連理の枝

『連理の枝』

～イーリス編～　１１．

クロムとルフレがたどり着いたのは神殿の裏だった。イーリス教の本山だけあって、神殿の中には貴重な神器や宝物が納められている。それなりの警備が敷かれている筈だった。
ルフレの瞳が金に輝く。すぐにその色は琥珀に戻り、振り向いた瞳には僅かな戸惑い。
「警護の兵は居ないみたい」
いま神殿の正面では激しい戦闘が起こっている。そちらに回されたのだろうと思いクロムが軽く頷く。
「そうか、なら」
「でもね、たった一人で、女のひとが居るのよ。裏口のすぐ前で、どうも、手招きしてるみたいなの…」
目の前の妻であり軍師でもある女性以外にあとひとり、クロムはそんなずば抜けて勘の良い女性を知っていた。
「それは、たぶん叔母上だろうな」

扉の向こうにはやはり、クロムの叔母、この神殿の斎宮がひとり立っていた。
俗世と切り離されたとき、棄てたという名をクロムは知らない。
淡い金の髪はゆるく波打って、頬のラインに沿って落ち背中まで流れている。微笑みを湛えたくちびる。瞳の色は若草のように鮮やかな緑だった。歳は四十代の半ばの筈だった。
幼いうちから神殿内で暮らしてきた肌は抜けるように白く、けがれない瞳の輝きは彼女をずっと若く、どこか幼くすら見せた。
女性らしく細い頤の下、ほっそりとした首筋の右側にナーガの聖痕があった。
「やっと、わたくしの目を見てくれるようになりましたね。クロム」
思わぬ指摘に軽く目を見張る。
以前は、その笑顔を目にするたび胸の奥がツキリと痛んだ。そんな思いにかられ、クロムは無意識に彼女に会うことを避けていた自分に気づいた。
「以前にも増して聖王にふさわしく成長したこと、嬉しく思います」
「――叔母上、俺は…」
クロムの言葉を待たず斎宮はルフレへと視線を転じた。
「ルフレさんも。よく、戻ってきましたね」
「斎宮さま」
「すべて、理解っています。ナーガさまの御言葉を他の方々がどう受け止めたのかは存じませんが。わたくしにはよく、わかりましたから」
少女のように首をかしげると、白い装束を翻して斎宮はクロムたちに背を向けた。
「いらっしゃい。ルキナのもとに案内します」

斎宮がふたりを導いたのは神殿内にある一室だった。
聖王家の人間がナーガに祈りを捧げ潔斎に入るための仕度を整える室だ。斎宮が人払いをしたものか、供回りの者たちの姿もない部屋はしんと静まり返っていた。
明り取りの窓の傍らに置かれた石造りの簡素な長椅子に、小さな身体が横たわっていた。城から身につけてきたのだろう白いワンピースから覗く腕はふっくらとして、幼子らしい小さな手はゆるく握られている。クロムに良く似た濃紺色の髪はルフレが覚えているよりも随分と長くなっていた。
声もなく、立ちすくむルフレの肩にクロムがそっと手を置いた。視線が合う。クロムが軽く頷く。
そこから勇気を得たように、ルフレは長椅子の方へゆっくりと歩み寄った。
「ルキナ…？」
ようやく搾り出した声はどこか掠れて。ルフレの心の揺らぎをあらわすようだった。震える指先が濃紺の髪をそっとすき、ふっくりとした頬に触れた。
微かに唇と目蓋を震わせて、小さなルキナの瞳が、開いた。
ぼんやりと見つめる空色の瞳に映るルフレの顔は、どこか不安に揺れていた。
ルキナの瞳は一度きょとんと見張られて。ゆるゆると小さなワンピース姿が身を起こした。目の前にあるルフレの顔をもう一度じっくりと見つめて、愛らしい唇が言葉を紡いだ。
「おかあさま、ですか？」
「――え？」
思わずルフレは聞き返していた。
「あ、おとうさま！」
ぱ、とルキナはルフレの背後に視線を転じると長椅子から飛び降りて駆け出した。
飛びつくようにして駆けて来たルキナをクロムが抱き上げる。クロムの首にルキナがきゅ、とすがりついた。クロムが慣れた手つきで、小さな身体を潰さないよう力を加減してルキナを抱きしめ返した。
「おと…さまぁ」
幼い声が涙に濡れている。しばらくそうして顔を上げようとしなかった。
未だ幼いルキナには、両親が死んだと言われたことも曖昧で、何故ここに居るのかという疑問も起こってはいないようだった。
ぐずぐずとしばらく泣きじゃくっていたルキナだったが、ようやく落ち着くと顔を上げてクロムに問いかけた。
「おとうさま…」
「なんだ、ルキナ」
ルキナの視線がちらりと背後のルフレを見やる。
「あのひとは、おかあさま？」
「そうだ。お前のお母様だ」
「ほんとうに？」
おずおずとそう言うルキナを安心させるように、クロムはにこと笑みを浮かべた。
「俺がルキナに嘘を言ったことがあったか？」
一度も、ない。
近いうちに必ず戻ってくると父が言っていた、母が戻ってきたのだ。城で見た絵姿にあったように綺麗なドレス姿ではなかったし、化粧もなく髪も結い上げてはいなかったけれど。なんとなく、ルキナは母だと思ったのだった。直感がすぐれているのは父親ゆずりだろうか。
そして今、大好きな父親からお墨付きをもらって。ルキナはそのひとに駆け寄って抱きついた。両目いっぱいに涙をためて、あたたかい両腕で彼女を抱きとめてくれたそのひとからは、ルキナが無条件に大好きだと感じる匂いがした。

神殿の外では既に、兵と兵とのぶつかり合いが起こっていた。
神殿を守るグレンツェンの私兵の数はおよそ一万。その八割が騎馬の騎士で、後方支援としての弓兵と魔法兵が背後に控えている。
対する近衛騎士団は皆徒歩（かち）で、クロムたちが率いてきた者達だけが馬上に居た。
騎士たちは、フレデリクが日々みっちりと訓練を施している勇士たちだ。圧倒的不利のこの状況でも怯むことなく敵に向かってゆく。
長い槍を巧みに使って、向かってくる騎馬の脚を掬い、また馬上の兵を一息に貫く。そうして馬を奪い取り、次々に馬上の人となった。

騎士たちの先頭を切って敵に向かっていくのはフレデリクだ。他の騎士たちよりも大振りな槍を巧みに使い薙ぎ払うようにして敵を屠る。向かい来る敵の波が引き、一瞬あいた空隙を狙うようにして矢が飛来した。打ち落とすべく槍を構える。その頭上でおおきく羽ばたきの音がした。飛竜の羽ばたきが生み出した突風が矢の勢いを削ぎ、フレデリクは僅かに飛来した矢を軽々と叩き落とした。彼の隣に飛竜が舞い降りる。セルジュと僅かに笑み交わし、フレデリクは再び敵に向かって駆け出した。

敵と味方の入り混じる戦場にあって一際目立つ巨大なけものが居た。黒い毛並みには簡素な防具が纏われて、駆けるたびになびくのは特徴的な長い耳。ベルベットだった。巨大なけものの姿に、馬が怯えて騎馬の兵たちは近づくことができずにいる。その隣に唯一並び立つのは、ソールとその愛馬だった。息のあった動きで敵兵に向かって並んで駆ける。ソールが馬上から剣を振るい、ベルベットが後ろ足で敵を蹴散らした。
そのすぐ近くで戦うのはリベラとソワレだった。一月ほど前に娘を産み落としたばかりとは思えぬいきいきとした表情でソワレが槍を振るう。彼女の意を汲んで愛馬が自在に駆けた。その死角を補うようにしてリベラの斧が飛ぶ。長い金の髪が陽光に煌いて。戦女神もかくやというような、美しい戦いぶりだった。

戦場を舞い駆けるようにして槍をつかうのはスミアとティアモだった。息の合った動きで敵を圧倒する。イーリス聖王国の象徴ともいうべき天馬を駆るふたりに敵として相対されている、その事実がグレンツェンの兵たちに言い知れぬ威圧感を与えていた。自分たちは正義の兵であると、そう主に言われここに立っている。だが空を駆る天馬騎士に刃を向けられると理屈ではない罪悪感があるのだった。
「なんで俺がお前と共闘しなけりゃならないんだ！」
不満げに言ったのはヴェイクだった。
「僕はただスミアの傍で戦ってるだけだよ～」
「俺だって、嫁さんを守ってるだけだ！」
「スミアとティアモが仲良しなんだから仕方ないよ～」
あはは、と笑いながらもヘンリーの右手から強大な闇魔法が迸った。
憮然とした表情を崩さないままヴェイクが巨大な斧をふるった。

竜石、と呼ばれる宝玉を掲げると幼い少女は光に包まれて、次に姿をあらわしたのは淡い緑色の羽に輝く鱗を持つ竜だった。勢いよく向かってきていた馬たちが急制動をかけて止まり、怯えに似たいななきを上げた。ごう、と加減したブレスを吐き出すと驚いた馬たちがさらに下がった。美しい竜の傍らを抜けて、大剣を淡々と振るうのはグレゴだった。無造作としか見えない動きで大剣が振るわれるたびに、確実に敵が倒されていった。
青く晴れ渡る空を舞うたくさんの矢。それがただ一人の手で放たれたものであると、気づくものが居たかどうか。矢継ぎ早、という表現が相応しいだろう。ヴィオールは悠然と笑みを浮かべると新たな矢の束を弓につがえた。降り注ぐ矢の雨を抜けて向かってきた騎馬兵を襲ったのはサーリャの放つ闇魔法だった。背中合わせに立ち油断なく敵に向かうふたりの息はぴたりと合っていた。

敵の魔道士たちと対峙しているのはミリエルとリヒトだった。数にして数十倍にもなる魔法兵たちを相手に、ふたりは一歩も引けをとっていない。繰り出す一撃の威力が、使いこなす魔道書の格が、遥かに優れたふたりだった。魔術の飛び交う間隙を縫って敵に槍を繰り出すのはドニ。堅実な一撃が確実に敵を屠った。

敵にも味方にも気づかれずひっそりとカラムが戦場を駆け、確実な一撃を槍に込めて放った。

二倍という人数の差と徒歩と騎馬という不利を押し返して、少しずつ、形勢はフレデリクの率いる騎士団側へと傾きつつあった。

神殿内のルキナが居る筈の控えの間で、グレンツェンを迎えたのは斎宮だった。
斎宮は、グレンツェンの姉にあたるひとだった。彼女は前斎宮の逝去と共に十にも満たない年齢で神殿に入った。実の姉であるにもかかわらずグレンツェンが彼女にどこか近づきがたいものを感じるのはそのためでもあった。
感情の読めない曖昧な笑みを浮かべて、斎宮はグレンツェンを見つめていた。
「姉上、ルキナはどこですか？」
ゆったりとしたその様子に苛立ちながらグレンツェンが訊ねる。
「ルキナなら、両親の手にかえしました」
なんのてらいもなく斎宮はそう言われて。グレンツェンには一瞬、言われている意味が分からなかった。
「何故、ルキナを…？姉上っ、裏切ったのですかっ」
耳障りな叫び声に斎宮は心底不思議そうに小首を傾げた。
「うらぎる…？グレンは不思議なことを言いますね。わたくしは、誰の味方でもありません。ただナーガさまのご意志に従って動くだけ」
「乱心されたのですか！ナーガ様が邪竜の裔などの肩を持つ筈がないでしょう」
「グレン。あなたは、なにも分かっていないのですね」
おっとりと微笑みながら斎宮はそう言った。

衝動的に。グレンツェンは斎宮に斬りかかっていた。ファルシオンが袈裟懸けに軌跡を描く。ゆっくりと、白い衣を纏った身体がうしろに倒れた。

「きゃあぁぁっ！斎宮さまっ！だ、だれか！！」
開け放したままだった扉の向こう、グレンツェンの背後から叫び声がした。振り向くと、若い巫女が立ち尽くしていた。
「――ひっ」
睨み据えるグレンツェンの視線に耐えかねて巫女がへたりと座り込んだ。それ以上巫女に視線は向けず、グレンツェンは大股で神殿の外に向けて歩みだした。

無意識に左手を握りしめる。手袋の下、その掌にかつては聖痕があった。いまはただ火傷にひきつれた皮膚があるだけだ。
それは彼が父親から愛されていなかったという証だった。爵位も、広大な領地もなにもかも。彼を縛り付け萎縮させるための鎖でしかなかった。
ただ、父に誉めてほしかっただけなのに。それは未だに叶っていない。
『おまえは何も知らなくて良い』
そう、父の声が聞こえた気がした。

戦場を低く、笛の音が渡った。
イーリスに住まう兵士ならば誰もが知る音。休戦を意味する法螺の音が神殿の側、グレンツェンの兵たちの後ろから朗々と戦場に響き渡った。

動きを止め距離を置いて対峙した兵達の先頭に、ルキナとマークの姿もあった。
慣れぬ長剣と乗馬での戦闘にマークは息を乱している。戦場の空気を映したような厳しい瞳が見据える先、敵兵達の間にざわりとなにかが伝わった。
騎馬の兵たちが道をあけ、一頭の白馬を通した。その背にあるのはグレンツェンだ。斎宮を切り捨てた時に見せた焦りと残忍さはなりを潜めて、落ち着きと冷たい微笑が表情を彩っている。
衝動的に斎宮を斬ったことはいずれ知れ渡るだろう。そうなれば、今は事態を静観し神殿の警護に留まっている神兵たちはグレンツェンの敵にまわる公算が高い。兵力の差に怯むことなくクロムの率いてきた兵と騎士団の連合はグレンツェンの私兵を押し返しつつある。加えて小さいルキナはクロムの手に戻った。
いま一気に決着をつける必要がある。そう考えての一騎打ちの誘いだった。彼の知るクロムの性格ならば受けるに違いないと、そう、計算しての。
しかしグレンツェンの目論みは外れて、進み出たのはルキナとマークだった。一瞬クロムと見えたしかし良く似た別人の青年の姿に、グレンツェンはその意味するところに気づいた。
「王族騙りは死罪と決まっているよ。まあ、どちらにしろ命はないのだから同じということかな？」
相手をいたぶるような笑みを浮かべて、からかうような口調で言う。
「マーク、私が行きます」
一度だけ大きく息を吐き出して、マークを見たルキナがそう言った。
「ルキナさん」
「大丈夫ですよ。もう、迷いはありませんから」
にこと笑みを浮かべると、ルキナはマークの手から剣を受け取った。
ゆっくりと前に進み出たルキナが白刃を構える。
馬を降り、裏剣を抜き放ったグレンツェンがその正面に対峙した。
「その剣は――」
言いかけて、グレンツェンは途中で言葉を切った。
ルキナが手にしていた裏剣ファルシオンは今は彼の手にあるのだ。ならば、彼女が持つのはクロムの有する神剣か――とは、口に出して問うわけにはいかなかった。この場には人が多すぎる。彼の持つ剣こそが唯一無二のファルシオンであるべきなのだった。

ルキナとグレンツェンが相対する。グレンツェンの持つファルシオンが、ふわりと僅かな燐光をまとった。
先に仕掛けたのはルキナだった。グレンツェンに向かって駆け、不意に地を蹴ると大きく跳んだ。最高点で手足を曲げ、身体ごと回転する勢いを大上段からの一撃に込めて振り下ろした。
刃のぶつかり合う大音があたりに響く。
グレンツェンはルキナの一撃を真正面から受け止めた。
ルキナの剣を押し返す。少女の華奢な身体が弾かれたように後ろに飛んだ。ルキナは両足に力を込めて踏みとどまった。土煙が飛ぶ。
一瞬で間合いを詰めたグレンツェンが斬りかかる。受け流す隙を与えずに様々な方角から打ちかかる切っ先をルキナは全て受け止めた。
一瞬の間隙を付いてルキナが横凪ぎの一撃を繰り出す。紙一重でグレンツェンは避けうしろに跳んだ。

グレンツェンがファルシオンを構えなおす。鏡に映したように、ルキナも。
「その剣、クロムに教わったのかな？」
不意に話しかける声にルキナは眦をつりあげにらみ返した。
「クロムに剣技を教えたのは私だ。ならば、君は孫弟子ということになるのかな」
そんなお前が自分に敵う筈がない、とグレンツェンは言っているのだった。
未来の世界でルキナは、確かに父クロムから剣を学んだ。両親をいちどきに喪ったあの日よりもあとには、グレンツェンからも。
いま躊躇いなく自分に剣を向けてくる、いっそ残酷でさえある微笑を浮かべた目の前の男と、未来で優しく微笑みかけてくれた『グレンおじさま』の顔が、不意に重なった。

隙が生まれたのは一瞬。けれど剣の達人にとっては充分すぎる時間だった。

「――っ、姉さん！」
しんと、静まり返った戦場にただ、マークの声だけがやけに空しく響いた。
裏剣を腰に佩いた鞘に戻したグレンツェンの視線が一度だけマークに向けられ、すぐに視線はルキナに戻されて、ゆっくりとそちらに歩み寄ってゆく。ルキナの手を離れた長剣を拾い上げると、言った。
「せめて、君が『父』だと言い張る男の剣で逝くのが幸せだろう？」
グレンツェンに切り伏せられてから倒れ付したままのルキナに向け、切っ先を振り上げた。

僅かでも魔術の才を持つものはその音を聴いた筈だった。
魔道士や呪術士の中でもごく限られたものにしか使うことのできない秘法。転移の術式が戦場のただ中に展開されようとしていた。

グレンツェンの振り下ろした白刃は、突如展開された魔法陣からあらわれた切っ先に行く手を遮られた。
ひゅ、と風を切る音と軌跡を描く燐光。グレンツェンの一撃を寸前で受け止めたその刃は見紛いようもなくファルシオンのものだった。
ガキン、と響いた音をグレンツェンは信じられない思いで聞いた。
グレンツェンの持つ神剣の刃が、真ん中から二つに折れた。
目を見張る。口元に苦笑。彼の視線はクロムの手にある剣に向けられていた。
「成る程。こちらは偽物、というわけか」
「――だからこそ、危なかったのですよ」
クロムの背後、魔法陣の中央付近から、声がかけられた。
今度こそ完全にグレンツェンの表情が固まる。
「あねうえ…？」
光とともに魔法陣が消え、姿をあらわしたのは白い衣を纏った女性。グレンツェンに切り捨てられた筈の斎宮だった。

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マークに「姉さん」て言わせたのは個人的満足のためです。

2012/12/1