『連理の枝』





〜イーリス編〜　９．




イーリス自警団が騎士団へと再編されて。彼らがアジトとして使っていた建物も今ではすっかりと片付けられ、新たな住民たちの到来を待っていた。
片付き明け渡されたこの場所は、来年の春に孤児院として新たな門出を迎えることになっている。
が、いまは住む者もない無人の建物の、筈だった。

厨房のある一角から漆黒の外套を纏った青年が姿を表した。片手に盆を持ったまま器用に扉を閉め、中庭に面した回廊を歩き始める。
その歩みを止める声があった。
「お、マークじゃねえか」
「ヴェイクさん。ひとりで訓練ですか？」
「おう。待つのは性に合わねー。せめて身体でも動かそうと思ってよ」
「ははは、ヴェイクさんらしいですね」
「なんか含みのある言い方だな」
「いえ。そんなことはないですよ」
「まあ、良い…付き合え」
「え」
「こないだ約束したろう。訓練に付き合えっつってんだよ」
「ええと…そもそも約束した覚えがないのですが」
「細かいこと抜かすな」
「それに僕、母さんにスープを届ける役目があるので」
「ならそれが済んだら付き合えよ。てめえの親父が嫁に付きっきりのせいで訓練相手がいねーんだよ」
あくまで引くつもりはないらしい。マークがひとつため息を吐き出した。
「あんまり期待しないでくださいよ…」
「うっし！訓練場で待ってるからな！！」
うきうきと去ってゆくヴェイクを見送りながら、
「もうここには模擬刀も置かれていないでしょうし…真剣でやる気ですよね」
マークがもうひとつため息をついた。



以前は『みんなの部屋』と呼ばれていた、団員たちが集まり雑談を交わしていた一室。ここだけは持ち主の分からぬタペストリーやツリーなど雑多なものが置かれたままで、以前の自警団時代の面影を残していた。
いまテーブルを挟んで対峙しているふたり。リベラとソワレがあえて残したのだった。
「ともかく、子供が無事に生まれるまでは外出禁止ですからね」
「リベラ！」
リベラの一方的な宣言にソワレが声を荒げる。
「それぐらい強く、あなたは私の信頼を壊したのですよ」
「そう言われると…返す言葉もないけどね。だけど、仲間の危機にだよ、」
「ソワレさん」
「…すまない。もう、無茶はしないから」
かなり目立ってきた腹部を撫でる手つきは優しげで。細められた瞳に宿る光も柔らかなものだった。
「その代わり、身体が軽くなったら――」
「…分かりました。その時は、止めませんよ」
それ以上止めても無駄なのは分かっているのだろう。リベラがため息と共に認めた。



自警団の軍師が私室として使っていた部屋。床が見えないほどに積みあげられていた数多の書籍もいまはなく、片隅にぽつりと置かれた寝台と、書き物机と椅子だけが寂しく部屋を飾っていた。
その唯一の寝台に横たわり、困った顔で傍らの椅子に腰かけた相手を見上げたのはルフレだった。
イーリス城から脱出後、当初の予定通りにいまは無人となった自警団のアジトで皆と落ち合って。今後の細かな指示を出す途中で高熱に倒れたのが二日前。ようやく意識を取り戻したいまも、顔色が優れず本調子とは言いがたかった。
「あの…ね、クロム」
おずおずと、声をかける。
「どうした。眠れないのか」
琥珀の瞳を見つめ返してクロムが言った。
「まあ、眠れないのもあるんだけど…あれだけ寝れば。じゃなくて」
「ああ」
「起きちゃ、だめ？」
「駄目だ」
「……………」
「……………」
「クロム」
「なんだ、ルフレ」
「ずっとあたしに着いてても、疲れるでしょ？皆のところへ…」
「問題ない」
またしばし無言で見つめあう。
そんな沈黙の中、ノックの音が高く響いた。

扉からひょこりと顔を覗かせたのはマークだった。
「あ、母さん、起きてますね」
そっと戸を閉めて室内に入ってくる。
「スミアさんたちが、お芋のスープを作ってくれましたよ。飲めそうですか」
「ありがと、マーク」
答えながら起き上がろうとすると、背中に逞しい腕が差し入れられてあっさりと抱き起こされた。ルフレがなにか言う間もなく背に枕やらクッションやらをあてがわれて、見ればスープもクロムが受け取っている。
「クロ…む」
なにか言いかけた口の中に、よく冷ましたスープをスプーンごと入れられた。
裏ごしされた芋と牛の乳を使ったスープはとろりとして、クロムが適温に冷ましてくれたおかげで猫舌のルフレにも美味しく味わえた。
「ん？まだ熱かったか？」
物言いたげなルフレの視線を感じて、クロムが次の一口を冷ましかけていた手を止めた。
「だいじょぶ。美味しかったわ。て、そうじゃなくて…」
「なら、口移しが良かったか？」
「それはマークが居る前ではちょっと」
「そうか」
スープぐらい自分で飲める、とルフレは言いたかっただけなのだが。これ以上逆らうと本当に口移しが来る気がして、やめた。

「意識がない母さんに口移しで水を飲ませるのは仕方ないですけど。いまそれをやられると流石の僕もびっくりしますよ」
笑い混じりにさらりと言われたマークの言葉にルフレが固まる。
「え、と…マー、はむ」
またスプーンが押し込まれた。
「仕方ないだろう。そうでもしないとおまえは熱冷ましの薬も飲み込もうとしなかったんだ」
憮然とそう言われては返す言葉もない。
「あの時の父さんの必死な顔、母さんにも見せたかったです。ほんと、愛されてますよね〜」
にこにことマークが言う。そこでぱちんと両手を合わせた。
「そうだ、僕、ヴェイクさんを待たせているんでした」
「ヴェイク？珍しいな」
「父さんが母さんに付きっきりだから訓練相手に指名されちゃったんですよ」
「そうか。すまないな」
「良いんですよ。その代わり父さんは母さんをしっかり見張っていてくださいね。熱が下がったとはいえ薬が効いてるだけなんですから」
「ああ。分かった」
それじゃあ、と言ってマークは部屋を出ていった。

マークのことを見送ったルフレがクロムの方へ向き直ると、目の前に空色の瞳があった。
「！――ん…」
そのまま唇が重なる。
ルフレの柔らかな唇の感触を楽しむように軽く食み、歯列を割って舌を挿し入れる。
クロムの手はルフレの後頭部と腰に回されていて、逃げないようしなやかな肢体を固定している。もっとも、ルフレは軽く身動ぎしただけで、逃れようとはしなかったが。
口腔内を探るように舌を動かす。応えるように差し出されたルフレの舌を絡め、吸った。ちゅぷちゅぷと水に濡れた音が室内に響く。幾度か角度を変え、互いに貪るように交わった。
名残惜し気に離れたくちびるの間を、つ、と白い糸が引き、窓から射し込む陽光に光った。
クロムの熱の篭った視線の先にあるルフレの瞳もとろりと黄金色に蕩けて。深青の瞳を見つめ返していた。
「かぜ、うつっちゃうわよ」
ルフレの言葉に、再び口付けようとしていたクロムの動きが止まる。
「問題ない」
クロムの指先がルフレの頬の稜線をたどり唇をなぞる。
「おまえに貰う風邪なら、歓迎する」
真顔でそう言われ、ルフレが苦笑する。
「クロムの…ばか」
ルフレの言葉にクロムはひとつ笑むと、今度は触れるだけのキスをした。
「今度はおまえが看病してくれれば良い」
柔らかく流れる黒髪を一房手に取ると口づけた。
「…ルキナの行方が掴めるまでとうせ身動きが取れないわけだしな」
「そう、ね…」
「――すまん。つまらんことを言った」
労るようにルフレの髪をすくと、もう一度口づけた。そのままコツンと額を合わせる。
「熱は下がったみたいだな」
「クロムの看病のおかげね」
そこでふと、ルフレの視線が流れた。
「――ガイア」
「なに？」
クロムの方へ視線が戻る。
「戻ってきたみたいよ」



使われなくなって久しい閑散とした訓練場に剣劇の音が響く。ヴェイクが次々と繰り出す重い一撃を器用に受け流しながらマークがかろく跳び、ヴェイクの背後に着地した。横凪ぎの剣を振り向きざまの斧が受ける。
一端間合いをあけ、互いに向き合った。
「くそっ、うろちょろ逃げんじゃねえ！」
言われ、マークが苦笑する。
「では――」
剣の握りを変えて両手で構えたその形を見てヴェイクが眉を潜めた。
「お前、その構え」
切っ先を相手に突きつけるようにして、身体の真横に沿わせるような構え。
「父さんやルキナさんの剣を参考にしてみました」
「面白れえ…来い！」
ヴェイクの言葉と共に、マークが一瞬で間合いを詰めた。
「――っ、うぉっ！」
予期せぬ動きに斧を構え直す隙もなく、気づくとヴェイクの喉元にぴたりと切っ先が突きつけられていた。
額から汗が伝わる。睨み合った視線を先に逸らしたのはマークだった。
「あ」
「あん？」
「お帰りなさい、ガイアさん」
綺麗に闘気を仕舞い込んで、にこりとマークが言った。
塀を越え音もなく着地したガイアが、気だるそうに訪ねた。
「クロムは、ルフレのところか」
「はい。母さんも起きてますよ」
「なら報告が一度に済むな」
ひらひらと手を振りながらガイアが建物の方へと消えた。
ヴンと鳴った風切り音にマークが仰け反る。
「ヴェイクさん、危ないですよ！」
慌ててヴェイクとの距離を取った。
「うっせー！仕切り直しにもう一戦だ！」
なにか、彼の矜持に火をつけてしまったらしい。マークはこっそりとため息を吐くと、片手でゆるく剣を構えた。



「…おまえら昼間っからなにやってた」
ノックのあとに顔を覗かせたガイアがルフレの顔、次いでクロムの顔を見て。室内に入ってくるなりそう言った。
口許を笑みのかたちに固定したまま表情の変わらないルフレと、僅かに息を詰めたクロム。
ガイアはわざとらしくため息を吐きながら部屋を横切り、書き物机に置かれた盆を脇に寄せそこに腰かけた。
「手配は済んだ――ものがものだけに、仕上げはこっちでやることになるがな」
「ありがと」
「報酬は…」
「リズたちが、ドニに貰ったお芋でお菓子作るって言ってたわよ」
「！…厨房だな？」
厨房ならば中庭を突っ切った方が近い。机越しに窓を開け、そのまま外へ飛び出そうとしたガイアが、思い出したように振り向いた。
「言い忘れるところだった…再来月、という噂だ。あちらさんも焦ってるんだろうな」
ルフレの顔から笑みが消えた。
「それって…継承の儀、よね」
ルフレの言葉で、クロムの顔からも表情が失せた。
継承の儀。聖王を継ぐ者が挑む一連の儀式をそう呼ぶ。グレンツェンは一年の服喪と言っていたその期間を大幅に縮め、小さなルキナに聖王位を継がせる算段であると、ガイアはそう言っているのだった。



賑やかな話し声が聞こえて、ガイアは厨房の隣にある食堂の窓から中を覗きこんだ。
「あ、ガイアさんお帰りなさい！」
ぴょこんと立ち上がったのはリズだ。菓子の盛られた皿を手に、にこにこと窓辺に移動する。
「えへへ〜、お菓子を作りました」
「スイートポテトか、うまくできてるじゃねえか」
ひとつ摘まみ、口に入れる。
「うまい」
ぺろりと指先を舐め、そう言った。
「良かったぁ。セルジュさんに教わりながら作ったんだよ」
「リズが作ったのか？」
「うん！」
「上手いもんだな、これなら菓子屋が開けるぞ」
「先生が良かったんだよ」
にこにこと笑うリズの手元から、更にふたつ菓子を摘まみ一度に口に放り込んだ。

「もう、そんなに食べたらノノの分がなくなっちゃうでしょ！」
「お母さんはもう充分に食べたですよ」
「むぅ…でももっと欲しいんだもん」
「まーあそんなむくれんな？俺の分をやるからよ」
「やったあ！ありがとう、グレゴ」
先程から視界の端に見えてはいた、ガイアが出かける以前には居なかった筈の三人組に視線を向けた。
「お前らなんでここに居る」
「お、冷たい言い種だねえ」
「そうだよ！クロムのお兄ちゃんがたいへんだっていうからノノたち急いで飛んで来たんだよ！」
彼らがどこを旅していたのかは分からないが、噂は随分と遠方まで届いているようだ。
もっとも、クロムの無事を信じて疑わないあたりは、ノノらしいが。
「誰か知った顔に話を聞こうと思ってここに寄ったんだが…まさか本人たちに会えるとは思わなかったぜ？」
灯台もと暗し、と提案したのはルフレだった。いまは無人となった自警団のアジトは、この人数を隠すには最適だったのだ。



「ほんとうに、良いのね」
口づけの合間に割り込ませるように、ルフレがぽつりと呟いた。
クロムは彼自身の決意を言葉にして伝えた覚えはなかったが。その視線から、言葉の端々から察してしまうらしかった。
ルフレの伏せた睫毛の下にある琥珀の瞳には、彼女には珍しい、躊躇いの色。
「ああ。俺は、民を信じる。それに、おまえのことも」
迷いなく真っ直ぐに言われたクロムの声に、ルフレは一度瞳を閉じ、そして正面からクロムを見つめ返した。
その琥珀にもう迷いがないことを確かめると、クロムはもう一度口づけた。






Back <<　　　　　　　>> Next

Home



たぶんあと、２話くらいで終わります。終局前のほのぼのイチャイチャ。
この期に及んで終わりを変えようとしているわたしって…タイヘンだけど面白そうなのを思いついちゃったので。問題はわたしの力量でちゃんと書ききれるかですが。

2012/11/17