『連理の枝』





〜ペレジア編〜　６．




夢を見た。

やわらかな陽射しが降り注ぐ場所。
清涼な小川とささやかな緑。小川を辿っていくと古代の神殿のような建物がある。
幼い日々を過ごした場所。
母が居た、弟がいた、弟の母君も、その従騎士も居た。
泣きたいぐらいに幸せな。
懐かしくて穏やかな夢だった。



小川に沿った石畳を駆ける少女がひとり。
まだ背も伸びきらないほっそりとした身体。10歳に満たない子供に見えた。
青みがかった黒髪は耳の上あたりで二つに束ねられており、きらきらと輝く双眸は明るい琥珀の色合いだ。
身に着けたワンピースの白と変わらぬほどに、恐ろしく肌の白い少女だった。
その可憐な外見には似合わぬ木刀をその小さな手に握っていた。

不思議な場所だった。
眩しいほどに降り注ぐ光に反して、天を見上げても太陽がどこにも見当たらない。
ただ、遥か頭上を白い岩壁が覆うのが見えるだけだ。
もっとも、生まれてからずっとこの場所を出たことのない少女にとってはなにも不思議なところはなく、神殿にある書物で見た、『太陽』や『月』の方が遥かに不可思議に思えた。
時間さえかければ少女の足でもぐるりと白い岩壁づたいに端から端まで周ってしまえるこの場所とは違って、外の世界には果てがなく『地平線』というものがあるらしい。

外の世界について書かれた書物――物語、という種類の書物らしい――の中で一番少女の興味を惹いたのは『虹』だった。
『空』にかかる七色の橋。
鮮やかな青に映える虹の輝き。
『空』すら目にしたことのない少女には、書物の挿し絵から想像を膨らませることしかできない。

不意に少女が立ち止まった。
その幼い手には不釣り合いな木刀をゆるく構える。
「なんだ、バレてたのか」
そう、少女の頭上から声がした。
声と同時に少女の頭上の梢が揺れ、少女のものと良く似た木刀を構えた少年が躍り出た。
ぐるんと空中で一度回転すると、勢いをつけて少女に斬りつけた。
カン、と、かろい音が鳴る。
少女が頭上に構えた木刀で少年の一撃を受け流した音だった。
少女からわずかに離れた位置に少年が着地する。そうやって立つと、年の頃も、背の高さも少女と同じぐらいなのが分かった。
「あの高さからの攻撃なら受け止められないと思ったんだがなぁ…いまのどうやったんだ、ルフレ？」
アイスブルーの瞳がきらきらと輝いている。
必殺の一撃をいなされたことに対する悔しさよりも、いまの技に対する興味が勝ったという表情。
「先日読んだ書物にあった技を試してみました。力ではもうエドに敵いませんから、小手先の技を磨きませんと」
「本、ねぇ…よくあんな細かい字ばかりのものを読めるよな、ルフレは」
「おかげでエドの攻撃を防げましたから、無駄ではありませんでしたよ」
そう言って、少女――ルフレは、少年――エドに笑いかけた。
「あ〜あ、背中の荷物さえなきゃ、いけたと思うんだがなぁ」
未練がましく呟きながら、くしゃりと自らの銀糸の髪をかきまぜる。上衣の袖口から覗く手は、ルフレに劣らぬほどに白い。
その背に負われた袋の中にはいっぱいに、二人の集めた果実が詰まっている。
「あら、言い訳だなんてダルに知れたら叱られますよ？『騎士は常に潔く』なくては」
「俺は別に騎士になる気はないから良いんだよ！――ルフレの騎士になら、なってやっても良いけどな」
後半はどこか呟くような声だったが、ルフレの耳には確かに届いた。
「それは、ありがとうございます。でも、そういうことは、わたしに一回でも勝ってから言ってくださいね」
にっこりと、屈託のない笑顔でそう言った。
「――っ。は、早く帰ろう！」
慌てたようにそう返すと、エドがルフレの手を引いた。
「そうですね。母さまもソレイユ様も、ジャム作りの用意をしてわたしたちの帰りを待っているでしょうから」
小さな二人は仲睦まじく手を繋いで、石畳の路を駆けていった。



　　　◇◆◇



がくんと馬車の停まる衝撃でルフレは目を開けた。
どうやら、目的地に着いたようだった。
ダルに手を取られながら馬車を降りる。
ルフレが視線を上げた先に、巨大な石造りの城が見えた。
ペレジアの王城。
生まれてから10年近くの年月を過ごしたその場所を、外から見るのはまだこれで三度目だった。
初めてこの城を目にしたのは、クロムたちイーリス自警団とともにペレジアと戦を成した時。二度目は、宝玉＜黒炎＞の返還を受けるために訪なった時に。
そして記憶が戻った今、幼い日々を過ごした神殿を地下に抱いた故郷として、ルフレは王城を見上げた。
その眺めに特に懐かしさは感じなかった。むしろ、クロムたちと過ごした戦いの日々がどこか懐かしく思い出された。
ダルと、二人の従僕に促されてルフレはゆっくりと、城門に向かって歩き出した。



　　　◇◆◇



ガイアに伝言を託して、もう一眠りしようかと思っていたルフレだったが天幕の外に感じた気配に視線を出入り口に向けた。
「ダル？」
そう声をかけると天幕の入り口が開けられて青銀髪の騎士が入ってきた。
「何故、逃げなかったのですか？」
そう言われて、ルフレは淡い笑みを浮かべた。
そっと、自身の首につけられた枷に手を触れる。
「ダルは――魔術関係は苦手だものね」
ルフレのその言葉にダルは片方の眉を軽く上げた。
「この首枷がある限り、あたしの居場所は首枷の作り主に筒抜けだから。逃げてもあまり意味がないのよ」
ガイアに話したのとは違う、ルフレが逃げることを躊躇った一番の理由を、言った。
「これを作ったのはギムレー教団の誰か？」
ルフレはそう続けた。
「エードラム様が」
「――エド、が？」
きょとんと目を見張る。幼い頃は本を開くことさえ嫌っていたはずの彼女の異母弟が、この首枷を作ったということにルフレは少なからず驚いた。
「もう十何年も会っていないんだものね…あたしが変わったように、エドも変わった、てことなのかしら」
「…お会いになれば分かるでしょう」
そうダルに返されて、ルフレは訝しく眉を寄せた。



　　　◇◆◇



ペレジア城の内部は外の熱気が嘘のようにひんやりと心地よく冷えていた。城の裏手から沸きあがる水が周囲に巡らされていることと、外気を遮る分厚い石壁の効果で適温が保たれているようだった。

迷路のように入り組んだ通路をダルに促されながら、ルフレは奥へと向かっていた。城門を通ってすぐに二人の従僕はどこかへ消えていた。
ルフレの少し前を行くダルが、前を向いたままルフレにしか聞こえない声音で呟いた。
「今ならば、まだ逃がして差し上げられる」
「そんなことをしたら、ダルがひどい目に遭うんじゃないの？」
「今更この命、特に惜しくはありません」
「……やめとくわ」
「気遣いは無用です」
「エドのこと、気になるし。ダルの命もあたしにとっては大切なものだから」
「では、エードラム様のもとにお連れしましょう。ですが――私のことを心配なさる以上に、どうぞご自分を大切になさいますよう」
そう言うとダルはひとつの扉の前で立ち止まった。それ以上はなにも言わず、ゆっくりと扉を開いた。
ダルの後に続いてルフレも部屋の中に入る。
そう広くはない室内の中央に据えられた執務机、脇には座り心地のよさそうなソファと低いテーブル。国王の執務室だと思われた。

「やっと来たか」
執務机の奥に腰掛けて、横に立つ女性――ペレジアの軍師ディーネから報告を受けていた青年が立ち上がってルフレの方へ歩み寄った。
ルフレのすぐ目の前で立ち止まった青年のアイスブルーの瞳を琥珀の瞳が見つめ返す。
「エド…？」
「お帰り、姉さん」
そう言うと、ペレジア国王エードラムはルフレのことを抱きしめた。
ルフレの背に回された逞しい腕、頭ひとつ分高い身長。ルフレが覚えているよりも硬質に輝く銀白の髪は長く伸ばされてうなじの辺りで一つに束ねられている。
ああ、彼も大人になったのだな、とルフレはぼんやり考えた。
「ダル、ご苦労だった。――ディーネも、報告は分かった。下がって良い」
ルフレの肩越しに言われたその言葉に、ダルとディーネは一礼すると執務室を出ていった。
ルフレを促してソファに座らせると、エードラムもルフレの隣に腰掛けた。
「よく、戻ってきたね。確かに術式は成功したが、こうして顔を見られてやっと安心できた」
その言葉にルフレが軽く目を見張る。
「それは――エドが、あたしを？」
「呼び戻した。本当はこの場に呼び戻したかったが、どうしても、あの聖王の元にしか存在を収束させられなかった」
何から質問しようかと、小首を傾げたルフレの肩を青みがかった黒髪がさらさらと滑って流れた。
エードラムがその髪を一房手にとって、口づける。
母の異なる、半分だけ血の繋がった弟の、近親者といえど近すぎるその距離にルフレは僅かに身を引いた。
するりと自らの手を離れたルフレの髪。彼女との距離を再び縮めることはせず、エードラムは言葉を継いだ。

「あの日――ルフレを守ることができなかったあの日から、ずっと、ルフレを取り戻すことだけを考えて、生きてきた」
その言葉にルフレは戸惑ったように眉根を寄せた。



　　　◇◆◇



手を繋いだまま石畳を駆ける。ほどなくしてルフレとエードラムは神殿の裏口に辿り着いた。
扉を開こうとして、大人たちのどこか深刻そうな話し声が聞こえて。扉を開くのをためらった。

『じきに、この場所も安全ではなくなるでしょう』
エードラムの母ソレイユの騎士であり、二人の剣の師匠でもあるダルの声。
『――私はルフレを連れてペレジアを出ます。ソレイユ様はダルと供に、エードラム様を守って身を隠してください』
これは、ルフレの母の声。
『しかしそれではあなたたち親子が危険に――』
これはエードラムの母、ソレイユの声。

ここまでを耳にした時点でルフレはぐいと腕を引かれて振り向いた。
いつの間にか背に負っていた荷物を降ろした、エードラムの真剣な瞳がそこにはあった。
「行こう、ルフレ」
「エド？」
「はやく！」
そう言って、エードラムはルフレの腕を無理やり引いて駆け出した。
「待ってください、エド、一体どこへ…」
ルフレの腕を引いてずんずんと進むエードラムに、困惑した声でルフレが話しかける。
「ここを出よう」
「出る？でも出口なんてどこにもありませんよ。それに、母さまたちが心配します」
神殿の裏手に流れる小川を二人は急ぎ足で遡っていた。ほどなくして水の湧き出す岩場にたどり着く。その岩の一部を探りながら、エードラムは怒ったような声で言った。
「今の話を聞いただろう？このままだと俺たちは離れ離れになってしまうんだぞ」
「確かにそうかもしれませんが…」
「ルフレは平気なのか、俺と一緒に居られなくなっても！」

声を荒げて振り向いたエードラムの背後でカチリと音がして、岩がゆっくりと開いた。
その様にぽかんと口を開くルフレの腕を掴んでエードラムは歩き出した。
「行こう、ルフレ」
どこか困ったような顔をして、ルフレはその後に続いた。



隠し通路を進んだ先は広大な地底湖になっていた。その周囲をぐるりと取り囲むように、むき出しの岩壁を削って作られた通路がらせん状に続いている。地上に向けて続く細い道を二つの小さな影が進んでいた。二人の手は固く繋がれており、もう片方の手には木製の刀が握られている。
「エド、戻りましょう。それに、この道は一体…」
黙って彼女の手を引いてずんずんと進むエードラムに、ルフレが困ったように声をかけた。
「探検するうちに見つけた…そんなことはどうでも良いだろう。戻るなんて言うな。一緒に居られなくなるんだぞ」
「でも、このまま二人でどこへ行くつもりですか」
「外へ行くんだ。それで、二人で生きていこう」
「外――」
書物の中でしか見たことのない外の世界。眩しい太陽、青い空とどこまでも続く大地――そして、虹。憧れの中だけの外の世界を見てみたくないと言えば嘘になる。
彼女の手を強引に引くエードラム、生まれてから一度も離れたことのないかけがえのない弟と離れがたいのも事実だった。

ルフレの冷静なあたまはエードラムの考えを無謀と断じていたが、この弟が理をもって諭しても聞かないことも分かっていた。
ならば一端は好きなようにさせてから、諦めさせるのが良いだろう、そう考える。
「分かりました。そう上手くいくとは思えませんが、行ってみましょうか」
諦めたようにそう言ったルフレにエードラムが嬉しそうに笑いかけた。



長い長い通路を登りきるとそこには石造りの大きな扉があった。
扉に彫られた彫刻の文様と、自らの右手の甲にうっすらと見える刻印がどこか似通っていることにルフレは気づいたが、黙っていた。
ルフレとエードラムは力を合わせて扉を開いた。
書物で目にしたような強い日差しをルフレは覚悟したが、そこはうっすらと陽の差す小さな祠の中だった。
ペレジアの王城の裏手に湧き出る小さな泉のほとりに設けられた祠であることは、この時のルフレとエードラムには知りようもない事実だ。
すぐ近くにあった小さな木の扉を開くと、今度こそ照りつける陽光が二人に降り注いだ。生まれて初めて目にする強い光に二人は目を開けていられなくなった。
うっすらと瞳を開いて、目の上に手を翳しながら木陰を選んで恐る恐る進む。

そうしてしばらく進んだ時だった。二人の頭上から声がかけられたのは。
「やはり、ここに在ったか」
耳にした途端に背筋が凍りつくような、昏い、重い声音だった。
エードラムがルフレをかばって木刀を構えた。
二人が見上げる先には漆黒の外套を纏った長身の影があった。陽光を背にしているために逆光で顔はよく見えない。
その大きな手が翳されるとエードラムの身体が飛ばされた。小さな身体が地面に放り出される。

「エドっ！」
そう叫んでエードラムに駆け寄ろうとしたルフレの右腕を大きな手が掴み上げた。
そのまま小さな身体が持ち上げられる。
「――っ、ルフレっ！」
身を起こしたエードラムが木刀を掲げて斬りかかったが、再び弾き飛ばされて地面に叩きつけられた。
「――エードラム！！？」
今度はぐったりとして動かない弟を助けようとルフレは身をよじって暴れたが右腕の拘束はゆるまない。
「っ、放して、ください！」

ルフレが見上げると、奈落の底のように昏い漆黒の瞳と目が合った。
「――名は？」
「ルフレ」
怯む心を叱咤して、目の前の男を睨み据える。
「なるほど。赤子の時にはその名に守られて聖痕が現れていなかったわけか――だが、その守りもギムレー様の力が増すにつれて薄れてきているようだな」
ルフレの右手の甲にうっすらと浮かぶ刻印に視線を注ぎながら、男――ファウダーはそう言った。
「儀式を行えばそのわずかな守りも無くなろう――」
その言葉と供にルフレの前に翳された大きな手。

幼いルフレの意識はそこで途切れた。



　　　◇◆◇



「それで、あたしのことを呼び戻したの？こんな首枷まで作って、あたしを目の前に連れて来させて、満足した？」
どこか咎めるような口調でルフレは言った。
「首枷、とは、なんのことだ？」
とぼけているようには見えない心底不思議そうな口調にルフレの瞳にとまどいが浮かんだ。
「だって、エドが作ったんでしょう？あたしの魔力を封じるために、この首枷を」
その言葉を聞いてエードラムがあからさまに眉を寄せた。不機嫌な口調で呟く。
「完璧に抑えこんでいるつもりだったが――俺が眠っている間にでも出てきているのか、忌々しい…っ…うっ」
「エド？」
急にうめき声を上げたエードラムにルフレが心配そうに声をかけた。
額を押さえ、項垂れるようにうつむいたエードラムに伸ばされたルフレの手がびくりと止まった。

不意に膨れ上がった禍々しい気配。エードラムを取り巻いて湧き上がる黒紫色のオーラがルフレには視えた。
俯いていたエードラムの顔が、ゆっくりと上がる。
ルフレの瞳が見開かれる。身の内から湧き上がる抑えようのない恐怖心に、彼女の身体は小刻みに震えていた。

「――ファウダー」

呆然とルフレは呟いた。
エードラムの姿をした、けれどエードラムではない人物の口元に邪悪な笑みが浮かぶ。

『よくぞ戻った、我が宿願の器。――それに記憶が戻ったようだな。好都合だ』

その手がルフレに向けてかざされた。
ルフレの視界が深紅に染まった。






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これで風呂敷が大体広がりました。
次回からせっせと畳んでいきます…たぶん畳んでいきます。

2012/8/11