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『覆水』
６． 転移の魔法とはいっても一瞬で移動が叶うわけではない。特に今回のように、大陸を跨いでの移動となると、それなりの時を要する。それでも、一月はかかる筈の距離をおよそ半刻で越えられるのだから。一瞬と、そう変わりはないのかもしれなかった。 ナーガの斎宮が繋いだ“道”を、ルフレは急ぎ足に進んでいた。クロムの姿は見えない。“道”に入った時から、ルフレは一人きりだった。 以前この道を使ったときには、クロムも斎宮も共に居たと記憶している。 斎宮の、なんらかの意図なのか。ルフレの肉体の変化が影響しているのかは、判断のつかないことだった。 それでも、いまは斎宮を信じて進むしかない。 ふと、ルフレが歩みを止めた。いつの間にか彼女の前に斎宮の姿があった。 「歩みながらで構いません。少し、話を」 「はい」 「光の使途を止めるすべ、検討はついていますか」 「ナーガを目覚めさせること」 「では。ナーガ様を目覚めさせるすべは」 「……覚醒の儀」 「正解です、が。少し違います」 静かな語調で斎宮がつづける。 「ルフレさん。あなたが、覚醒の儀を行うのです。いまのあなたは地の竜としては完成していますが。いまだ目覚めては、いません」 「目覚める、とは」 「正確には、その器を目覚めさせる必要があります。ただし ―― 竜の器が完全に目覚めれば、あなたの魂はそこに留まれないかもしれません」 躊躇いもなく、淡々と、つづく言葉。 「それは本来空虚であるべき器。地の力を正しく循環させるための装置」 それでも、と、付け足して。 「あなたの魂のかたちと大きさが、ただしくその器に沿っていたならば。あなたはそこに留まれるでしょう」 「そんな。あたしは、あたしのこの魂は。ただの人間のものです」 「ならば、竜の器の完成とともに、あなたの魂は昇華されるでしょう」 「…………」 「それを、どこかで望んでいますね」 「―― はい」 「人の子の魂が、いずれ闇に飲まれることを畏れていますか」 「はい」 「空虚な器にもいつしか澱のようにして、人の子の念は凝るもの」 うたうように、淡々と。斎宮が言葉を綴る。 「あなたがそこに留まるか否かと、地の竜が狂い果てるか否かに。関連性はありません。その時を早めるか遅らせるかの、違いしかない」 どちらがそれを早めるのかすら、断定のできぬことですが。そう言って。斎宮は真っ直ぐにルフレを見つめた。 斎宮の繋いだ道を抜け、降り立ったイーリスの城は一見平穏に見えた。ルフレの“瞳”が知覚する範囲に敵影は見えず、白亜の王城にも、城下にも浮き足立ったところはない。 「中庭 ―― だと狭いわよね。やっぱり外の平原が一番安心……」 考えをまとめるように、ぽつぽつとルフレが呟く。 「マーク、敵は」 「いまは王都から半日の距離に。ミリエルさん達に手伝っていただいた幻影で留め置いていましたが ―― この天気では、もう」 マークが示す先、徐々に広がる黒雲があった。 「なるほど」 再び考えに沈みかけたルフレの頭を撫でる、大きな手があった。見上げる。琥珀と深青の視線が絡まる。 「なにを、考えている？」 クロムの瞳に宿る光には、信頼と苦悩と、恐れの色があった。彼をそれほど恐れさせるものなど、今は唯一つしかない。すなわち、彼の半身を喪うこと。 「クロム。覚醒の儀、できるわね」 琥珀の瞳には、どこまでも優しい眼差ししか宿ってはいない。 「―― ああ。だが、なんの意味がある」 「光の使途を導く ―― いえ、今はもう、操ると言ったほうが正確かしらね。操るのは、ナーガの無意識」 クロムの方を振り返り、どこか噛んで含めるようにして。ルフレが説明する。 「神竜の。天の竜の抱く、地の竜への根源的な恐れが敵意となって、あたしを殺すように人々を誘導してるのよ」 だから、と言葉を続けようとしたルフレが不意に押し黙った。クロムも、ただならぬ気配 ―― 殺気にも似た ―― を感じ取り、ぴしりと固まる。 悪寒にも似た威圧感の発生源を辿るように、クロムとルフレはそろりと背後を伺った。 にっこりと、表情だけは満面の笑みを浮かべた鎧姿の男女 ―― フレデリクとセルジュがそこには居た。 「思っていたよりは、お早いお帰りでしたね。クロム様、ルフレさん」 「あ、ああ」 「ええと。ただいま。フレデリク、セルジュ」 にこりと、申し合わせたように同質の笑みを浮かべたふたりの、フレデリクの方が口を開いた。―― どちらにしろ寸鉄釘を刺す言葉がもたらされることに変わりはないのだが、と首をすくめたクロムとルフレに、存外優しい声が告げる。 「クロム様」 「ああ。フレデリク、その、だな」 「よく、ルフレさんをイーリスに連れ帰ってくださいました」 遮るように言われた言葉にクロムが絶句する。どうやら、説教ではない、らしい。 「ルフレさん」 「なあに、フレデリク」 「お帰りなさい」 「―― ただいま」 黒衣の袖を引かれ、ルフレがセルジュの方を見た。 「では、ルフレさんはこちらへ」 「へ？あの、あたしちょっと、とりあえず一人で策を ――」 「大丈夫ですよ母さん！彼らは、夜には動かないようです」 黒雲に覆われつつある西の空に、太陽が落ちかかろうとしていた。 「ああ。それはナーガが昼を司るからなのかも……ってそういう問題じゃなくて」 「あら。勝手に城を空けておいて、更に一人で篭ろうとするの？」 「ええと、そもそもどこに連れて行く気？」 「ちょっと、女子会でもしましょう」 「セルジュ……」 ルフレがふと眉を顰めた。フレデリクとセルジュに背後に立たれた時とはまた違う、言いようのない悪寒を感じたからだ。 「…………うふふふふ」 と、陰鬱に笑う声を聞いたときには手遅れだった。 ―― どさ。 「あらあらまあまあ」 「ルフレっ」 「！！？？？」 背中に強い衝撃と重みと感じてルフレは前のめりに倒れた。一瞬、なにが起きたのか理解できずにルフレがぽかんと緩んだ視線を頭上に向けた。 さらりと、漆黒の髪が視界に落ちかかる。 「……上手くいったわ」 「サー……リャ？」 「ルフレの背中、久しぶりだわ」 うっとりと微笑みながら、サーリャがルフレの背に頬を寄せる。 「あの。とりあえず、どいてもらえるかしら」 「あら、そうね。ごめんなさい」 それでようやくサーリャはルフレの背から降りた。クロムに助け起こされて、ルフレが苦笑混じりに言った。 「ほんとにイーリスまで飛べるような呪術があるなんてね。斎宮様のお手を煩わせることもなかったみたい」 「あら。これは転移の術ではないわ ―― ルフレの、背中に移動する呪い」 しんと、あたりが静まりかえった。 「…………サーリャさん」 「なに、ルフレ」 名を呼ばれたのが心底嬉しいのだろう。うっとりと微笑みサーリャが言う。 「いつ、仕込んだの。というか、なにをしに来たの」 「ヴァルムで、ルフレを出迎えた時に。私を差し置いてルフレを囲んでおしゃべりなんて許せないから、邪魔をしに」 どうやら会話も届いていたらしい。 「なら、サーリャも一緒に行きましょう」 セルジュの、見かけよりもかなり力強い腕が、背後からルフレとサーリャを抱きしめた。 「ルフレさん、まだそんなとこに居たの。マリアベルが淹れてくれたお茶がまずくなっちゃうよー！」 城のバルコニーから大声で呼ぶリズの方へ向けて、セルジュが二人を強引に引っ張っていく。ルフレが諦めたようなため息を吐き出し、サーリャがふん、鼻をならした。 「なら、俺も一緒に」 と続こうとするクロムを、誰かが腕を引き、止めた。 そちらへと視線を向けた空色の瞳を真っ直ぐに見据えたのは、綺麗な薄荷色の瞳だった。 「お前は、こっちだ」 にやりと、棒つき飴をくわえた唇が笑みを浮かべた。 翌日、太陽が中天にかかろうかという時刻。王都から少し離れた位置に、万一の時のためにと展開する騎士団と、その先頭に立つ聖王夫妻の姿があった。 そして、緑萌える丘の向こうからじわじわと迫りつつあるのは、光の使途。 軽々と炎の台座を掲げようとしたクロムを、ルフレが制した。どうしたのかと目で訊ねる夫にルフレが淡々と言った。 「クロム、炎の台座をあたしに貸して頂戴」 「ルフレ？」 「ナーガを目覚めさせるために必要なのは、クロムの行う覚醒の儀ではなく、あたしが覚醒することなのよ」 「なにを、言っている？」 「地の竜が安定化すれば、天の竜であるナーガも完全に目覚める。そうすれば、光の使途の呪縛はおのずと解ける」 炎の台座を受け取ろうと伸ばしたルフレの手から、クロムが炎の台座を遠ざける。 「それで、おまえはどうなる」 「………………」 「ルフレっ」 「大切なのは、地の竜のうつわ。この肉体が竜として完全に覚醒した時に、あたしの精神がもとのまま残れるのかは、分からない。そう、斎宮さまに言われたわ」 「そんなことを聞かされて、俺が素直に渡すと思ったのか」 ルフレが静かに微笑んだ。 ここ数年、目にしたことのないような。とても穏やかな ―― 晴れやかな微笑だった。 「クロム、聞いて」 「嫌だ」 「どちらにしろ、あたしは長くはイーリスには留まれないわ。いつまでも年をとらないあたしの存在は人々に不安を与えるばかりだもの」 「聞きたくない」 「イーリスは、大丈夫。フェリアはもちろんしばらく安泰だし。ペレジアも ―― まだ時はかかるでしょうけど、あたしの自慢の弟だもの。きっと、大丈夫だわ。だから ――」 「言うな」 これで、もう ―― 「もう、思い残すことはないわ」 「言うなっ」 「クロム ―― お願いよ。炎の台座をあたしに渡して」 ざわ、と、胸の裡でなにかが激しくざわめくのを、クロムはどこか他人事のように感じていた。自身の手のひらが、彼の妻の頬を打つのを。 ぽかんと、体勢を崩したままクロムを見つめるルフレの瞳が困惑に揺れる。 震える声音を抑えることもせず、クロムは思いをそのまま口にしていた。 「二度と ―― 二度とおまえを喪うつもりはない」 ふるりと、ルフレが首を振る。 ルフレの指先が、労わるようにクロムの頬に添えられた。こめかみに触れた指先から放たれた電撃がクロムの脳髄を麻痺させて。一瞬にして身体の自由を奪った。 長身が、くずおれるように膝をつく。 呆然と見上げる瞳から視線を逸らし、ルフレはクロムの手からそっと炎の台座を取り上げた。 その唇が遠い昔、彼女の母から伝え聞いた祝詞を、うたうように口にした。
2013/6/5
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