連理の枝

『連理の枝』

～ペレジア編～　10．

静かに降り注ぐあたたかな光。胸に受けた痛みが徐々に引いてゆくのを感じながら、ディーネは目を開けた。ほっとしたようにこちらを見つめる少女と目があった。確かリズと名乗った、聖王クロムの妹にあたる娘だった筈だ。
「なぜ、私の命をお救いくださったのですか？私はあなた様の兄君を手にかけようとした女ですのに」
そう言われ、リズがわずかに目を見張る。
「…そんなこと、関係ないよ。怪我した人がそこにいたら、誰だとか関係ないもん。あたしはみんなを助けたいから」
再び紡がれる柔らかな緑の治癒の光に包まれながら、ディーネは再び瞳を閉じた。その傍らに、彼女を労わるようにエードラムの姿があった。

ファウダーの消滅とともに障壁が取り払われ、ルキナとマークは一目散に彼らの両親のもとへと駆けつけた。
クロムに抱えられるようにして立ち上がったルフレがふたりに笑いかけた。
「ルキナ、マーク」
「お母様…」
ためらいがちにこちらを見つめるルキナのことをルフレはふわりと抱き締めた。
「ただいま、ルキナ」
「おかえりなさい、お母様…」
ルキナの大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れる。
「ルキナさんばっかりずるいですよ～」
その脇で唇を尖らせて抗議の声を上げるマークに苦笑すると、ルフレはルキナの背をあやすように叩いてから、次にマークを抱き締めた。
「お帰りなさい。母さん」
「また大きくなったわね、マーク。なんだかクロムに似てきたみたい」
青年へと成長した彼女の大きな息子の顔を見上げて言葉を続ける。
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「なんでしょうか母さん」
「マークの魔道書、貸してもらえないかしら」
「？はい。でも一体…」
「――ルフレ」
クロムの静かな声音にルフレが振り向く。その唇には静かな笑み。
「ひとつ、試しておきたいことがあるだけよ」
その両の手で彼女の夫の頬を包みながら、優しく言う。
「私を生んでくれたこの国のために、やっておきたいことがあるの。すぐに終わるから、ここで待っていてくれる？」
クロムはルフレの手を取って、優しく彼女に口づけた。
「分かった。だが無理はするなよ」
「――ありがとう」

そこは真実の竜の祭壇だった。
多くの生命を、絶望を蓄えていた地上のそれとは異なった、この大地そのもののエネルギを蓄え神竜へと捧げるための装置。
ギムレーが闇へと堕ちた時、この場に蓄えられゆく清浄な力はかの竜と相反するものへと変わり、使われることのなくなった溢れる力は今もこうしてペレジアの地下に、巨大な地底湖の形を取って密やかに充ちていた。本来ならば神竜の器に満ち、再び大地へと還元される筈の力が数千年の永きに渡りこの場に留め置かれている。

それらの力を塞き止める役を果たす神殿の地下深くで、祭壇を前にして佇むルフレの姿があった。その左手には先程マークから借りた魔道書がある。
この先に広がる地底湖の水面のように凪いで静かな眼差しが、無感情に祭壇を見つめる。
この祭壇の意味を、役割を、彼女はどこまで知っているのだろうか…。
僅かに瞳を細めて集中する。魔道書に宿る力ある言葉たちが彼女の意思を受けて魔方陣として周囲に展開し、指先に集まる雷撃の波動。その右手に、両側から触れるものがあった。呪術士に相応しい、青白い指先の持ち主たち――サーリャとヘンリーだった。
「だめよ、ルフレ」
「それはやらない方が良いと思うよ～」
凪いだ瞳に感情が湧いた。微かな笑み。
「ふたりとも、ありがとう。でもね、これを破壊しなければ、この国の大地はいつまでも渇れたまま」
優しげな口調とは対照的な冷徹な力が再びルフレの指先に集束する。サーリャとヘンリーが諦めとともに手を離した。

ぱきりと、あっけなく玉が砕けた。
厳重に施されたていた筈の封印が易々と破壊されたのが、ルフレの放った力が封印を施した力と同質のものであるからだと、サーリャとヘンリーは気づいていた。
ルフレが玉を破壊することで、地下空間に留め置かれていた力が爆発的に解放され、ギムレー教徒たちによって血に染め抜かれた聖地に一瞬にして清浄な空気が満ちた。
光が晴れ、視界が開けたその場所に、同じ姿勢のままルフレが立っていた。まず最初に異変に気づいたのはすぐ後ろで見つめていたサーリャとヘンリーだった。いや、異変と呼んで良いものか。
ルフレは本来の姿を取り戻していた。
クロムと出会ってすぐの頃の痩せぎすの少女ではなく、ギムレーと共に消滅した時の成熟した女性の姿に。
肩を過ぎる程度だった青みがかった黒髪は長く延びて腰までを覆っている。顔立ちからはあどけなさが抜け、それだけは変わらず理知的な光を宿す瞳が深い琥珀の色合いを湛えていた。

地下に居た彼らは後に知ることになる。
ペレジア城の地下から沸き上がった水の奔流が、この日、ペレジア全土に降り注いだ。まる一日降り続けた雨が去った後にはこの国にはありえぬ緑が芽吹き、あるいは水が湧き出していた。
起こったことは理解できぬままペレジアの人々は静かに大地に祈りを捧げた。雨をもたらした天ではなく、彼らの神が統べる大地に。

クロム達と別れガイアはダルと共にルフレの母を探していた。
ギムレー教徒たちの追撃をかわし、いくつかの室の鍵を空け、ようやくたどり着いた部屋で。寝台の上で静かに眠り続ける女性の姿を目にしたとき、ダルに確かめるまでもなく彼女がそうであるとガイアには確信できた。
白いシーツを扇型に覆う、青みがかった黒髪。長い睫毛が影を落とす白磁の頬。形の良い唇がゆるやかな寝息をたてている。
ガイアの視線に頷き返すと、この上もなく丁重にダルがルフレの母を抱き上げた。

ギムレー教団の実質的な支配者であるエードラムと、神とも崇めるルフレに手出しをしようとする教徒が居る筈もなく、何の障害もなくクロム達は神殿の地下から出口へ向かうことができた。
長く続く回廊を進み、神殿の入り口が見える場所にたどり着くと、そこにはダルとガイアが待っていた。ダルの腕に抱えられたその女性を見て、ルフレは知らずあえぎを漏らした。
「母さま…」
青みがかった黒髪、白い頬に影を落とす長い睫毛、その下にある瞳が自身と同じ琥珀の色を持つことを、ルフレは知っていた。
見間違う筈がなかった。眠り続けるその女(ひと)は間違いなくルフレの母親だった。
「奥の部屋に寝かされてるのを見つけた、が、起きる様子がないんだが」
ガイアの言葉に、サーリャがなにかを視るように瞳を細めた。
「ファウダーの呪い…まだ残ってるみたいね」
「そんな…」
「大丈夫だよ～、たぶん時間の問題だから」
「そうね。いずれ、目覚めるでしょう」
ルフレと、ダルからも安堵の吐息が漏れる。
「では、城に部屋を用意させよう。そこで目覚めを待てば良い」
「ありがとう、エド」
ならば早く城へ、と神殿を後にしようとした彼らの背後から一人の娘が駆けて来て、まろぶようにしてひざまづいた。ルフレを庇うようにして立ったクロムの肩にそっと手を触れてから、ルフレは娘の前に進み出た。
娘の瞳は涙に濡れていて、震える声が懇願した。
「お待ちください、我らが神よ！あなた様が神殿を去られては…私たちはこれから何をよすがに生きてゆけば良いというのですか。生贄も今まで以上に捧げますから、どうか、我らの元にお留まりください」
ルフレは涙に暮れるギムレー教徒の娘の前にそっとかがみこみ顔を上げさせると、言った。
「血も、絶望も、生け贄もあたしは望まない。どうしてもなにかを供えたいと言うなら、そうね――花を。これからのこの国には沢山の花が咲くでしょうから。祭壇には花を飾ってちょうだい」
「はな…でございますか」
「ええ。花を、捧げることを望みます。そして信者の皆には幸せになる義務を与えます」
「しあわ…せ？」
初めて耳にしたというように、おずおずと娘が口にする。ルフレは慈悲深い笑みを浮かべた。
「そう、幸せ。その意味はあなた自身が考えるのよ。他の教徒達にも、そう、伝えてちょうだい。祭壇には花を、教徒には幸福を」
呆然と涙も枯らした娘に背を向けて、ルフレたちは神殿を後にした。

ペレジア城内、王の執務室の扉をルフレは開けた。あの神殿の地下でファウダーの亡霊を完全に滅ぼしてから数日が経過している。ルフレの母は未だ目覚めてはいなかったが、いつまでも待つわけにもいかず今日イーリスに発とうというその日だった。
執務室には既にルフレ以外の全員が揃っていた。その雰囲気に対する違和感にルフレは気づいた。僅かに残る諍いの気配に。
「ええと…クロムと、エド」
「「なんだ、ルフレ」」
お互いの声が綺麗にハモったことが気に入らないのか同時にむっと押し黙った。
「また喧嘩したでしょう」
「「そんなことはない」」
またハモる。心底不愉快だ、というように睨みあう。この二人、どうも馬が合わないようだ。
「エド、何度でも言うけれど、あたしはイーリスへ向かう。クロム、――イーリスを取り戻したら、あたしは…」
それぞれの顔を見ながら言い含めるようにルフレが言葉を紡ぐ。
「言うな」
憮然としたクロムの声音がそれを遮った。その無骨な手がルフレの頬に触れる。そのままルフレを抱き寄せた。
「クロム…」
「ひとの姉に気安く触れないでもらおうか、聖王」
「自分の妻に触れるのに許可が必要か」
「ルフレの言葉を聞いていなかったようだな」

――あたしはイーリスの王妃に戻るつもりはないわ。

今のように喧嘩を始めた二人に、ルフレが言った言葉だった。勝ち誇ったように笑みを浮かべるエードラムにルフレはこう続けた。

――でも。イーリスを取り戻すまでは、クロムと共に行く。

「俺は納得してはいない」
クロムの腕の中、ルフレがそっとクロムの頬に触れた。視線が合う。ゆるりとため息を吐くと、クロムはルフレを開放した。ルフレはエードラムの方に向き直ると、言った。
「エド。行くわ」
「…止めても無駄なようだな。お前が優秀な軍師なのは分かっているが、気をつけろ。あれは一筋縄ではいかん相手だ」
「知っているの？」
「ああ。面識はないがな。ギャンレル王と親父殿と、どちらもイーリスとの繋がりを持っていた。その糸をそれぞれに引いてみたら同じ所からいらえが返ってきた」
「それが、グラース公…」
「恐ろしく周到な男だ。何手も先を読み、必ず勝てると読んだ時にしか動かないような」
「分かった。忠告、ありがたく受けておくわ」
ルフレはここ最近身につけていた動きの制限されるドレス姿ではなく、以前と同じような旅装に身を包んでいた。
「母さん、これを」
「ありがとう」
マークから漆黒の外套を受け取ると羽織った。彼がイーリス城から持ち出した、彼女自身の着慣れた外套だった。

そこには、幾多の苦境を切り抜けて常に自軍に勝利をもたらし続けた、神軍師の姿があった。

「せめて、ダルとディーネを連れて行け。なにかの役には立つ筈だ」
「ありがとう。イーリスを取り戻したら、また」
「ああ。待っているよ。姉さん」
ルフレはクロムを振り向くと、言った。
「さあ、行きましょうか――イーリスへ」
凛とした声がそう告げるのに、
「ああ。帰るぞ、イーリスに」
クロムがそう、応えを返した。

ルフレがこの世界に帰還してから一月が過ぎようとしていた。

　　　◇◆◇

その部屋を飾る色彩は淡い緑に統一されていた。春萌ゆる緑の色に。

――新緑の間。

そう名付けられた室の片隅で、柔らかな絨毯に埋もれるようにして涙に暮れる幼女がひとり。紺色の髪、空色の瞳。クロムとルフレの娘――ルキナだった。
扉が開かれる気配に、小さなルキナははっと顔を上げた。
「グレンおじさま！」
駆け寄ってきた幼子をグレンツェンは軽く抱き上げた。
「おとうさまは、いつおもどりになられますか？おかあさまは？」
子供らしくむうと唇を尖らせる。
「じじょたちがいうのです。おとうさまはもうかえってこないって。おかあさまはもうどこにもいないって。そんなの、うそですよね？」
舌足らずな口調が必死に言い募った。
その紺色のあたまをあやすように撫でながら、彼女にいつわりの真実を告げるべくグレンツェンは言葉を選びながら語りだした。

イーリス城の回廊を並んで歩く長身の影がふたつ。
「なぜルキナ王女への目通りが叶わないのですか」
「ただの用心だよ。裏切り者の天馬騎士たちも見つかっていない今、王女の所在を知るものは最小限であるに越したことはない」
「私を疑っておられるのでしょうか」
「そうは言っていない。ただ、おまえがかの騎士たちと親交があったことは事実だ。まして、命を賭して守るべき主君を残しおめおめと王都に帰還したとあっては――まあ、疑いの目を向ける者も居るということだ。分かるだろう？」
グレンツェンの、彼の甥によく似た顔が全く異なる笑みを浮かべてそう言うのに、フレデリクは憮然と一礼した。

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ペレジア編はこれにて完結。舞台はイーリスへと移ります。
ルフレさんのお母さんは…保留で。というか起きちゃうと本編とは関係ない設定で色々ごたごたするので（エ）

2012/9/15