連理の枝

『連理の枝』

～イーリス編～　５．

イーリスの王宮は広大だ。中でも、王族の住まう区画や、謁見の間、官吏たちの政務室や賓客をもてなす広間などがある本宮は最も大きくまた聖王国の威信を映したように美しい建物だった。
その一画、ある程度の地位を持つ貴族や官吏の専用の室が並ぶその中にグラース公爵の居室もあった。
クロムたちの父の弟にあたる彼は、すなわち王族であるのだが。クロムの祖父、グレンツェンの父王から爵位を受けて臣下へと降った時に、その居を王族の居住区からは移していた。王子として王弟として、そして今は聖王の叔父として、他の王族と共に室を持つことも可能であったが。グレンツェン自身が固辞したのだった。臣である身で主君と同列の扱いは受けられぬ、と。

「それで、騎士団一個大隊を率いて行きながらおめおめと逃げ帰ってきたという訳か」
冷え冷えとした声音だった。普段の、常に笑みを含んだような柔らかな響きはどこにも見られない。室内の一画、座り心地のよさそうな長椅子に座るのはグレンツェン。その正面で顔も上げられずただ青ざめているのはロッテだった。
「――は。しかし…」
「まあ、彼らにいたずらに兵を与えてしまうよりは良いのだろうけどね」
トントンと長椅子の肘掛けを指先で叩く。
「それで、連れ帰った兵たちは他の騎士団員とは隔離したのかな」
言われ、ロッテは思わず顔を上げた。
「…………は？」
そのぽかんとした表情で察し、グレンツェンの眉間に皺が寄る。
明らかに不機嫌になった主の様子にロッテが再び震え上がった。

　　　◇◆◇

マリアベルは父不在の領地を離れるわけにはいかないからと、リヒトとブレディと共に屋敷に残った。後方支援は惜しまないとの言葉通り、彼女の家が持つ私兵の中から馬や食料、武器類などを提供し、それを運ぶための輸送隊をクロムたちに付け、彼女の父が帰還次第すぐに駆けつけると誓ってかつての戦友たちを送り出した。
「ですからもう一度やっていただきたいのです」
淡々とした声音だがそこに学究の徒としての熱を感じる。ミリエルは真剣だった。
「ええとね、ミリエルさん」
「はい」
「魔道書、勿体無いでしょ？」
「探求のためにはいたしかたありません」
「街道でそんな離れ業やると思い切り目立つし」
「それも止むを得ませんね」
「あたしも疲れるし…」
「どうしても、拒否なさるのでしょうか」
真っ直ぐな瞳で見つめられて、ルフレは仕方なく妥協案を提示した。
「じゃあ、全部無事に終わって王都に帰還できたら」
「ありがとうございます」
満足そうにミリエルは眼鏡をついと持ち上げた。

その夜、天幕の中で。
ルフレが見つめているのは、イーリス城の詳細な見取り図だった。もちろんマリアベルの屋敷にあった訳ではない。ルフレが自身の記憶とクロムの記憶を突き合わせながら作製したものだ。
いま王宮には厳重な警備が敷かれていると思って間違いない。真正面からの突破はできれば避けたかった。
クロムの知る抜け道は二ヶ所。その一つはルキナたちが城を脱する時に使っており、敵方に知られている可能性が高い。もう一つ、城壁の空いた穴は見張りが多数配されている筈の城壁の真下を抜けなければならず、それ以前に空堀を越えねばならないためリスクが高い。

何か方法がある筈と、休みなく巡る思考の片隅に、不意に落ちたのは誰かの言葉。

―――クロム、リズ、みんな…愛しています…

クロムに再会したあのとき、意識を失う前に頭を駆け巡った大勢の記憶。その中のひとつ。
それの意味する所を理解して、呆然と見開かれる瞳。
「まさか、生きていた、の？」
知らず言葉が漏れた。
あのときに垣間見た記憶。処刑台の上から見えたクロムとリズの顔。あの景色は、エメリナ本人にしか見られなかった筈だ。
では、彼女は生きていたのだ。あの高さから身を投げて、それでも息があったのだ。なのに救われた命は竜の祭壇に捧げられ、いまその記憶だけがルフレの中に宿っている。

「誰が、生きていたんだ？」
「――！」
不意にかけられた声にルフレの肩が跳ねる。
深く思索に沈みこんでいたとはいえ、こんな至近距離に居ても彼女が気づけない相手。彼女自身と言っても良い程になじんで溶け込んでしまう気配。
顔を上げれば予想通り、いま一番顔を合わせたくない相手の顔があった。
「クロム」
「何を一人で悩んでいる？」
「…………」

――どう、誤魔化せば良いのか。
まずそのことを考えた。
話せる筈がなかった。あのとき手を伸ばせば救えた筈の命だったなどと。
撤退を決めたのは軍師であるルフレだが、将としてそれを認めたのはクロム。ルフレがいくら自分の責任だと、理を尽くして語ろうとクロムは自身を責めるだろう。
――ならば、隠し通さなくては。
苦しむのは自分一人で充分だ。
目まぐるしく思考を展開する間も、その裏でルフレは自らの精神の深淵に手を伸ばしていた。
目を背けたくなる記憶であろうと、この中に答えがある筈だった。
聖王エメリナならば、知っていた筈なのだ。
イーリス聖王のみが知るであろう秘密を、全て。その中には当然城の抜け道も含まれている筈だった。
「おい、ルフレ」
何かを察したのだろう。黙りこんでしまったルフレの名を、苛立たしげにクロムが呼ぶ。
――もう少し。あと少しで届く。
「駄目よ、ルフレ！！」
一瞬誰の声か分からなかったほどの大声を上げ、珍しく血相を変えたサーリャが天幕に駆け込んでくるのと、ルフレが意識を失うのが同時だった。

力なく倒れこむルフレの身体をクロムが抱きとめる。
サーリャの指先がルフレの頬に触れた。
「息を、していないわ」
「……っ」
表情を険しくしたクロムに冷静な視線を向け、淡々とサーリャは言った。
「手伝ってちょうだい」

寝台にあった掛け布をサーリャが広げ、クロムが抱きかかえていたルフレをその上にそっと降ろした。
サーリャが赤い顔料でルフレの周りを囲むようにして円を描き、クロムには読めぬ魔法文字で何かを書き記してゆく。最後にルフレの胸の中心にも文字を書き入れると、印を結びながら短くなにごとか唱えた。
びくりと、ルフレの身体が跳ねた。
駆け寄ろうとするクロムを制してサーリャが診る。
「呼吸は、戻ったわ。…でも、意識が戻らない」
微かな呼吸を繰り返すルフレの顔は透き通る程に白く、長い睫毛が青く陰を落とす美貌はどこか作り物めいて。そこに生命はあるのかと、見ていると不安になる。
今すぐにルフレを抱き締めてその鼓動を確認したい衝動と、いまサーリャの邪魔をしてはいけないという理性の狭間でじりじりするクロムをサーリャが振り返り、見上げる。
僅かに、何かを迷い。心を決めたのか口を開いた。
「ルフレの身体のことは、聞いているの」
「――何のことだ」
その答えは半ば予期していたのだろう。サーリャはひとつ吐息をつくと語りだした。
「ルフレの魂も精神も、彼女ひとりのものだけれど――肉体は、そうじゃない。ルフレのいまの肉体は、ギムレーが消滅した後に生まれた巨大な闇からできている。そこにあったルフレの魂と記憶を核にして編み上げられた闇、それはルフレ自身以外の記憶と魂の残渣を抱いた闇だった。神話の時代からずっとギムレー教徒たちが竜の祭壇に捧げ続けてきた人々の記憶を抱いた」
そこで一端言葉を切ってクロムを見つめる。彼女の言葉が正しく染みたかを確かめるために。
ゆるゆるとクロムの瞳が見開かれ、掌が固く握りこまれた。
「どんな器を持とうと、ルフレがルフレであることに、変わりはない」
そう言い切るクロムの深青の瞳をサーリャの漆黒の瞳が見つめる。その青に曇りがないことを見てとると、漆黒の冷たさが僅か和んだ。
「そうね。あなたなら、そう言うと思った」
「そのことと、ルフレが目覚めないことに関係があるんだな？」
確認する。どうしても必要と判断したからこそルフレの許可も得ず話したのだろうと。
「そうよ。あれほど止めていたのに私が厳重に封印した『ルフレのものではない記憶』を、ルフレは無理にこじ開けた。ヒトの心であの奔流に耐えるのは難しいわ。だから、ルフレは目覚めない」
ふと、思い出したように薄く笑みを浮かべ、続けた。
「無理に起こそうとすれば精神に異常をきたすでしょう。――そう、よくて狂人わるくて廃人、ね」
「また、記憶を封じろと言うのか」
「『今ならまだ』とあの時言った筈よ。ルフレが戻って一月以上が経過した今では記憶と器の結びつきが強まっていて、無理矢理封じればやはり精神に齟齬がでる」
「ならどうしろと言うんだっ」
低く抑えられていたが、聞くものを圧倒する力を秘めた声音。
びりびりと空間が震えるかのような。クロムの全身から放たれる殺気にも似た圧力を気にとめた風もなく、変わらぬ静かな語調でサーリャが言った。
「あなたがルフレを迎えに行きなさい」

目を開いても、閉じても変わらない。なにもない。ただ闇があるだけで。
なにも見えないし、聞こえない。そこに自身の身体があるのかすら曖昧になる程の、濃密な闇。
サーリャから『記憶の奔流』と聞いて、嵐の中にでも投げ出されるかと覚悟を決めていたクロムは、どこか拍子抜けした心地で周囲の気配を探った。
完璧なまでの無音。空気の流れすらも感じ取れない。

『ルフレとの間に誰よりも強い絆を結んでいるのは、あなただから。ルフレがこの世界に戻った時から、魂の一部を共有してしまっているのはあなただから。――行きなさい』

有無を言わせぬサーリャの口調だった。
必ず見つけて連れ戻せと言われ。もちろんクロムにも否やはなく。指示されるままルフレの隣に横になり瞳を閉じて――開くとここに居たのだった。
さてどうしたものかと一歩を踏み出した。そこに、床はなかった。
「うおっ！？」
空を切った右足だけでなく踏みとどまろうとした左足からも床の感触が消え。身体が空に投げ出される。
落下の加速度だけが妙にリアルで。けれど辺りの光景は、相変わらずの闇。

ぽつりと、一点に色が生まれた。
そこから爆発的に色彩が広がり、無数の景色が映し出されてゆく。
そこに見えたのはありふれた日々の暮らし、純粋な祈り、敬虔な教徒、渦巻く欲望、醜悪な憎悪、身を裂くような恐怖、そして、数多の絶望だった。

幼い頃に読んで聞かされた物語の中に、こういう状況があったなと、なすすべなく落ちていきながらクロムは思った。
その空色の視線が一点に吸い寄せられた。
そこには彼自身が居た。隣には、ルフレが。
そう認識した途端に視点が変わって。クロムの目の前には赤子を抱いたルフレの姿があった。
「ルフレ…」
名を呼ばれ、ルフレが幸せそうに笑む。微かな違和感に、彼女は彼のルフレではないのだと、気づいた。
彼の知るルフレとは違う、どこか憂いを帯びた琥珀色の瞳が赤子に向けられる。
「この子が――マークが大きくなる頃には、戦のない世界を実現しましょうね」
彼の世界では未だ誕生せぬ息子を腕に抱いて、彼と異なる時間軸を生きたルフレが、変わらぬ強い意思を秘めた声でクロムにそう言った。

クロムが何か答えようと口を開く、その前に再び場面が変わる。
輝く陽光の降り注ぐ城の中庭で遊ぶ、自身によく似た髪色の子供たち。
くるくると円を描くように追いかけあっていた二人の、弟の方が転んだ。ぐずぐずと泣き出した息子をルフレが抱き上げる。慣れた様子であやしてやると、マークはすぐに泣き止んだ。
足元できゅっとドレスの裾を握りしめたルキナの頭を優しく撫でてやりながら、クロムの方を振り返る。そこにあるのは母の表情。

クロムは彼女のことをギムレーとしてしか知らなかった。あの最後の戦いの時に、人としての彼女を知ってしまっていたら剣には躊躇いが生じただろうか。実の両親の愛情を受けて真っ直ぐに育ったルキナは、あの最後の瞬間に何を思っただろうか。

いつの間にか風がやみ、光が止まり、音が消えていた。
静止した景色。動きを止めた子供たち。
腕に抱いたマークをそっと降ろすとルフレがこちらを真っ直ぐに見た。
クロムとルフレの間に、クロムは自身の背中を見た。ゆっくりとこちらを振り返り、空色の視線が合う。
異なる未来を生きたクロムとルフレがそこに居た。そっと、ルフレが彼女の夫の横に並び立つ。一対の絵のようにごく自然に。
その瞳に宿る意志も存在感もただの記憶と思えぬ程に強くて。
「あなたたちは『生きて』いるのか？」
自身に対しなんと呼びかけたものかと迷った末に、クロムはそう問うた。
「それは、難しい問いね。あたしたちはもう時を刻むことはない。でも、その記憶が人格と呼べるほどに明瞭なのも確かだし。魂の輝きも失われてはいない」
答えたのはルフレだった。
「この時代のあたしの精神世界は、彼女が思うより遥かに深く、広いわ。彼女が抱え込んだ全ての記憶と魂を住まわせるに足るぐらいに。着実にヒトから竜の心へと変わりつつある」
「では何故――」
ルフレは目覚めないのか。
「ヒトであることを望んでいるからよ」
澄んだ琥珀色の瞳がクロムを見る。
「彼女の心はヒトでは有り得ない大きさを持ってしまったけれど、それを望まない無意識が彼女の意識をヒトの範疇に押し込めている」
だから、自身以外の記憶と魂に耐えられないのだと、言う。
何故そんなことをと、問う前にクロムは答えに気づいた。
「俺たちと共に在るためか？」
「そうだ。何よりもお前と共に生きて死ぬために。ルフレは自らが竜になることを全身で拒んでいる」
クロムと同じ顔、同じ声が言った。
「ルフレは――どうすれば目覚める」
そうクロムは問いかけた。彼女がどんな存在へと変わろうと彼の隣に在ること。それがクロムにとって何よりも大切なことだった。
「大丈夫よ。サーリャと…きっとヘンリーでしょうね。溢れてしまった記憶の奔流をもう一度封印しようとしてる」
「おまえはただルフレを掬い出せば良い」
「彼女さえ意識を取り戻せば、一端は人格として立ち上がった記憶たちもまた元の記号と力の固まりに戻すことができる。――ギムレーがそうして力を得たように。もっとも、今の『あたし』はその力を使う意志を持たないけれど」
ルフレの言葉がクロムに充分染みるのを待って、クロムが後を続けた。
「ルフレを目覚めさせる前に、お前には会うべきひとが居る」
「どういう、ことだ？」
見据えた空色の瞳がついと、クロムの背後に向けられた。

「クロム」
それは女性の声だった。どこまでも慈愛に満ち溢れた優しい声だった。
決して忘れないと誓いながらも過ぎる日々の中で徐々に癒された心の傷痕を思い出させる響きにクロムは身体を強ばらせ。なにかを振りきるように一度瞳を閉じ、ゆっくりと開くと背後を振り向いた。
淡い金色の巻き毛。柔らかな光を湛えた緑の瞳。その双肩に一国を背負うには余りにも儚すぎる、ほっそりとした身体。
必ず救うと誓いながら果たせなかった、クロムの最愛の――
「姉さん」
声が震えるのを抑えることができない。
「立派になりましたね、クロム」
在りし日と変わらぬ笑みを浮かべて。エメリナはクロムの頭を優しく撫でた。

混乱したあたまにルフレの言葉が甦る。
――まさか、生きていたの？
そう。確かにルフレはそう言っていた。イーリス城の地図を前にして、ひどく悩みながら。
その直後に意識を失ったのだった。封じられた記憶を探ろうとして逆にそれに呑まれて。

「まさか…」
生きて、いたのか。あの高さから身を投げてそれでも、奇跡的に。
手を伸ばせば救えたというのか。なのにおめおめと自分だけが逃げおおせて。
救えた筈の最愛の姉は、ギムレー教徒の手に落ちて。竜の祭壇に捧げられたと――

瞬きすら忘れて呆然と立ち尽くすクロムの頬を、エメリナが両手でぺちりと叩いた。
は、と意識を引き戻されれば間近に見上げてくる姉の顔があった。
「しっかりなさい、クロム」
凜とした声で諭される。
「あなたが何を思ってくれたか分かります。けれどそれは終わったこと。そんなものに囚われてはなりません」
「しかし姉さん。俺は！」
「良いのです。私の遺志はクロム、あなたが立派に継いでくれた。私ではきっと成せなかったことを、あなたは平和な世界を実現して。いまも維持しようと努めてくれています」
そこでエメリナはにこりと笑んだ。
「私は幸せでした。あなたが居て、リズが居て。フィレインやフレデリク、皆未熟な私をよく支えてくれました。充分に私は生きました。それに――」
エメリナの繊細な指先に頬を伝うものを拭われて、クロムは自身が泣いていたことに気づいた。
「ひとつだけやり残したこと。次代の聖王に私が継いだ知識を伝えることも、これから叶うのですから。思い残すこともなくなります」
「っ、姉さん！」
「聞きなさい、クロム」
エメリナの強い視線に、凜とした声音にクロムが押し黙る。
「これから語ることは代々の聖王のみが知ること。私は聖王の最後のつとめとしてあなたにこのことを伝えられること、誇りに思います」

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逸れました…ごめんねフレデリク団長。そして浮かんでは消えるカラムさんの存在感。

2012/10/20