『連理の枝』





〜イーリス編〜　２．




マリアベルの生家はイーリスでも指折りの大貴族で、その領地はペレジアとの国境に程近い位置にある。
歴史を感じさせる館は重厚なつくりで、華美さの抑えられた内装と合わせて主の質実剛健な性質を現しているようだった。
「よくぞご無事で。陛下、妃殿下」
マリアベルの父、テミス伯がそう言うのにクロムが軽くうなずき返す。
「心配をかけたな」
イーリスの重臣にして、法務官を束ねる長でもある彼は、クロムのような武人とは異なる文官らしいほっそりとした身体つきをしていた。壮年を過ぎた顔には生真面目な皺が刻まれ、頭髪には白いものが混ざりはじめている。
「陛下不在の王都はグラース公が取りまとめておられるおかげで大きな混乱もなく。都にはもう遣いは――？」
「そのことだが」
「――あたしから話すわ」
クロムの隣、いままで黙って佇んでいたルフレが口を開いた。
「これは妃殿下。無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます。本来ならば盛大な祝賀会を開きたいところでございますが…」
慇懃な言葉遣いの中に暖かなものを感じて、ルフレの目元が綻んだ。『政にまで口を出す小うるさい王妃』の帰還を本心から喜んでくれる者も確かに居ることが、嬉しかった。
微かに浮かべた笑みを収め、真剣な眼差しでルフレは言った。
「気持ちは嬉しいのだけれど、今はそれどころではないわ」
「と、申されますと」
「いきなり信じろというのは難しいかもしれないけれど…」
そう言って、ルフレはクロム不在の王都で本当には何が起きたのかを、説明し始めた。

「それは、まことに」
驚愕を隠せぬ震える声音でテミス伯が言った。
「証拠はあるのかと聞かれると困るのだけれど」
「いえ。陛下と妃殿下がそのような嘘をつかれる方でないことは充分承知しております。しかしグラース公ほどの方が…」
「すぐには飲み込めないのは無理もないわ。あと、二三日もすれば王都から何かしらの連絡が来るとあたしは考えてる。心を決めるのはそれからで構わない」
どちらの側に着いても良いのだと、ルフレはそう言っているのだった。
「そのようなお心遣いは無用にて。私の忠誠は常に陛下と妃殿下のもとにございます。…ともあれ、旅の疲れもございましょうからひとまずお部屋でお休みになられては」
「ああ、すまないな」
召使が呼ばれ、クロム達はそれぞれに用意された部屋へ案内された。



「よく、顔を見せてくれ」
クロムはルフレの頬に触れそう言った。
ペレジア城ではルフレはほとんど母の傍にいて、国境を越えるまでの旅程は軽装の旅のため野宿続きで、ふたりきりでゆっくりと顔を合わせるのは実は初めての二人だった。
困ったように見上げるルフレの瞳を正面から覗き込むようにしたまま、クロムはこつんと額を合わせた。
「おまえはどうしてそう無茶ばかりするんだ」
「えっと…」
「今更とは言うなよ？俺に話させる隙を与えなかったのはおまえなんだからな」
ペレジアで再会してからルフレはクロムと二人きりになることを避けているようだった。あえてその理由は追求せずにクロムが言葉を継ぐ。
「頼むから、もう少し自分を大切にしてくれ…でないと俺の心臓がもたん」
ルフレの苦笑が深まる。決して、自身を疎かにしているわけではないのだ。ただどうしても最善の道を選ぶとき、自分自身を最優先にはできないだけで。
「ガイアにはあんな伝言をしたけれどね、助けに来てくれたクロムの顔を見たとき、あたしは待ってたんだなって、気づいたの。最良の策を取るならばそれはあってはいけないことの筈なのに。あたしは確かにクロムが迎えに来てくれることを期待してた…ほんと、軍師失格みたい」
その言葉にクロムは僅かに目を見開いて、次いで笑みを浮かべた。
「マークに言われたんだが」
「なあに？」
「俺は、おまえが隣にいないと使い物にならないそうだ。だからおまえの考えた策は一見良さそうに見えるが使えないと」
今度はルフレが目を見開く番だった。耐えかねたようにくすくすと笑みを洩らす。
「…確かに、マークの言う通りかもね。あたしの隣にはクロムが居てくれないと、駄目みたい」
ルフレの両手がクロムの頬に触れた。
「それで良い。これから先もずっと俺はおまえの隣に居るんだからな」
「クロム、それは…」
「おまえがペレジアの先を憂えている気持ちは分かるつもりだ。だが、おまえ一人で背負うことはない筈だ。皆で、道を探して行けば良い」
クロムの手がルフレの左手を取り、その薬指に口づけた。
あ、と小さな声を洩らすルフレを見つめ、言った。
「イーリスの王妃を降りると言ったとき、おまえは一度もこの指輪を外そうとはしなかった」
「それは…」
「俺の妻ではあり続けるつもりでいると、そう取って構わないか」
ルフレの観念したような微笑。
「あたしの心も身体も魂も、すべてただ一人のひとのもの。クロム、あなたのものであることは生涯変わらないわ」
クロムの顔がルフレの顔にゆっくりと近づいて、重なり、すぐに剥離した。
「ルフレ」
「愛してるわ、クロム」
今度は深く、口づけが交わされた。



草木も眠りにつくような夜半。
クロムとルフレが目覚めたのは同時だった。
クロムがファルシオンを無造作に掴む傍らで、ルフレが魔道書を左手に持つ。
一言も交わさぬままクロムは廊下へと続く扉を開け放ち、ルフレは庭に面した窓を開けた。
急に開かれた扉に怯む相手の鳩尾を神剣の束がえぐり、庭に向けて放たれた雷撃の先で低いうめきがいくつも漏れた。
クロムの方を振り向いたルフレの瞳に黄金の輝きが揺れている。屋敷全体が夜半とは思えないざわめきに包まれていた。
「クロム、とりあえずそいつを縛り上げて猿轡をかませて――後で話を聞きたいから」
「ああ。賊は他には？」
「いる。けど、もう終わるみたいよ」
ルフレが言い終わるのとほぼ同時に、ルキナとマークが部屋に飛び込んできた。
「お父様！」
「母さん！」
シーツを裂いたもので黙々と賊を縛り上げるクロムを目にして二人は安堵の息を吐き出した。

屋敷に侵入した賊は十数名。ヘンリーが呪術で一名を生け捕りスミアと供に縛り上げ、サーリャの術で惑乱した者達は逃走、リズを庇いながらガイアが三名を斃し、一向に起きないヴェイクを庇いながらティアモが二名を撃退し、マークとルキナが両親の部屋に向かう道すがら薙ぎ払った者達は致命傷を免れて逃走した。ダルとディーネは黙々と戦う力のない者達を守っていたようだった。
服装などはまちまちでただの盗賊のようにも見えたが、このタイミングで襲撃を仕掛けてくるのだ。ただのもの盗りとは思えなかった。

「まさか我が屋敷を襲撃しやがるような不届き者がいやがるとは…みなさまご無事で何よりでございました」
テミス伯が青ざめた顔でそう言った。感情が激すると口調が悪くなるのは親子揃ってのことらしい。
「いや。おまえたちも無事で良かった。被害の状況は？」
クロムがそう訊ねる。
「実は、長年尽くしてくれていた料理番の男が一人、行方不明に…ですが荷物も何もかも彼のものだけが綺麗になくなっていることから、恐らくは――」
「手引きをしたのがその男だと？」
ルフレが問うと、
「信じられぬことではありますが…」
苦々しげな答えがだった。
全員が彼の作った晩餐を口にしていたのだ。ぞっとしないものがあった。
ルフレが予想していたよりも早い敵の動きだったが、さすがに毒薬を用意する時間はなかったものと思われた。

「お父様…」
マリアベルがそっと声をかけた。
「明日の登城はおやめになってはいかがですの？これは明らかに敵の手のものの仕業ですわ」
「いや。これしきのことで勤めを疎かにするわけにはいかん」
「けれど」
「私が留守の間、屋敷のことは頼んだぞ」
「……はい」
他に賊が潜んでいないことを確かめて、ひとまずその夜は休むこととなった。



翌日。テミス伯が屋敷を発ったその日の昼下がり。
クロムはルキナとともになぜか客間で午後のお茶を楽しんでいた。
「どうした、早く飲め。紅茶は冷めるとまずくなんだろうが」
荒い口調でそう言う彼がケーキを切り分ける手つきは繊細で。外見に反した細やかな性質を思わせた。
うっそりとした立ち姿、右目の上に走る傷跡がもともとキツい顔立ちを一層凄みのあるものに見せている。ルキナと供に未来から来たマリアベルの息子、ブレディだった。こうして改めて見てみると彼は祖父に似ていることが良く分かった。
「…ああ、いただこうか」
ルキナと供にカップを傾ける。芳醇な香りが心地よく鼻腔を抜ける。ふたりは揃って吐息をついた。
「ブレディはマリアベルさんと一緒に住んでいるのですね」
「ああ。音楽家を目指して修行中だったんだが…どうやらまた戦いになりそうだな」
「はい。力を貸してもらえますか？」
「勿論だぜ。仲間の危機だ俺も一緒に行くに決まってる」
「ところで何故俺達は優雅に午後のお茶をしているんだ？」
クロムの問いに、
「ああ？あんたの日課なんだろう？娘と一緒に午後のお茶を楽しむのが」
「それは…ルフレが言ったのか？」
「おう。あんたの日課に付き合ってやれって頼まれてな」
「すまんがブレディ。俺にはそんな日課はないぞ」
「何ぃ！？昔からの日課じゃなかったのか」
「…ないな」
「母さんに続きルフレにまで騙されるとは…まあ、いい。とりあえず飲んでくれ。朝からケーキも焼いたんだ、食え」
「すまないが俺は席を外させてもらうぞ」
「お父様？」
「俺に茶を飲ませている間にルフレが何をしているのかが気になる」
紅茶を一息に飲み干すと、クロムは客間を後にした。

屋敷の裏庭に位置する庭師が道具を仕舞っておくような物置の中で、ルフレとガイア、ヘンリーは捕らえた昨夜の曲者を囲んで見下ろしていた。二名とも後手に縛られて、猿轡は外されているがその瞳はどこかうつろだ。
「ヘンリー」
「はあい」
ルフレに言われ、ヘンリーがなにやら印を結びながら短く詠唱をすると曲者の一人の瞳に生気が戻った。その瞳には深い憔悴と恐怖の色が宿っていた。昨夜ヘンリーの施した幻覚によって一晩苦しめられた痕だった。
「あ。やってますね。僕も見学させてもらいます」
ひょこりと、入り口からマークが顔を出した。
「マーク、あなた…」
「母さんのような軍師になるのが目標ですから。全て見ておきたいんです」
やんわりとした口調だがその瞳は真剣で、ルフレはそれ以上止めることはやめた。
ガイアが賊の一人の前に屈みこみ目線を合わせる。
「さて。もう一回夢の世界に戻りたいんでなけりゃ、こっちの質問に答えてもらおうか」
夢の世界、と言われて曲者の瞳に浮かぶ怯えの色が強まる。
「まずは雇い主についてだ。誰の指示でこの屋敷を襲った」
しかしその口から語られたのは、誰もが予想していた通りの言葉だけだった。
「…この屋敷で…料理番をしていた男に、雇われた」
擦れた声がそう言った。
「その男が誰の指示で動いていたのかは」
「知らねえよ。ここの主人に恨みがあるから手伝えって言われて雇われただけだ」
「どうする、ルフレ。身体も痛めつけてみるか？」
その言葉に曲者の身体が強張る。
「嘘なんかついてねえよ！金は前払いで、割の良い仕事だったんだ！」
慌てたように言い募る男を見下ろして、ルフレが言った。
「必要ないわ。この状況で嘘を吐きとおせるような胆力は持ち合わせていなさそうだし」
「俺もそう思う」
「ヘンリー、申し訳ないのだけれど、この人をもう一度眠らせてもらえるかしら。今度は普通に」
「はぁい。お安いご用だよ〜」
「ごめんね、こんなことを手伝わせて」
「何のことかな〜？」
「平気だって言うかもしれないけどね。ヘンリーが優しい人だって、あたしは知ってるのに。だから、ごめんなさい」
「俺には一言もなしかい？」
ガイアが茶化したように言うのにルフレが苦笑する。
「ガイアも、ありがとう」
「ルフレの役に立てるならなんでもないよ〜」
へらりとヘンリーが応え、ガイアもにやりと笑みを浮かべた。
「母さんは皆に愛されてますねえ」
うんうんとマークが言う。
曲者に拷問まがいの尋問を与えていたとは思えぬ和やかな雰囲気で物置を出たルフレ達は、丁度庭に出てきたクロムと行き会った。
「お茶の時間は終わったのね、クロム」
「おまえの方は賊の尋問か？」
「そ。有益な情報は何も聞き出せなかったけど」
苦いため息とともにクロムが抗議の声を上げようとした時、裏口から顔色を失ったマリアベルがクロムを呼んだ。
その手には、王都からの書簡が握られていた。



　　　◇◆◇


「ご説明いただけるでしょうか」
言葉を発したのはフレデリクだった。その背後に、今にも掴みかからんばかりの形相のソワレと、彼女を宥めるように視線を送るソールの姿がある。
「生憎と先ほどの話以上の説明は持ち合わせていないのだが」
主だった文官、武官が集められ、グレンツェンから発表があったのがつい先ほどのこと。
「――遺体もなく、ペレジアからの伝令のみで断ずるには余りにも…」
「だがファルシオンはここにある」
グレンツェンは自らの腰に刷いたファルシオンを示しそう言った。
「それは――本当にクロム様のファルシオンなのでしょうか」
「おかしなことを言う。この世にふたつとない宝剣だよ――クロムのものでなければ、誰のものだと？」
面白がるような口調。
ふたつとない宝剣――確かにその通りなのだが。今この世界にはルキナが未来からもたらした、もうひと振りの宝剣がある。神剣と裏剣と、ふたつの宝剣の存在を知る者も少ないが、ふたつを見分けられる者となるとさらに稀有になる。
刃は、同じだが。時を経るにつれ磨耗する柄のつくりは変化する。神剣と裏剣での違いはほんの僅かだが、常にクロムの傍近くあったフレデリクにはその違いが見てとれた。

グレンツェンの腰にある宝剣はクロムのものではない。ならばそれは未来からルキナがもたらしたものに違いなく、彼女が裏剣をグレンツェンに奪われたことをフレデリクは本人の口から聞いてもいた。

だがそれを示す証拠がないのだ。
僅か一月の間に王宮内はグラース公爵派が大勢を占める状態に変わっている。迂闊に言い立てれば不敬罪、悪ければ反逆罪を問われかねない。
「話がそれで終わりならば私はもう行くよ。これでも、忙しい身でね」
そう言って歩き去るグレンツェンの背中をフレデリク達は黙って見送るしかなかった。



　　　◇◆◇


クロムが一読してすぐに握り潰そうとした王都からの親書をルフレがひょいと取り上げた。
不満げに見つめられ苦笑する。
「駄目よクロム。大切な証拠なんだから」
「証拠だと？」
「そ。大切な、反逆の、証拠――これだけではあまりにも弱すぎるけれど。まあ、ないよりマシってところかしらね」
本来ならば、クロムが王都に帰還すればグレンツェンが今握っているもの全てがクロムに返還される筈だが。こうして王家の印の捺された新書を送ってくる以上、王城は今グレンツェンの支配下にあると見て良い。正面から入ればなんだかんだと理由をつけられて――偽者の烙印を捺される可能性すらある――幽閉、もしくは処刑される公算が高かった。
また、こちらの正当性を主張できたとしても反乱の証拠が薄い。ただ聖王不在の王都を守っていたまで、と言われればそれまでなのだ。反逆を立証できなければ後顧に憂いを残す結果になりかねない。

何よりもまずは、小さなルキナの身柄を奪還すること。それが、最優先だった。



聖王クロムはペレジアの内乱鎮圧に向かった先でギムレー教徒の罠にかかり死去。宝剣ファルシオンだけがその形見として戻った。
イーリスは一年間喪に服し、その後王女ルキナが聖王として即位する。
幼い女王を補佐すべく、グラース公爵が後見として立つことになる。

王家の名の下に記された書簡には、そう、記されていた。






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あ。マリアベルの旦那さまが出てこなかったですね。ちょっと色々増えまして。また来週です！

2012/9/29