ欠伸が漏れる。
「おはよう。チキ。もう、起きても平気なの？」
「大丈夫。世界はまた、安定したから。ナーガもいずれ、目覚める筈」
　そこで、チキは真っ直ぐにルフレを見た。
「ルフレ。あなたが戻ってきたおかげね」
　あれは、そういう意味だったのかと。ルフレは唐突に理解した。
　ルフレの元を去った数多の魂 ――
　あれは、ナーガが間もなく目覚めるきざし。世界に安定の戻ったあかしであったのだ。
　それはすなわち、ルフレの存在の竜としての完成を意味していた。
「そのことで、聞きたいことがあって来た」
　チキの、人とは異なる光を宿した瞳がクロムの方へ向く。
「私に答えられることなら」
「ルフレを、人に戻したい」
「なぜ？それは不可能だわ。それにとても不自然」
「共に生き、いずれ老いて、共に逝く。それが俺たちの、望み、だからだ」
「ルフレの今の有り様はとても自然だわ。それを歪めることは、世界の理を曲げること」
「なにが、自然なんだ。こいつは ―― ただの人間だったんだぞ？」
「人間だった。戻ってくる以前は。“ギムレーの器たる資格を持つ”それでもただのヒトだった」
　チキが首を傾げる。さらさらと、淡い緑の髪が流れる。
「いまは、違うわ。ルフレの器は大きすぎる。ルフレという存在は既に大地の一部として機能している。世界を支える要石として、ナーガと並ぶ、太い柱として。その均衡を崩すということは、世界のバランスを壊すということ」
　話し疲れたのだろう。チキが一度、吐息をつく。
「竜巻、津波、干ばつ、地震、豪雨、山火事」
「なに？」
「全部、そう。ギムレーの完全なる消滅によって、世界に空いた穴が起こした天災」
　そうなることは、ナーガには分かっていたのだと。チキは言った。それでも、ギムレーは ―― 地の竜は生まれ変わる必要があったと。それほどまでに深く、絶望に染まってしまっていたのだと。
　本来ならばゆるやかに、世界に空いた穴は修復されて。ギムレーであった強大な闇は数百年の後、新たな地の竜として生まれ変わる筈だった。けれどルフレはファウダーの操る邪術によって不自然なかたちで呼び戻された。ギムレーだった闇を肉として纏った新たなる地の竜として。―― ファウダー亡き今となっては定かではないが恐らくは、新たなる破壊と絶望の竜とするために、この世界に呼び戻されたのだった。
　黙って、静かな眼差しでクロムとチキの会話を聞いていたルフレが、口を開いた。
「あたしも。チキに教えてほしいことがあったのよ」
「私に答えられることなら」
　クロムに対したのと同じ応えをチキが返す。
「人に戻る術がないのは分かったわ。なら、この命を終わらせる方法を教えて」
「ルフレ！」
　声を荒げたクロムを、ルフレが静かな瞳で見返す。
「―― あたしには、自信がないの。この身体が神のものだとしても。あたしのこころは人間だわ。これからも、ずっと、変わりなく。ヒトのこころは永遠なんて時間には耐えられない。それにあたしは、人を愛する。憎むこともある。それは、あたしを邪竜に変えてしまう ―― 世界を滅ぼす存在に」
「ルフレ」
「なぁに、チキ」
「あなたはもう、決めてしまったのね。私の声はもう届かないぐらいに、固く」
　どこか痛ましげにチキが言う。
「……そうね」
「今ならばまだ方法はあるわ。覚醒したナーガの牙とその使い手がこの世にある内は。クロムがファルシオンでルフレを貫けば、ルフレの命は終わるでしょう ―― またしばらく天変地異は起こるけど……百年もすれば収まる筈」
「ありがとう、チキ」
「ギムレーが滅び去ったこの世界で、今後ファルシオンを覚醒させ得る者があらわれる可能性は低い。だからこれは、ルフレが人の子として命を終われる最後のチャンス」
　ふと、感情を宿さぬチキの瞳が、ルフレからクロムへと転じられた。
「あなたの選び取る未来が、幸福とともにあることを祈るわ」
「ああ。俺も、そう、願っている」
　はあ、と、一際大きく吐息をついて。チキは再び深い眠りへと落ちた。

　ルフレが、どこか吹っ切れた顔でクロムを見上げる。
「クロム、ここで……」
　別れましょう。そう言いかけたルフレの言葉を遮るようにして、クロムは言った。
「さあ、帰ろうか」
　少し遠乗りに出ていたぐらいの気楽な調子で言われた言葉にルフレは咄嗟に返事を返せない。
「帰ろう。イーリスへ」
　―― どうして。
「どうして、そんな……だって、もう、あたしは……」
　―― 人間では、ないのだ。それは覆らない事実であると、いま、神竜の巫女の口からも聞いたことだ。二度と、イーリスへ、聖王妃として戻れる筈もない。
「隠し通せば良い」
「―― そんな」
「女というのはいつまでも若くあろうとするものだろう？多少年を取らないからといって、すぐには怪しまれない」
　こんな時なのに、冗談めかしたクロムの声。
「でも」
「それにもし怪しまれた時には、ギムレーを滅ぼすためにその身を捧げた後遺症だとでも言えば良い」
　目を逸らし、一息にそう言い切った。
「クロム」
「言うな」
「……クロム」
「頼む」
「クロム、お願い……」
「頼むから。俺の傍を離れるなどと、二度と、言うな」
　目を合わせぬまま、クロムの腕がルフレを抱き寄せる。
「―― 俺に……おまえを手にかけろなど、頼むから、口にしないでくれ」
　きつく抱きしめる腕に身を任せながら、ルフレは諦めたように長い睫毛を伏せた。






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2013/4/25