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『ソロモンの指輪』
【09 陸りく】 雨は静かに降り続いていた。しとしとと音もなく地面を濡らす水滴が、青年の頬を伝い、涙のように滑って落ちた。黒い衣はしとどに濡れて、長い前髪も雨滴を吸って重く額に張り付いていた。 かつて彼の指を残らず飾っていた十二の指輪はうしなわれ。いまはただひとつ、左手中指を飾るそれだけが残されていた。 彼が寂とたたずむのは広大なクレーターの中心だった。 そこにはかつて噴水があった。青年の前には目抜き通りが。背後にはささやかな教会があった。石畳を行き交う馬車のたてる音が心地好く響き、通りの向こうからはパンを焼く匂いがただよっていた。 いまは、なにひとつ、ない。 大きく抉り取られた地面の底で、青年は死んだように立ち尽くしていた。 どれ程の時が過ぎただろうか。篠つく雨がようやく上がる頃、青年は緩慢にまぶたを持ち上げた。切れ長の瞳からはかつての彩は喪われ、天を覆う重い雨雲のような冷たい灰色が代わって在った。長く雨にさらされたためか青年の肌はひどく青ざめて、それが益々彼を死人のように見せていた。 色彩を欠いた唇が、意味のない音律のように言葉を綴った。 「すべては失敗に終わった。ふたたび時が充ちるまで、皆、眠りに就く。約束の日、約束の地で目覚めるときまで。私は ―― 二度と目覚めることもないが」 伏せられていた青年の視線が、静かに前方を見据えた。 「何者だ。私に、なにか用か」 「ドクター・メフィスト」 深く響く秀麗な声音とともに風が渡り、医師のケープと黒髪をかすかに乱した。メフィストが、興味深げに瞳を細めた。漆黒の衣を纏う青年が放つ凄艶な鬼気が、好ましいとでもいうかのように。 「メフィスト……ドクトル・ファウストの秘蔵っ子、か。師の使いで来たか」 ついと、青年が両の手をメフィストに向けてかざした。 その手には、左右それぞれに六本、計十二本の指があった。どちらの手にも小指の外にもうひとつ、小指に似た第六指がそなえられていた。 「ファウストが欲しがっていたのは私の指だ。死したあとこの肉をどう扱われようと、興味はない。好きにしろ」 「私は、君を治療しに来た」 「それがファウストの指示か」 「いや。単なる希望だ。それも、君が望まぬのならば為せぬことだが」 青年が、驚いたように灰色の瞳を見開いた。 それから、はじめて気がついたように濡れて張り付く前髪をかきあげ、濡れそぼり冷え切った身体をふるりと震わせた。 「名を、聞いても構わぬかね」 あえて“彼の名”を知ろうという医師に、青年は興味深げな視線を向け、 「カストル」 錆を含んだ声音がそう告げた。 ◇◆◇ メフィスト病院において、<院長室>よりも辿りつくのが困難とされる場所。人々が畏れを持って<再生室>と呼ぶ場所は白い廊下とただ一枚の扉を隔ててあった。鋲の穿たれた鉄の扉は人の手で容易には開けぬ程巨大だ。 冷酷に来訪者を拒む扉にひたりと触れる白魚のごとき繊手があった。扉に触れた指先からぱたぱたと雫が落ちる。水からはかすかに潮の香りがした。 なにかを確かめるように手は幾度か扉の合わせ目を往復し、不意にずるりと、吸い込まれるようにして扉の内へと姿を消した。 院長室を高雅な茶葉の薫りが満たしていた。革張りのソファに優雅に腰掛けた紅顔の美少年 ―― ガニュメーデスの前には茶器をはじめとしてアフタヌーンティーのセットが並べられている。 彼が監視役としてメフィスト病院を訪れた、その、一日後のことである。 うやうやしく紅茶を注ぐのは腰に宝冠を纏う妙齢の美女だった。 「ありがとう。ゴモリー」 にっこりと極上の笑みを浮かべた美少年に、ゴモリーと呼ばれた美女が慈母のごとき微笑で応える。 「ドクターも、いかがですか」 院長室の奥、黒檀のデスクに向かい書き物をつづける医師に声をかける。しかし、美しい指先が滑らかに文字をつづる動きは止まらず、一瞥すら向けられることはなかった。 ガニュメーデスがわざとらしくため息を吐く。 「冷たいなあ。そんなに僕が気に入りませんか」 やはり、応えはない。 ふと、医師の手が止まった。誰もが吸い付きたいと願うような、完璧な造形を持つ艶やかな唇が、言葉をつくりだす。 「何故、君の使う悪魔には明瞭な実体があるのだね」 唐突な問いにガニュメーデスが愛らしく小首を傾げる。揺れる、黄金の巻き毛。翠玉の瞳が煌く。 「ひとことで言えば、趣味の違いでしょうか」 考えるようにゆっくりと、語りはじめた。 「明瞭な実体を使い魔に与えることを無駄と考える者も居ますし、それだけの魔力を持たない ―― 人形も居ます。けれど僕の考えは違う。彼女たちは僕の大切な恩人であり、家族です。影のように使役するなんて考えられない」 くつりと、医師が笑みを洩らした。ひとを嘲弄するために為されたそんな笑みでさえ、見る者をあまねく魅了する。 「君のそれは単なる自慰行為だろう。愛情に飢えた者が陥る幻想に過ぎん」 ガニュメーデスの秀麗な眉が不快げに寄った。苛立たしげに開かれた唇が反論を綴ることはしかし、なかった。 メフィストが優雅に立ち上がり、ガニュメーデスの頭上を示し、 「では、大切な“家族”をお返ししよう」 と口にするのと同時に。 ぼたりと、水の塊のようなものが彼の目前に落ちてきて、アフタヌーンティーのセットを滅茶苦茶にした。 「ヴェパル！？」 水の塊は美女の肢体と魚の尾を有していた。だがそれもすぐに崩れ落ち、形を維持できぬ水塊となってガニュメーデスの影に消えた。 「実験室の空気が合わなかったようだな」 殺意すら宿した視線が医師を射る。 「病院内をあまり、我が物顔で歩き回らぬ方が良い。たとえ自己愛にまみれ邪の術に浸りきった身体であろうと、臓器だけは平等に患者の役に立つ」 一瞬だけ見開かれた翠の瞳が細められ、笑みの形をつくった。はじめは低く洩らされた笑い声は徐々に高く響き、狂ったようにガニュメーデスを包んだ。止まらぬ笑いの衝動にのけぞる美貌が時折、ひしゃげた醜い顔へと歪む。醜悪な、美しい、歪んだ、透明な笑い声はしばらく続いた。 「どんな理由であろうと、この僕を“有益”と判断してくれた人間は貴方が初めてかもしれません」 ようやく笑いをおさめて、涙の浮かぶ目じりを拭いながら言葉を継ぐ。 「“指”を、お渡し願いたい。貴方がお持ちの筈だ」 美しい緑柱石の瞳に、ぎらぎらと妖気が宿っている。 「知らんな」 感情の宿らぬ黒曜石の瞳が視線を受け止める。 「あくまでも白を切るつもりですか」 「君の“ママ”たちに聞けば良い。どこにも、そんなものはなかった筈だ」 「だからお訊ねしています。後は貴方自身が持っているとしか考えられない」 ガニュメーデスの指で蒼い宝石がきらりと光った。 「―― お答えいただけないのなら、力づくでも」 医師が、かすかに瞳を細めた。 転瞬、ふたりは黒檀の大扉の方を振り向いた。メフィストが先に、ガニュメーデスは僅かに遅れて。 その身に帯びるかすかな炎が、歩むのに合わせて静かに揺らめく。いつの間にか開かれた黒檀の大扉からあらわれたのは、ソロモンの魔道師のひとり ―― シンハだった。 物騒な気配すべてを仕舞いこんだガニュメーデスが声をかけた。 「シンハ、予定よりも手間取ったね。西新宿のおせんべい屋さんは噂どおり美人だった？」 西新宿のせんべい屋、の部分をわざと強調して言う。 シンハは右手で左腕をかばうようにきつく押さえていた。肩の“繋ぎ目”からは激しく炎が吹き上がっている。 「肩を斬られた。斬った獲物は見えなかったが、俺の炎の導火線にはなった。あの手はもう、使えまい」 眉一筋も動かさず、玲瓏たる気配を崩さぬ医師を横目に捉えながら、ガニュメーデスがひゅうと口笛を吹いた。
2013.06.09
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