連理の枝

『連理の枝』

～イーリス編～　７．

扉を開けた先、彼女には大きすぎる長椅子にちょこりと腰かける小さなルキナを見つけて、クロムは安堵の吐息を漏らした。
クロムを見たルキナは初めぽかんと口をあけ、すぐにぼろぼろと涙をこぼした。
「おとうさま…？」
「ああ。迎えに来たぞ、ルキナ」
「おとうさま！」
小さな身体で目一杯駆け寄ってくる幼い娘をクロムは抱きとめて、かかえ上げた。
「おと…さまは、も…おかえり、に、ならないっ、て…」
今まで余程張り詰めたままいたのだろう。しゃくりあげながら必死にクロムにしがみついてくるルキナをなだめるように、優しく髪をすいてやった。
ようやく落ち着いたのかルキナが顔をあげて微笑んだ。

目にしたクロムが息をのむ程に。恐ろしく艶麗な笑みを浮かべて、ルキナはそっとクロムの腕にある炎の台座に触れた。

――……さん
――…うさんっ
――とうさんっ！

「父さん！！」
マークの叫び声に、クロムは意識を引き戻された。

一度は解けたかに見えた呪は、クロムが真っ先に扉をくぐった直後に再び発動して。サーリャが今度こそ解呪を完了させて新緑の間に飛び込むと、ぼんやりと佇むクロムの前には彼から炎の台座を奪い取り今まさにその胸に小刀を突き込もうとする――
咄嗟にマークが駆けて抜刀する勢いで敵を薙いだが手応えはなく、離れた位置にふわりと姿を現した。
淡い緑の髪は豊かに波打って、呪術士が好むような黒いローブを身に着けた肢体は艶かしく、美しく笑む赤い唇とそれ以上に紅い瞳。見るものを惹き付けてやまぬ美貌に艶麗な笑みを浮かべて、その女は優雅に一礼した。
「グラース公が配下の術士、メイジと申しますわ」

緑髪の呪術士が一礼する動きに合わせて、クロムたちの周囲に炎が巻き起こった。幻覚ではないあかしに、凄まじい熱気が吹き付けてくる。
「魔術は使えないんじゃなかったんですか！」
マークが叫べば、
「呪術はまた、別なのよ。いまここで制限されているのは魔道書の使用と魔力の放出。儀式と贄から編まれる呪術は使用可能。ただこれだけの炎を造り出すには相当な時間と手間を要するけれど」
つまり、即興でこの炎に対抗するような呪術を編むことはできない、ということだ。
「どうあっても父さんの命が欲しいんでしょうね…白の搭に向かった母さんたちも心配で――」
「おおおおお！」
マークが言い終わらぬうちに、気合いの声と共に激しく空を切り裂く音がした。
クロムが全力で降り下ろしたファルシオンの軌跡に沿って生まれた炎の空白ができた。間を置かずそこに飛び込むようにしてクロムが地を蹴る。炎の壁を抜けた先、転移の呪術を完成させたメイジが炎の台座と共に、クロムの目の前で消失した。
「父さんの気合いって、呪術にまで通じるんですね」
「あの剣の力もあるのでしょうけれど。…ほんとうに、不思議なひと」
術士の不在で力の弱まった炎を解呪しながらサーリャが呟いた。

　　　◇◆◇

白の搭の唯一の出入口を固めるようにして配置された兵士たち。前列では弓兵が矢を引き絞り構えている。
煌々とたかれた篝火の空劇に生じた濃い闇を縫うようにして、一筋の矢が疾った。搭の最上階、唯一の灯り取りの窓にかけられた覆いに、狙い済ましたように矢がすとんと刺さった。

その室内で、いち早く動いたフレデリクがそっと矢を抜きルフレの前に置いた。
「矢文、ね」
目覚めた兵士たちに謝罪しつつ拘束をほどいて、唯一の出入口の戸にはできるだけ重しになるものを積み上げて時間稼ぎをした。皆を集めて脱出のための策を練ろうとした時に、件の矢がもたらされたのだった。

「…ふむ。無事に矢は回収されたようだね。君が言うように、ルフレ君があそこに居るならば矢文の意味に気づくとは思うが」
「あら。ミネルヴァちゃんが見たものを疑うのですか？」
「い、いや、そうは言ってはいないよ。早まるのは止したまえ。いくら私でもこの高さから落ちては貴族的に着地も難しい」
闇夜に紛れるようにして、大きな羽ばたきが空を駆った。

ルフレが矢に結わえられた紙をほどいて開いたが、なにも書かれていない。次いで矢のかたち、矢羽の形状を確かめる。
「あいつか？」
ガイアが言外に示す相手に間違いなさそうだった。
「…サーリャは、なにも言ってはいなかったけど」
夫である彼に連絡を取っていた可能性はある。
そこで思い付いたように、白紙に向かって言った。
「ヴィオール」
途端、鮮やかな炎が紙の表面を撫でそこに浮かび上がったのは、かのヴァルムの貴族の手とおぼしき流麗な文字だった。
特定の言葉――おそらくは文字を記した人の名を口にすることで文字が浮かび上がる、サーリャの施した呪いのかかった紙なのだろう。
綺羅きらしく綴られた時候の挨拶を読み飛ばして本題を一読すると、ルフレは顔をあげて一言だけ、こう言った。
「皆、布で鼻と口を押さえてできるだけ換気口から離れて頂戴」
皆を移動させたあと、ルフレは一度だけ窓にかけられた覆いを開き、すぐに閉じた。

闇夜の中に一度だけ搭から漏れた灯りを見逃さず、ヴィオールが合図のために手燭をぐるりと回すと大きな円形に光の軌跡が描かれた。
搭を取り囲む兵士たちは、上空でのやりとりにはまだ気づいていないようだ。
セルジュの駆る飛竜の隣に、もうひとつ羽ばたきが並んだ。
闇夜のなか星明りだけで互いの動きを確認しあう。衝突する心配だけはなかった。彼らの駆る竜はもとは同一の存在、過去と未来、異なる時間軸に存在したものではあるが、彼女たちの間にある絆は他の飛竜たちの間に交わされるものよりも遥かに強固なのだから。
二対の竜が白の塔の周囲をいちど旋回し、ちょど篝火の上空でその脚に抱えていた包みを放した。

飛竜の背から包みを狙い放たれた矢は、あわせて二本。二対の竜から二対の矢がうなりを上げて飛び、過たずそれぞれの包みを結んでいた紐を切った。
ばらりと開いた布から零れて待ったのは沢山の紙片だった。篝火から昇る気流に煽られながらばらばらと舞い落ちる紙片にはびっしりと呪術の文字が綴られていた。流石に異変に気づいた何人かの兵が空を見上げた、その瞬間。
全ての紙片が塵に変わり、兵たちの上に降り注いだ。
「なんだ！？」
「うわ…ぐ、ごほっごふっ」
いぶかしむ声、咳き込む音。にわかに混乱する兵達もしばらくすると静かになり、そして、一斉に笑い出した。

扉の外から途切れることなく聞こえてくる笑い声の大合唱に、ルフレがしみじみと呟いた。
「あの地味に効く感じ…間違いなくサーリャの呪術ね」
皆の方を振り返り、ルフレが言った。
「クロムたちの方も心配だけれど、とりあえず、脱出するわよ」

ルフレがそっと扉を開けると、予想した通りの光景が広がっていた。
篝火に照らし出されているのは笑い転げて身悶え苦しむ兵たちの姿だった。
いや、ただ一人、予想に反して立つ者が居た。篝火のためばかりでなく顔を怒りで朱に染めてこちらをにらみ据えている男は――ロッテだった。
「貴様らあぁぁぁぁっ！！！」
激情のままに抜刀し、こちらに向かって駆けてきた。
ルフレの前に庇うように立つ者が居た。
「ルキナ」
「お母様は私がお守りします」
その手にあるのはファルシオンではなく、ただの精錬された鋼の剣だが、構える気迫に変わりはない。ルキナは正面からロッテと向き合った。
ロッテが上段から降り下ろした刃を一度受け、器用に刃をずらして受け流す。力を削がれて弛んだ手元を見逃さず、ルキナはロッテの剣を弾き飛ばしていた。
すいと切っ先をロッテの喉元へ向けようとしたルキナは誰かに思いきり突き飛ばされて、バランスを崩し横に倒れた。
「……え？」
呆然と見つめるその瞳に、風魔法に引き裂かれ血を流しながら倒れ伏すルフレの姿がスローモーションのように映っていた。
「おかあさま…？」
「…だいじょ、ぶ？ルキナ…」
安心させようとしたのだろう。ルフレはぎこちなく笑みを浮かべ、そして、意識を失った。
「お母様！」

――くすくすくすくすくす。

慌てて起き上がり母のもとへ駆け寄るルキナの耳に、隠微な笑い声が聞こえて。母を庇いながら声のした方を見やると、事態を飲み込めずきょとりと目を見張るロッテの傍らに表れたのは漆黒のローブを纏う妖艶な肢体の持ち主。メイジだった。
ぱくぱくと口を動かすロッテをちらりと見やり、ため息混じりに言った。
「わたしが持たせた護符も生かせずに兵士は皆呪術にやられて、あなただけが護符に守られておめおめ立っているわけね」
「お…おまえ」
「ああもう、まだ立ち直れないなんて情けない。しっかりなさいな」
「メイジ…お前、あちらはどうしたのだ。役は果たしたのか」
そう言われ、メイジがにこりと微笑んだ。
「ええ。目的のものは既に。あとは邪魔者を順に始末するだけですから。きっとあなたはてこずっていると思って手伝いに来たのよ」

　　　◇◆◇

廊下へと続く扉が不意に開かれて、表れた人物にクロムが目を見開いた。
「――叔父上」
低い、感情の読めぬ声でクロムはそう、呼ばわった。
「そう殺気立つものではないよ、クロム。少し話をしないか」
「なにを今更っ」
は、とそこでクロムは押し黙った。
グレンツェンに続いて入ってきた者たちの顔を見て。
宰相が居た、マリアベルの父も――聖王国を支える重臣たちが皆、一様に苦渋の表情を浮かべて、グレンツェンの背後に控えていた。
グレンツェンがクロムの背後、マークとサーリャに視線を投げる。
「場所を変えるかい？」
クロムが眉を跳ね上げる。
「構わん。彼らに隠すことなど何もない」
「なら、そこに掛けて話そうか」
グレンツェンが長椅子を示した。

「君とこうして話すのも久しぶりだね」
「叔父上、何故」
「何故、と聞きたいのは私の方だ。彼らも、君の真意を知るためにここにこうして居る」
自らの背後に控える重臣たちを一度振り返り、再びクロムを見据えた緑の瞳が深く輝きを放った。
「王妃の出自を、彼女が何であるのかを知っていて。君があの女を妃として据え続けるつもりならば、私たちは君の王位を認めるつもりはない」
「ルフレのことを、言っているのか？」
クロムの口調が変わった。そこから叔父に対する敬意は消えている。
「他に誰が居るのかな。ペレジア前国王の血筋、ギムレーの血を継ぐ女のことを言っているのだよ」
「………」
クロムの無言を肯定と取ったのか、グレンツェンが話し続ける。
「私は、この国のために動いているだけだよ。この国と聖王家のために。あの女のことを民たちが知ればどう思う？憎い邪竜の血を継ぐ者が聖王家に入り込むなど許されないことだ。そんな女を王妃に迎えた君も、その子であるルキナも、到底この国で受け入れられるものではないだろう。この国を乱さぬ為に、この事実は民たちに知られてはならないのだよ。だから私は穏便に、全てを終わらせようと考えている」
「だから、王位を簒奪する、と？」
「何とでも言えば良いが――そう、穏便に譲位を促すには君の人気はいささか高すぎる。だからこそ君に裏切られたと知れば国民の怒りも一層深くなるのだが、ね。今はそのことは良い…国民の絶大な信を得ている君が唐突に王位を去れば民たちは納得などしない。事実を知られぬまま君を王位から退かせるためには死んでもらうのが一番良かったんだ。そうしてルキナを王位に据えて――だが彼女にも忌まわしい血を残させるわけにはいかないからね、いずれ、国民が私に信頼を寄せるようになってから、王位は私が継ぐことになる」
言い終わり、ゆるりと首を傾げる。
「良い案だろう？聖王家の威信を失わず、イーリスの平穏を乱さずにことを運ぶには最善の案だと思わないかい？」
「言いたいことは、それだけか」
低くよく響く声音でクロムが言った。
「今は、頭に血が昇っていて冷静な判断もできないだろう。少し考えてみると良い。あまり多くは時間を与えてはやれないが」
「考える時間など必要ない。俺は、ルフレ以外を妃に迎えるつもりはないし、この国を渡すつもりもない――あんたは、何も分かってはいない」
「…兄上に似て、強情な男だな君も。ならば、腕ずくで奪うまでだよ。私の手の中には聖王家の直径の血も、ファルシオンも炎の台座も揃っているのだから。君はここで頭を冷やすと良い。気が変わればいつでも、君の持つ宝剣を私がゆずり受けよう」
そう言って、グレンツェンは席を立った。

グレンツェンと重臣たちが部屋を出て行くのを見届けてからマークが扉のノブをがちゃがちゃと動かした。
「あ～あ、鍵、かけられちゃいましたね。窓の外も見張りが沢山居るみたいですし」
どこか緊張感の欠けるため息を洩らし、長椅子にぼすんと腰掛けた。
「父さん、あいつの言うこと、聞く気はないですよね？」
「当たり前だ」
「それにしてもどこで知ったんでしょうね、母さんのこと。皆が言いふらすとは思えませんから――案外、ギムレー教団から聞いたのかもしれません」
「なに？」
「だとすれば戦争が終わる前から知っていた可能性が高い。それを、脅威が去った今頃になって行動に移すんですから、油断ならない人ですねえ。ああ、母さんが戻ってきたから、行動に移したのかな？」
「――マーク」
「はいっ、何でしょうか父さん」
「少し黙っていろ」
「はぁい」
むぅと頬を膨らませつつマークが口をつぐんだ。

グレンツェンが去ってからどれほどの時が経っただろうか――そう、長い時ではなかっただろう。
かちりと、鍵の開かれる音がして。扉の向こうから姿を現したのはこの国の宰相、マクシミリアンだった。

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2012/11/3