『連理の枝』





〜イーリス編〜　３．




イーリスの城の奥深く、長い回廊を渡った先。王族のみが住まうその区画をのっそりと歩く大きな影があった。
整えられた焦げ茶色の髪、優しい光を宿した小さな目、フレデリクよりも更に大きな体躯は今は鎧に包まれてはいない――カラムだった。
各所に配された警備兵に見咎められることなく進む様は、実体のない幽霊かなにかのようで。しかし彼の所作をじっくりと観察するものが居たならば――それは不可能に近いのだが――巧みに殺された足音や人々の死角を確実に突く動きが、生来の存在感の薄さと相乗して彼の存在を何者にも気づかせぬものへと変えているのだと、そう評したかもしれない。

そうして、王宮で最も奥まった区画――聖王や王妃の室、子供部屋のある一角に辿り着いたカラムは不思議そうに首を傾げた。
彼がこの場所に来るのは初めてだがフレデリクから間取は聞いている。
その情報と、違うのだ。
カラムの目の前にあるべき扉はどこにもなく、そこにあるのは豪奢な壁紙と柱に施された彫刻ばかり。小さなルキナが居る筈の『新緑の間』へと続く扉は痕跡も残さず消え失せていた。

「そうですか…カラムさん、ご苦労様でした」
そう言って頭を下げたのはフレデリクだ。
「ごめん。肝心な時に役に立てなくて…」
「いいえ。お話を聞く限り、カラムさんの向かわれた場所に間違いはありません。だとすると――」
「なんらかの力が働いて、ルキナ王女の居る部屋自体を隠しているのかな」
ぽつりとソールが言葉を継いだ。
だがこの場に居るのは魔法に不得手な騎士ばかりで、実際に何が起きているのかを確認することも、まして対策を練ることも難しかった。

フレデリク達が居るのは兵舎の傍らにある詰所だった。騎士団長となり、本宮に一室を与えられているフレデリクだったが、騎士団関係の雑務はこちらの詰所でこなすことが多い。
「そろそろボクは帰ることにするよ。遅れるとまたリベラに小言を言われるからね」
目立ち始めた腹を労るように撫でながらソワレがそう言うと、
「なら僕が送っていくよ」
ソールが自然な口調で返した。
「気持ちは有り難いけど必要ないよ。第一、ここは王都だよ。イーリス一安全な都だ」
「いえ、ソールさんのおっしゃるとおりです。王都の治安は誇るべきものですが『いまの王都が我々にとって安全か』は分かりませんので」
フレデリクがきびきびとそう指摘するのに、ソワレは苦笑で返したが、ソールの申し出は受ける気になったようだった。

詰所に一人きりになったフレデリクは雑務の処理をこなしていた。カラムは、いつも通り気づくとフレデリクの視界から消え失せていた。まだ室内に居るのか、彼もまた帰途についたのかは判然としない。
がちゃりと戸口の開く音にフレデリクは振り返った。ソール辺りが忘れ物でも取りに来たかと無意識に予想したその顔に、緊張が走る。
開いた戸口の向こうに立っていたのは、下級兵の詰めるこのような場所にはおよそ足を向けることのない人物だった。
名を、ロッテという。グレンツェンが王城の警備を強化するとの理由で城に入れた私兵を束ねている男だった。
普段は僅かな怯えと陰のある目線を向けてくる彼が、いまは横柄な視線でフレデリクを見下ろしている。
こういうタイプの人間が急に態度を強めるのは、虎の威を借りている時と相場は決まっていた。
「近衛騎士団が長、フレデリク殿。謀反の疑いがあるため身柄を拘束させていただく」
ロッテが誇らしげに掲げた手には、聖王家の名のもとに下された命を記した紙が揺れていた。



　　　◇◆◇



白磁のカップに鮮やかな青色で描かれているのは薔薇の模様。同じ模様の描かれたポットから注がれた薄い琥珀色の液体は香草茶だろうか。爽やかな柑橘系の香りがした。
ルフレの形の良い唇がカップにつけられ、かちゃりと小さく音をたててソーサーにカップが戻された。
「狙いは炎の台座だったんじゃないかと思うの」
マリアベルの邸宅の応接室。今度は皆で午後のお茶の卓を囲みながらの台詞だった。
捕らえた賊からは有益な情報は得られなかったが、おそらく彼らは人数を集めるため雇われた下っぱで、自ら命を断ったものや逃れた者の方が本隊だろうというのがルフレの考えだった。
「小さなルキナに聖王を継がせるつもりなら、儀式には炎の台座は不可欠だし、なによりも王権の象徴として、手に入れておきたいでしょうしね」
聖痕とファルシオンと、炎の台座。イーリス聖王家の象徴たるこれらを手中にして、グレンツェンはその地位を確固たるものにするつもりなのだろう。
「まあ、一番の目的は」
言って、隣に座るクロムに視線を向けた。
「俺か」
「でしょうね。ほんと、ペレジアでは無事で良かったわ。今度ディーネに唆されてものこのこ着いて行っちゃダメよ」
「！――あの時はだな、ディーネに邪気が全くなかったから騙されたのであって」
「世の中には悪気なく人を騙せる人間もたくさん居るのよ…子供を使う手もあるし、ね」
やんわりとルフレが言う。
「その節は本当に失礼をいたしました」
ディーネが深々と頭を下げるのへ、
「あら気にしないでね、ディーネ。このひとが無防備なのが悪いんだから」
にこにことルフレが返した。
「もうその話は終わりにしないか…」
疲れたようにクロムが言った。

控えめに扉がノックされる音に、会話が中断される。
マリアベルが「入ってきてよろしくてよ」と声をかけると、この屋敷の執事が姿を見せた。
深々と礼を取ってから、言葉を継ぐ。
「お嬢様、旦那様がお戻りでございます」
「マリアベル！僕が居ない間に屋敷が賊に襲われたって本当！？」
その後ろからリヒトが顔を出した。
自警団の一員となった頃はマリアベルよりも低かった身長もいまは伸び、まだあどけなさは残るが既に青年と呼んでも良い凛々しい姿に成長している。
リヒトはマリアベルと結婚してからは、実家と妻の屋敷を往復する日々を送っていた。地道な彼の働きで没落の憂き目にあっていた生家は徐々に復権しつつあった。
「ええ。本当ですわ。私たちで残らず撃退いたしましたけれど」
「無事？怪我はなかった？ごめんね、大変な時に傍に居られなくて」
「安心しな父さん。母さんのことは俺がきっちり守ってやったからな」
「あら。ブレディはわたくしといっしょにダルさんとディーネさんの陰に隠れて守っていただいておりましたのよ」
「！！！母さん！」
「ここで見栄を張ってどうしますの」
「あはは。ともかく無事で良かった」
そこでリヒトはマリアベルにダルとディーネを紹介され、丁寧に礼を述べた。

「クロムさん、みんな、本当に無事で良かったです。ペレジアで皆が行方不明になったって聞いたときは、寿命が縮まるかと思ったよ」
「ああ。心配をかけてすまなかったな」
クロムの言葉ににこりと頷くと、ルフレの方に歩み寄った。
「――ルフレさん、お帰りなさい。信じてたよちゃんと戻ってくるって」
目に涙を浮かべて、それでも笑顔でそう言った。
「ただいま、リヒト。リヒトや、みんながそう思ってくれてたから、あたしは帰ってこれたんだと思うわ。――ありがとう」
ルフレも柔らかな笑みを浮かべた。

「リヒトさんは大きくなりましたね〜」
年齢的にはそう変わらないだろうマークがしみじみ言う。
「身長でいえばあなたの方がたくさん伸びていませんか、マーク。もうお父様ともそう変わらないように見えますよ」
「そうですか？そういうルキナさんは母さんに似てすっかり美人さんになりましたよね」
にこにことマークが返した。
「あら。褒めても何もありませんよ？」
「確かにルキナはルフレに似てきたよな。最初はクロムによく似てるなと思ったが。逆にマークはクロムに似てきたか？おい、あとで手合わせしねえか」
真顔で言うヴェイクに、
「いえ僕は父さんやルキナさんみたいな剣の達人とは違いますよ？」
慌てたようにマークが答えた。
「ヴェイク…いまは非常時なのよ。そんな時間がある筈ないでしょう？」
咎めるティアモ。
「うっせー。こういう時こそきちんと鍛練に励むべきだろーが！」
「鍛練は続けるべきだけど、あなたのはクロム様の息子とじゃれたいだけでしょ」
「なっ！！！」
図星をさされたヴェイクが絶句した。
「あはは。ヴェイクはほんとにお兄ちゃん大好きだもんね」
からかうようにリズがそう言った。

黙々と花占いに勤しんでいるのはスミア――ではなくヘンリーだ。
「北東から良くない報せ。大勢で来るみたいだね〜」
「まあ。花占いでそんなことが分かるのですね」
スミアが素直に感心している。
「南東からは懐かしい友。こっちは…二人」
こちらは、カップに残った茶葉の形を見ながらのサーリャの言葉だった。

楽しげに笑い声をたてていたマークが不意に真顔になった。彼がルフレの方を見やると、彼女は一度持ち上げたカップをゆっくりと下ろしたところだった。
「母さん…」
「ええ。随分たくさんで来たわね」
「敵ながら、迅速な対応で感心します」
ゆるりと黄金色に染まった視線を交わしながらの母子の会話にクロムの冷えた声音が混ざった。
「敵、か？」
「…だとは思いたくないけれど」
奇妙な言い回しにクロムが眉を潜めた。
そこで、テラスに続く窓が開けられる音がして皆がそちらを見やった。
ひとり偵察に向かっていたガイアが戻ってきたのだった。
「お行儀が悪いですわよガイアさん。入り口から入ってこられませんの？」
「すまんが、悠長に執事さんに案内してもらってる暇がなかったもんでね」
そこでこちらに注目する一同に視線を送りながら、ルフレたちの居る卓へ歩み寄ると、置かれた焼き菓子をひとつ摘まんで口に放り込んだ。
「ひとが働いてるときにお茶会かよ…」
作りたての菓子を味わってから飲み下す。
「ガイア」
焦れたようなルフレの声音に、
「ああ、そうだったな」
にやりと笑み返しガイアが言った。
「来てるぜ。大勢で隊列組んで」
「騎士団、なのね」
「ああ」
「――フレデリクは」
「遠目だが、見当たらん。王都に居残りか…」
「既に更迭されてしまったか」
嫌な予感にルフレの表情が曇る。
「で、どうするんだい？こっちは少数だ。とてもじゃないがあの数を相手にはできねえぞ」
「そうね…向こうの用件にもよるけど」
そこでルフレはクロムの方に向き直った。
「試してみたい策があるの。クロム、協力してちょうだい」
「ああ、おまえに任せる」
そうして彼らは慌ただしく支度を始めたのだった。

屋敷から距離をあけ、しかし長弓がぎりぎり届くその位置で、騎士団は行軍を停止した。
ガイアが告げた通り、一個大隊――およそ1000名が整然と並び立つ姿は壮観だ。その傍らに翻る軍旗には、イーリス聖王家の紋章を守るようにして向かい合わせに立つ騎馬とペガサス。イーリス正規軍の中核、近衛騎士団の紋だった。

その先頭、騎士団を率いる位置に立つのはフレデリクではなかった。フレデリクならば式典の時にしか身に付けようとしない緋色で裏打ちされ金糸で装飾の施された外套を、これみよがしに翻らせた中年の男の顔にはクロムもルフレも見覚えがなく、何者であろうかと首を捻る。騎士団の者達ならば見知っている――ルフレならばその名も出身もすらすらと言える筈だ。
彼らが一度も目にしたことのないこの男の素性を明らかにしたのは意外にもマリアベルだった。
「確かロッテという名だったと思いますわ。グラース公の私兵を束ねる男です。いつも卑屈な態度の気色わりぃ奴でしたけれど、騎士団長の外套が似合わねえったらないですわね。不愉快ですわ」
むかむかと苛立ちを示しながら言う。マリアベルの生家はグラース公の領地と接しているため、何度か顔を会わせたことがあるらしかった。

ロッテの隣に立つ男、こちらは見覚えがあった。フレデリクの副官だ。
上官に倣って折り目正しく、しかしどこか柔和な印象を纏う彼も今は張り付いたような無表情で、どこか青ざめて見えた。

数人の騎士を従えて、ロッテが屋敷へ近づいてくる。それを受けてマリアベルが進み出た。彼女に寄り添うようにリヒトも並んで前に出る。
屋敷と騎士たちとの中間で彼らは向かい合って対峙した。
「なんの連絡もなく騎士団を私どもの領地に入れた理由はなんですの？」
苛立ちを隠さずマリアベルが言い放つ。
尊大な調子でロッテが口を開いた。
「この屋敷に、裏切り者の天馬騎士どもが匿われているという密告があってな。事実ならば、重大な反逆行為だからなあ。こうして騎士団を率いて取り調べに来たのだ。進軍の途中草を食む天馬を見かけたが…」
「野生の天馬ではありませんの？だいいち、スミアさんもティアモさんも、反逆など企てる方ではございません。言いがかりも大概にしやがれですわ」
「近衛騎士団長に対して口を慎んでもらおうか」
「あら、騎士団の長はフレデリクさんと決まっております。どなたが勝手に任命なさいましたの？それこと越権不敬の類ではありませんこと？」
「ルキナ王女の名の元に正式に任じられた職責のどこに不備があろうか」
「そういえば、最近の王宮は年端のいかぬ王女殿下の地位を傘にきる輩が牛耳っているのでしたわね」
「貴様！その言葉こそ不敬であろう！！」
声を張り上げ剣の束に手をかける。
「不敬はそちらでしょう！あちらにおられる方のお顔が目に入らないのですか！」
マリアベルは自らの背後、佇む長身を示し凛々とした声を張り上げた。
言われ、驚愕に目を見開いたのはロッテではなく背後に控えた騎士たちだった。
陽光に映える濃紺の髪、辛うじて判別できるその顔かたち、傍近く仕えることの多い近衛騎士団の者達だからこそ、彼が誰であるのかに気づいたのだった。
「クロム様は――聖王陛下はご健在なのですよ！その意に反した行いをする者達こそ反逆者ですわ！」
「成る程…裏切り者の天馬騎士に加えて国王を騙る偽物まで居るとは。ますます許しがたい」
「――なっ」
にやにやと笑みを浮かべながらのロッテの言葉にマリアベルが声を失った。
不意討ちで抜刀し、無防備な身体に斬りかかる。
「うぉっ！？」
その刃はあっさりと、リヒトの作り出した風魔法の防壁にはじき跳ばされた。
魔道書は構えたまま空いた手でマリアベルの手を取り仲間たちの方へ駆け出した。
「駄目だねあのおじさん。言葉が通じないみたいだ」
「ええ…そのようですわね。あとは、ルフレさんの策通りに」
青ざめた顔ながら凛とマリアベルが言った。

「――クロム」
「ああ、いつでも」
視線を合わせたのは一瞬のこと。
クロムとルフレは整然と並ぶ騎士団の方へと、ゆったりと歩を踏み出した。

限界まで引き絞られた長弓がロッテの指揮で一斉に放たれた。






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掛け合い漫才…楽しいんです。きちんと皆出てるかな、と思いつつ。ダルさんは無口だから、あえてしゃべってませんよ。
この先を書くと長くなっちゃうので。本格的な戦闘シーンはまた来週です。

2012/10/6