連理の枝

『連理の枝』

～序～　２．

腕のなかでルフレが身じろぐのを感じて、クロムは彼女の髪を優しくすいていた手を止めた。
「どうした？」
ルフレの顔を覗きこむと、琥珀の瞳が今は金色に輝いているのが分かった。
彼女の視線は扉の方に向かっていた。
一度瞳を閉じて、再び開いたその色は元の琥珀色で。
「――行き先は、ペレジア？…ギムレー教団は、まだ、ひとつにまとまっているのね」
ルフレの言葉を聞いて、クロムの瞳にも真剣な光が宿る。
「扉の外。クラス、グレートナイト――フレデリクと。ソシアルナイト…ソワレ、ね」
ルフレの言葉を証明するように扉がノックされ、フレデリクの声が訪いを告げた。
「クロム様――よろしいでしょうか」
「ああ、入ってくれ」
答えながら、腰かけていた寝台から立ち上がる。
ルフレがゆっくりと身を起こすのが、視界の端に見えた。

「久し振りだねルフレ。また会えて嬉しいよ」
「あたしも。会えて嬉しいわ、ソワレ」
燃えるように赤い髪をした女性だった。
イーリス正規軍の鎧をきっちりと身につけた。
ルフレの記憶にあるよりも少し伸びた髪は、襟足のあたりでひとつに束ねられていた。
「……………あ。」
急にまじまじと自分を見つめるルフレに、ソワレは尋ねた。
「ボクの顔はそんなに珍しいかい？」
「ソワレ、あなた…」
ルフレの瞳が一瞬金の光を宿すのをソワレは認めて苦笑した。
「ああ…失敗したな。キミのその目が特別製なのを忘れていたよ」
「クロム、フレデリク」
「なんだ？」
「なんでしょうか」
「イーリス正規軍が人材不足なのは分かるわ…ソワレが優秀な騎士で指揮官でもあることも」
咎めるように、言う。
「だからって、お腹に赤ちゃんが居る女性を前線に行かせるのは、ダメよ」

長い沈黙がおりた。
クロムとフレデリクが、恐る恐るソワレの方を見た。
「なんだい。ボクだって人の妻なんだ。妊娠したっておかしなことはないだろう」
「ソワレおまえ」
「ソワレさん…」
クロムとフレデリクの声が見事にハモる。
「そうじゃないかとは思ってたんだけどね。『かも』で軍務は拒否できないだろう」
にやりと笑うその顔が男らしい。
「でもルフレのお墨付きももらってしまったことだし。大人しくここに残ることにするよ」
どこか残念そうに言う。
「あたしも経験したから分かるけど、そのぐらいの時期って外出するのも辛かったわよ」
「ああ。ボクの場合は大丈夫みたいだね。むしろこのことを夫に話したら家のなかに閉じ込められそうで…」
真剣な顔をして、もう少し黙っていようか、などと呟いている。
「そういう訳だから、ボクの隊は適当に他の隊に組み込んでくれるかな」
「そうですね…私の隊とソールさんの隊で分ければ指揮にそう影響はないでしょうから…」
そう答えるフレデリクにルフレが言う。
「フレデリクは、クロムの近衛隊よね。ソールは前衛で――歩兵隊はカラムの指揮かしら。それなら、ソワレの隊は全てソールの隊に組み込んで、前衛で使う方が効果的だと思うわ」
「しかし、ソールにいきなり倍の人数を、しかもボクの指示しか受けたことのない兵の指揮をさせるのは、難しいんじゃないかい」
「ソールなら、きっと大丈夫。通るのは領内なんだから、進軍しながら訓練を行えば良いのよ。重装歩兵を伴う行軍ならば、ペレジア国境までは４日――今の時期の南西の大平原はもう種まきの時期だから、迂回するための日数を入れて５日から６日。それなりの形にはなる筈よ」
「残念ながら、カラムは先行しているんだ。大平原を迂回するのはその通りだけど、騎馬だけの行軍で、先行隊に追い付くために急ぐだろうから。せいぜい２日。まあ、ぎりぎり使える程度にはなるかもしれないね」
ソワレはそう言って、フレデリクに確認を取る。
「そうですね…ルフレさんの案を採用させていただきましょう」
「それで、反乱の詳細は分かっているの？」

「――ルフレ」
更に詳細な策を授けるために質問を続けるルフレを、クロムの静かな声が止めた。
「今は、休め」
きょとんと見上げるルフレに、ゆっくりと言い聞かせるようにして言う。
「でも…」
戸惑いを含んだ琥珀の瞳。
「そうだったね。キミは丸二日眠り続けてさっき起きたばかりの病人だった」
ソワレがどこかきまり悪そうに言うと。
「では、私は進軍の準備に戻ります。――準備が完了したことをお伝えに来たのですが…編成に変更が出ましたので、もうしばらくお時間をいただきます」
フレデリクがそう続けた。
「ボクも手伝うよ」
「ああ、俺もすぐに向かう」
クロムが答える。
「それでは、失礼いたします」
「ルフレ、あとでまたゆっくり話をしよう」
「ええ。ソワレ、楽しみにしてるわ。フレデリクは気をつけて――ソールとカラムにもよろしく伝えておいてね」
「かしこまりました」
そう、言葉を残して、フレデリクとソワレは部屋を出ていった。

「…さて」
フレデリクとソワレの気配が遠ざかるのを見届けると、クロムは再び寝台に腰かけて言った。
起き上がったままの姿勢で、両手を揃えて膝の上に乗せ、クロムが口を開くのを神妙に待っていたルフレの、気まずそうな瞳と目があった。
「お前のその頭の中身は、どうなっているのかと時々思うぞ」
そう言って、優しく頬に触れる。
フレデリクとソワレはクロムが話したとでも思っていたようだが、クロムは兵を出すことも、その目的も、隊の編成も何一つルフレに伝えてはいないのだ。
「論理的思考と、帰結」
「なんだ？」
「以前読んだ戦術書に書いてあったの。答えは、実は目の前にある全てのものが指し示している。あとは、それを読み解く思考の訓練をしているかどうか」
そっと、自分のまぶたに触れる。
いまは琥珀色にたゆたう彼女の瞳。
「この、目で視えるのは、兵士のクラス、それに装備品ぐらいのものだから。それだけでは、確実な勝ちは得られない」
小首を傾げ、自重するように薄く笑む。
「こんな力なんかよりも、戦の流れを肌で感じられる者、何よりも諦めずに考え続けられた者だけが、勝利を呼び込むことができる」
自分に言い聞かせるように、そう言った。
「ああ。それならなんとなく分かる」
「――フレデリクとソワレは完全に武装していて、鎧には新しい傷はなかった。これから出陣する証拠。クロムがあたしを見つけてくれたのは、城から南の方角にある、あたしたちが初めて出会った草原と同じ場所。あの場所に用があるとすれば、視察の可能性もあるけれど、この時期にペレジアへ向かう迂回路として通った可能性が高い。――歩兵隊を先に行かせたことだけは、読みと違っていたわね。あたしも、まだまだ勉強が足りないみたいだわ」
頭の中のノートを暗唱するように、一気に言った。最後の台詞を言ったあと、口許には微かな笑み。
「そう説明されれば、なんの不思議もないことは分かるんだが…」
しかし、と、クロムは苦笑する。
あの一瞬でそこまでのことを見てとって、結論を出しているのだ。努力や訓練、などというものを超越した才能――天才、その言葉をどうしても思い浮かべてしまう。
それを言えばルフレは嫌な顔をするだろうから、決して口には出さないが。

「――クロム」
「なんだ？」
「あたしが眠っている間、クロムはずっと側に居てくれた。意識はなかったけど、なんとなく、分かるの」
「――ああ。あんな状態のおまえを置いて、どこかに行くことなど出来そうもないからな」
「だから、急ぐ行軍ではないと思ったのよ。それなのに、カラムの隊を先行させたということは…それだけペレジア内での戦況が逼迫しているということ」
「……おまえに隠し事はできないな。そうだ。先行させたカラムたちに追い付くためには二日、それ以上は城には居られない。お前がもし目覚めなくても、ぎりぎりまで側にいるつもりだった」
話すつもりはないのだろう。戦況については触れずにクロムが言った。
「――っ、そんなことをしたら」
ほとんど休息を取っていない身体でまる二日も強行軍をすれば、どうなるか。しかも、そのあとには戦場で戦わなければならないのだ。
一軍の大将ならば、普通は旗本に守られて十重二十重の軍勢の奥から指揮を取るものだが。クロムは必ず最前線に立つ。
取ればそこで勝ちが決まる大将首が目の前にあるとなれば、自然、彼の元に攻撃が集中することは分かりきっているのに、だ。
ルフレの言いたいことが分かったのだろう。クロムは優しく微笑むと彼女にキスをした。
「大丈夫だ。俺は負けん。いらん心配をするぐらいなら、その身体を回復させることに専念していろ」
もう一度、ついばむように口づけると、ルフレの耳元で何かを囁いた。
かっ、とルフレの頬が一気に朱に染まる。その瞳が微かに潤んで金色を帯びるのを愛しげに見つめながらクロムは立ち上がった。
「安心しろ。すぐに帰ってくる」
まだ言葉を紡げずにいるルフレの唇に、ちゅ、と音をたててもう一度口づける。
「――行ってらっしゃい」
まだ頬をほんのり染めたまま、ようやくそう、口にした。

クロムが出ていくのと入れ替わるようにして、グラスをのせた盆を持ったサーリャが部屋に入ってきた。廊下で待っている気配もなかったのに絶妙なタイミングだった。
「厨房で冷やした果汁をもらってきたわ――飲めそう？」
「ありがと。もらうわ」
言って、グラスを受け取った。
「――サーリャ」
「分かってるわ…なにから聞きたいの？」
寝台の脇に置かれていた椅子に腰掛けるとサーリャは言った。
「じゃあ。軽そうな方から聞こうかしら。サーリャ、どうしてイーリスに居たの？」
サーリャの住まいはイーリスにはない筈だった。しかしルフレを診るために呼ばれたにしては到着が早すぎる。
ルフレは頭のなかで色々な可能性を検討してみたがぴたりと嵌まる結論は得られなかった。
「視えたから」
「――みえた？」
「ギムレーが消滅したあと世界に空いた巨大な穴が急激に塞がって一点に収束するのが、力のある術者になら視えた筈よ。だからきっと、あなたが帰ってくるんだと思って――悔しいけれど戻ってくるならばあの聖王の元に決まっているから、ここに来たの」
サーリャの言葉を聞きながら、こく、とグラスを満たした果汁をひとくち飲む。
「それと、この、外見」
自分の最後の記憶にあるよりも、数年若い。長く伸ばしていた髪も今は肩を少し越える程度の長さで、身体のあちこちに言葉にはできない違和感がある。
「それは私にも分からないわ――でも、自分で何となく検討はついているんじゃないの」
「……そう、ね」
言って、記憶にあるよりも柔らかい自分の頬に触れる。
「サーリャが治療してくれる前、あたしの記憶は嵐の中みたいにごちゃごちゃだった。確かにあたしの記憶だと思えるもの、よく似ているけれど違うもの――そしてたくさんの苦しみの記憶」

――イタイコワイクルシイタスケテ

今はサーリャの呪いが効いて聞こえなくなった、声。
限りない恐怖と絶望と怨嗟の叫び。
ともすれば飲み込まれそうになる記憶を振り切るように、ルフレは一度瞳を閉じた。
再び開いた瞳の中にあるのはただ静かな琥珀の輝き。
「その中で唯一個を保っていたのが、あたしが生まれてからクロムに出会う直前までの記憶だった」
「もう一度言うけれど、あなた以外の記憶を取り出そうとしては駄目よ。…ギムレーがその記憶ごと欠片も残さず消滅していて良かったわ。でなければ、あの考えなしの聖王があなたの記憶を呼び起こすと同時に本当に廃人になっていた筈よ。――あなたのもの以外の記憶はまとめて丈夫な箱に仕舞って鍵をかけたから、そう簡単には触れられないとは思うけど。無理に開けようとすればあなたといえど精神が無事には済まないわよ」
釘を刺さねばやりかねないと、分かっているのだろう。念を押すようなサーリャの声だった。
「はぁい…残念ね」
ぽつりと言われた言葉にルフレを睨みつけながら、サーリャが本題を口にした。
「魂は脆く移ろいやすいもの。それを包み込むようにして在るのが記憶、そして、記憶と肉体は分かちがたくひとつのものとして存在している。肉体を喪えば記憶は霧散し、残された魂は無垢な状態に戻されて再び新たな生命に宿る」
淡々と、サーリャが語る。
「あなた自身の記憶と、未来のあなたの記憶。重なりあう部分が強固な軸となって新たな肉体が作られた。だから、それに見合った姿をとった。というのが一番ありそうなことかしらね」
「――ギムレーと共にあたしが消えたあと…」

あれは一体何処だったのだろうか。
ルフレはどこまでも続く深淵の闇の中をたゆたっていた。
ああ、自分はやりとげられたのだと、思い出す。これで、もう、思い残すこともないと。
なのにいつまでも消えない記憶と、ルフレとしての形を保ったままの魂。
不思議に思って自分の指先を見ると、そこから伸びる微かな光。
暗闇の中にあってひときわ輝く光の糸。
よく見れば彼女の全身を包み込むように四方から伸びる無数の光の糸が、見えた。
その中でもひときわ強く輝く光の糸をたどっていくと、左手の薬指にたどり着いた。

――ああ、これは絆の糸、なのね。

ギムレーと共に消滅する筈だった彼女を守る、ひかり。
彼女が愛した、彼女を愛する人たちの、ねがい。

「あのまましばらく時が経てば新しくヒトしての身体が作られたのか、それとも少しずつあたしという存在は消えていく定めだったのかは、今となっては分からないけれど…」
「そのどちらにもならなかったのね」
「――ええ。おぼろげな記憶だけど。あの時、あたしの周りを包んでいた闇が急激に迫ってきて、あたしの記憶と魂は深い闇に押し包まれた。次に気づいた時には草原で、クロムとリズがこっちを見てた」
いつの間にか空になったグラスを寝台の脇のテーブルに置くと、ルフレは自らの両肩を抱きしめた。闇に包まれた恐怖を思い出すかのように、自らの肉体の所在を確かめるように、その体温を感じるように。
「…ギムレー教の教えでは、邪竜ギムレーは世界を――大地をその身で支える神の竜だとされている。神竜ナーガがその身で天を覆うことで世界を守り、光と魂を司る存在であるように。闇と肉体を司る存在だと。ギムレーが滅びた後に世界にできた大きな穴を視て、あああの言い伝えは本当だったのね、て思ったわ」
淡々と話すサーリャの平坦な声音。彼女自身、考えを整理しながら話しているのだろう。とりとめもなく紡がれる言葉をルフレは黙って聞いていた。

うつむいていたサーリャが顔を上げ、漆黒の瞳がルフレをまっすぐに射た。
「どんな力が働いてそうなったのかは分からないけれど。あなたのその肉体は以前はギムレーが占めていた巨大な闇から作られている。竜の祭壇に捧げられた人々の、そして未来のあなたの――魂は消えた記憶がまだ残る闇を肉体としてまとったことで、あなた自身のもの以外の記憶も宿ることになったと考えるのが一番自然」
予想はしていたのだろう。サーリャにそう言われてもルフレの表情は静かなままだった。
その様子をどこか痛ましそうに見つめながら、サーリャが更に言葉を続ける。
「人間ひとりの肉体がどれぐらいの量の闇から作られているのかは私にも分からない――だから、あなたの肉体がヒトと呼べるものなのかも、分からないわ。でも、そこに宿る記憶と魂があなたという人間のものである限り――」
「ありがとう」
珍しく感情を込めてつづられたサーリャの言葉をルフレは途中で遮った。
「ありがとう。サーリャは本当のことを言ってくれるから、好きよ」
そう言って微笑む顔はどこまでも穏やかで。
「――ルフレ」
そう言うサーリャの顔の方が、今にも泣き出しそうだった。
「…少し、疲れたわ。休んでもいいかしら」
そう言われ、サーリャは諦めたように目を逸らした。
「ええ。誰も、来ないように伝えておくわ。…次に目覚めたら食事を取ること。でないと体力が回復しないわよ」
「ふふ。おかあさんみたい」
「――！余計なお世話だわ」
言って立ち上がると扉の方へと向かう。扉に片手をかけながら、サーリャは振り向くと言った。
「ルフレ――あなたの肉体が例えヒトとは違っても、私も、皆も――あの聖王も、変わらずあなたを愛しているわ」
その言葉に、はじめてルフレの表情が歪んだ。
痛みをこらえるような、泣き笑いのような笑顔。
「…ありがとう。その言葉、忘れないわ」
「あたりまえよ。二度と言わないわ」
ふん、と小さく息をもらすと、サーリャは部屋を出て行った。

　　　◇◆◇

「…………遅いです！いつまで待てばいいんですか」
そう言いながら自分の前のテーブルをバシバシ叩いているのは一人の青年。クロムの髪色をやや淡くしたような紺色の髪は短く整えられており、髪質なのかあまり跳ねたりせずに大人しくまとまっている。その瞳の色は、ルフレの瞳によく似た琥珀色だった。
「マーク、お行儀が悪いですよ」
そう声をかけたのは、クロムによく似た濃紺の髪色をした娘だった。こちらは硬い髪質なのか、長く伸ばした髪の毛先が自由に遊んでいる。咎めるように向けられた瞳の色は空の青。これもクロムとよく似た、強い意思の光を宿した瞳だった。
「だって。ルキナさん…」
言って、ぷう、と頬を膨らませる。
「…はっ。まさかサーリャさんの治療がうまくいかなかったんじゃ」
「マーク！なんてことを言うんですか！」
「じょ、冗談ですよ。冗談！そんなに怒らないでくださいよ。怖いなあ」
そう言われて、ルキナはムッしつつも言葉を続ける。
「お父様はお母様と久しぶりに再会されたのですから、もう少し、ふ、二人きりで居たいのかもしれませんよ」
「そんな。ずるいですよ！僕だって、母さんに会いたかったのは同じなのに」
そこまで言ってから、ふと姉の顔を見つめて不思議そうに訊ねた。
「ルキナさん。どうしてそんな赤い顔をしているんですか？」
「――！な、なんでもありません！」
「ふうん。ならいいんですけど」
「とにかく！もう少し、待ってみましょう」
「仕方ないですね…」
そう言ってマークは手に取った焼き菓子を口に放り込んだ。

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サーリャさんは自警団のオカルト担当。

2012/7/7