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『覆水』
５． 朝焼けに照らされたその光景に、ルキナとマークは息をのんだ。 イーリス城の城壁からも分かる、人の海。十万、とマークが言った、その言葉の正しさを示すような数多の人影が丘を埋め尽くしていた。 近づいて見る事が可能であったならば、その全ての人が面ですっぽりと顔を隠していることが分かっただろう。麻袋にふたつ穴を空けただけのものを被った農民風の者も居た、鉄製の兜の面をふかく下ろした騎士も居た、異なる階級の ―― 素顔を隠した人々がひとつの意志に導かれて、そこに参集したのだった。 「マーク」 未だ、眼前の光景を受け容れられぬ呆然たる口調でルキナが言う。 「―― ルキナさん、覚悟を決めてください。僕たちはこの場を護りきらなくてはいけません。城の人々を、まだ小さいこの時代の僕たちを ―― 何よりも、父さんと母さんの帰って来る場所を」 眼前の光景から目を逸らすことなく、きっぱりとマークが言う。 きゅ、と、ルキナは一度かたく瞳を閉じてから、 「はい。私は、私に出来る最善を尽くしましょう」 再び開いた瞳に強い意志を宿し、凛とした声音でそう言った。 「真正面からぶつかるのは得策ではありません」 淡々と、マークが言う。その声音に絶望の色は見られない。 「そうですね、あの数では……」 「それもありますが。彼らも、イーリスの国民の筈です」 マークの言葉に、ルキナがはっと押し黙った。 「とても真摯にナーガを信仰している。ただそれだけの理由で、あそこに集まっているだけの。本来ならば僕らが護らなければならない、民たちの筈なんです」 ふと、マークが静かに瞳を伏せた。琥珀色の瞳が思考に沈む。 マークは背後を振り向くと、彼らの後ろから同じく城の彼方に広がる群集をたしかめていたフレデリクを見上げて言った。 「フレデリクさん、いまこの城に魔道師は」 「確か昨日から、ミリエルさんがロランさんを伴っていらっしゃっていた筈です」 「珍しいですね」 「なんでも、魔法理論に関する最新の論文がようやく完成したとかで。学会に発表をなさりに来ていらっしゃるようです」 そうですか、それは是非聞いてみたかったなぁ、とマークが軽口を叩く。 「ミリエルさんが居るのは、運がよかったかもしれませんね。案内してください」 打って変わった真剣な声音に、フレデリクが静かに頷いた。 王都に近づきつつあった群集の動きが一斉に止まった。 迎え撃つ騎士団が攻め寄せてきた、というのではない。もっと根本的な理由で彼らは歩みを止めざるを得なかったのだった。 彼らの視界を、真白な霧が塞いでいた。 不意に強くなった風がどこからか運んできた風が十万の群集を覆いつくし、前に翳した手の形すらあやふやになるほど濃く、視界を奪っている。 再び吹いた強い風に乳白の霧がさらわれて。視界を取り戻した彼らは、別の意味で、再びたたらを踏んで立ち尽くすこととなった。 彼らの進む正面に確かに存在した筈の。あと数刻もすれば包囲が叶った筈のイーリス王都が、王城が、綺麗に消えうせていたのだ。 慌ててあたりを見回した人々は、自身の後ろに、先ほどと同じだけの距離を置いて ―― ただし、まったく反対の場所に ―― 聳え立つ白亜の王城と王都を見つけ出し。 粛々と方向を転じて行軍を再開させた。 「―― 幻の村の、応用ですか」 マークの提案に、ミリエルが興味深そうに応じた。無意識に、ずり落ちた眼鏡のつるを押し上げる。 「王都は、あの時の村とは比べ物にならないぐらいに大きいですし。気候も随分違っていますが」 「興味深いですね。先ごろ構築した新しい魔法理論の応用で、可能になるかもしれません」 眼鏡の奥、怜悧な光をやどした瞳が光った。 「うまくいけば、あれで数日は時間を稼げるでしょうか」 方向を転じた十万の群集を、黄金に輝く瞳で追いながらマークが静かにそう言った。 「あちらに優秀な魔道師がいれば、気づかれる可能性はあります」 「たぶん……あちらに魔道師は、いないと思いますよ」 「何故、そう断じるのですか」 「ミリエルさん。あなたは、神を信じていますか？」 マークの唐突な問いに、ミリエルの眼鏡の向こうの瞳が瞬いた。 「―― 神、の。存在の有無は未だ実証されていません。神竜、という意味でしたら、その存在は理解しています」 「ああ。質問の仕方を間違えましたね。あなたは、神を信仰していますか」 「いいえ。私には、信仰、という考えは存在しません」 「ですよね。それが答えです」 満足そうにマークが言った。 ◇◆◇ 空から舞い降りたお下げ髪の少女は、クロムとルフレを前にして、息も整わぬ内に語り始めた。蒼白な顔色で言い募るンンの言葉を聞くうちに、クロムとルフレの表情が険しくなってゆく。 「それで ―― 王都は」 静かに、クロムが問う。 「いまはマークとルキナが護ってるです。クロムさん達が戻るまで、絶対死守、て言ってたです」 「あいつらのことは信頼しているが」 「一刻も早く戻るに越したことはない、けど」 ここからイーリス王都まで、陸路と海路、どんなに急いでも軽く一月はかかる。飛翔してきたンンですら、数日を要しているのだ。一時も無駄にはしたくない、が、一瞬で飛ぶ法も彼らにはない。 「あいつなら、何か良い呪術を持っているんじゃないのか」 「サーリャが？―― そんな、都合の良い術、あれば良いけど」 やや呆れたように返したルフレが、ふと眉を顰めた。 なにかの音を聞き分けるように、耳元に手をあて瞳を細める。 「なにか、来るわ」 「今度はなんだ」 「……嫌な感じはしないんだけど」 彼らの目前に青銀に輝く魔法陣が光を放ちながらあらわれた。 「―― っ。また刺客か」 クロムが身構えるのをルフレが制する。 「違うわ、クロム ―― たぶんこれは」 光が薄れ、そこにあらわれたなよやかな女性を前にして。クロムとルフレが同時に言葉を発した。 「伯母上」 「斎宮さま」 イーリスの、ナーガの神殿の奥深く在る筈の斎宮は、淡い笑みを浮かべこう言った。 「あなた方の居場所を探りだすのに随分と時間を取られました。もう一刻も猶予はありません。すぐ、イーリスへ飛びますよ」 ルフレが真っ直ぐに斎宮を見つめる。どこかクロムに似た、淡い金髪の女性の若草色の瞳には一点の曇りもない。 「斎宮さまは、ナーガのことを」 「わたくしは、神竜に仕える身。けれど、“盲目的な信仰”はそれとは別のことなのですよ」 さらりと、とんでもないことを言う巫女だった。 「いまは、時が惜しいのでしょう。今起こっていることは、ナーガ様の本意ではありません。それを正すためには、クロム、あなたの力が要る」 クロムとルフレは一度だけ視線を交わし、斎宮の作り出す光の円のうちへと足を踏み入れた。胃の腑の浮き上がるような、奇妙な感覚がふたりを包んだ。 ◇◆◇ 西の空から徐々に迫る黒雲を目にして、マークが眉間に皺を寄せた。 「あれは、まずいですね」 イーリス城にナーガの信徒 ―― 光の使途たちが攻め寄せて、彼らをミリエルとロランの開発した幻覚を立ち上げる魔法で惑乱し、本来の城から遠ざけて。それからも幾度か幻の霧で彼らを包み、その度に城の幻影を投影する位置を変えて本来の彼らの目標 ―― 王都への進軍を遅らせて。 最初に敵影を確認してから既に、五日が経過していた。 マークがまずいと言ったのには、理由がある。 今ミリエル達が行使している魔法には発動のための条件がいくつかあるのだが。その一つが、凪いだ大気、なのだった。幻の村では砂嵐が、村々を隠す条件だった。今回の場合は、霧だ。風魔法の応用から作り出された大量の霧がスクリーンの役を果たし、十万の群集に鮮明な幻を見せている。 そのため、強風や、まして降雨は命取りとなる。 「これまでのようですね」 既に、光の使途たちが現在布陣する丘の向こうでは雨が降り出した気配だ。微かに湿り気の混じった風を頬に受けながら、マークはフレデリクに ―― 騎士団に兵を展開するよう指示を出すべく踵を返した。 その、足が止まった。 いぶかしげに眉を顰めたマークが、なにかの音に耳を澄ますように瞳を細める。 マークの視線の先、城壁の内にある中庭で魔法陣が淡く輝きを放ちながらあらわれつつあった。 思わず駆け出したマークが、青銀に輝く魔法陣の目前に辿りついた時、そこからみっつの影が姿をあらわした。 「父さん、母さんっ」 息を切らしながら、どこか嬉しげに言ったマークの頭をクロムの無骨な手のひらがくしゃりと撫でる。 「―― さあ、始めるわよ」 ルフレの凛とした声音があたりに響いた。
2013/5/26
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