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『ソロモンの指輪』
【12 しらゆき】 ｢遅い｣ 冴え冴えと月に照らされた純白のケープが、黒衣の数歩前で歩みを止めた。 不満げに薄桃色の唇を尖らせるせつらを黒瞳に映し、紅い唇が歪む。 「私は裏切り者、ではなかったのかね？」 嘲笑を刻む冷ややかな表情とは裏腹に、口調は存外と穏やかだ。 今の状況を愉しんでいるのかもしれない。 せつらはうんざりと、白いケープを纏ったメフィストを見遣った。 「裏切り者でも、節操なしの藪医者でも、お前が医者であることに変わりはないだろ」 早く治せ、とばかりにメフィストの顔前に、ずいっと右腕を突き出す。 魔界医師相手のその不遜な態度は、他の者が見たら顔面蒼白になる光景だったが、メフィストは気にする風もなく目の前の腕に手を伸ばした。 爛れた指先を恭しく手に取ると、包帯から覗く滑らかな爪を、親指の腹で愛しげに撫でる。 せつらが眉根を寄せた。 「おい、メフィ…」 文句を言いかけた唇をちらりと流し見、メフィストは包帯の上に繊指を這わせた。 黒いコートの袖口に、透き通るように白い左手が入り込み、袖を捲り上げながら、包帯の巻かれた腕を撫で上げていく。 はらりと包帯が解け、貼られていた火傷修復シートとともに、地面に落ちた。 見えない炎が皮膚の奥から吹き上がり、せつらは僅かに柳眉を顰めた。 「ほう。面白い」 焼け爛れていても、なお美しさを保つせつらの肌に直に触れ、メフィストは目を細めた。 メフィストの、長くしなやかな繊指に。 月光を吸い込んだように耀く手の甲に。 ふつふつと水膨れが生じ、白磁の肌が赤黒く変色する。 せつらの腕を覆っている不可思議な炎が、魔界医師の手をも侵蝕していく… 光も熱も発すことなく燃え続ける指先を、メフィストは興味深げに眼前に掲げた。 おもむろに、ふぅと息を吹きかける。 指先から、ぼわっと、真っ赤な火柱が天に昇った。 「熱いな」 大して熱くもなさそうに、涼しげに言う。 「うわ、気をつけろ」 舞い上がる火の粉から、のんびりと身を躱しつつ、せつらはメフィストの手を眺めた。 溜息が出るほど美しかった繊手は、燃え盛る火焔に焼かれ絶望的に黒く炭化していた。 メフィストが、真っ黒に焼け焦げた手を勢いよく振り下ろした。 黒い皮膚がばらばらと地面に散り落ちる。 瘡蓋が剥がれるように、落ちた表皮の下に現れたのは― 以前と変わらぬ、静脈の透け見えるほど白い、美しい肌だった。 せつらは僅かに目を見開き、それから表情を曇らせた。 「…僕も、それやるの？」 「必要ない」 治療の効果を確かめるように、自らの左手をひらひらと翻しながら、メフィストは冷然と切り捨てた。 「私の炎は、君から二次的に移ったものだ。だが君の腕は違う。表面を燃やしたところで、どうにもならん。今、ここでの治療は不可能だ」 「…藪」 ぼそり、と呟いたせつらに向かい、メフィストは緩やかに首を振った。 艶やかに月明りを映す黒髪から、妖美な煌きが零れる。 「治せん、とは言っていない。来院すれば、治療して差し上げるが？」 「…火傷の火元がいる所に来いって？それじゃ本当に、飛んで火にいる夏の虫、じゃないか」 せつらが柳眉を顰め、ぶつぶつとぼやいた。 ごうっと吹いた風に煽られ、右腕の炎が勢いを増したのを感じ、大きく溜息を吐く。 誰もが手を差し伸べたくなるような切なげな困り顔に、玲瓏とした声がとんでもないことを提案した。 「君が来なくても構わん。右腕だけ頂ければ結構」 「……この藪医者め」 じろりとメフィストを睨み、せつらは空を仰いだ。 夜空に浮かぶ月を、茫洋と見詰める。 …月齢は十八。 暫しの思案の後、 「左腕一本でも、せんべい焼けるかな」 溜息半分に呟いた。 ｢決まったようだな。どうする？私が切ろうか、それとも…自分で切るかね？｣ 白いケープにさらさらと黒髪を散らし、軽く小首を傾げたメフィストを睨み、せつらは盛大に舌を… 打とうとして失敗した。 ツッ…と、鳴った間抜けな音に、自ら柳眉を寄せる。 ｢少しは仕事をしろ、藪｣ せつらは、右腕を魔界医師に差し出した。 ◇◆◇ 緩やかな坂道を、純白のケープが滑るように上る。 坂の上から白い靄の塊が、自分をめがけ怒涛のごとく流れてくるのを認め、メフィストの黒瞳が一瞬、凄絶な光を宿した。 その光りはすぐに消え、瞳は黒曜石の冴えた美を取り戻した。 メフィストは躊躇うことなく、靄の滝の中へとその足を進めた。 靄の奔流は白いケープを飲み込むと、その周囲を覆うように集まる。 密度の濃い霧が、しっとりとメフィストを包む。 伸ばした腕の先も見えぬ白霧の中、霧よりも白い純白の影は迷いなく歩を進めた。 「待て」 メフィストの背後から、地を這う声がした。 声の許から轟々と吹き付ける大気を押し潰すような妖気にも、メフィストはお構いなしで足を止めず、飄々と歩き続ける。 「待て。おぬし、おかしな物を持っているな？それは…シンハの炎か」 ―シンハの炎。 その言葉に、常人には感じ取れぬほど微かにメフィストの表情が動いた。 ようやく止まった歩みに、ケープの裾がふわりと揺れる。 「ふーむ。事情は分からぬが…我らにとって危険な気配を感じる。おぬしの持っている物を儂に寄越せ」 凄みを増した声を振り向くことなく、メフィストは血を垂らしたように紅く光る唇の両端を、きゅうっと吊り上げた。 面白い、と。 この私から、魔界医師から追剥ぎをする気かと。 その貌は、そう言っていた。 ケープの内に収めた、根元から断ち切ったせつらの腕をそっと撫で、メフィストはケープを翻した。 優美な弧を描いて拡がった純白のケープに、白霧が乱れ逃げ惑う。 「人に物を乞うのなら、まず名乗りたまえ」 「儂か。儂の名は…」 「その名は、ハマル」 突如、聞こえた精悍な声とともに、上空から烈風が吹き付け、地面を叩いた。 風圧で霧が渦を巻く。 ばさり。 メフィストとハマルの間に、黒々と大きな翼が降り立つ。 メフィストは翼の持ち主に視線を投げかけた。 「知り合いかね？」 「ええ、以前に一度」 前方の霧をきつく睨み、翼の持ち主――夜香は、硬い声で答えた。 見詰める先で霧がざわめき、低く重い声が流れ出す。 「…その翼、覚えておる。おぬしはあの時の…」 声に圧されたように、霧が割れる。 中から現れたのは… 霧に溶け込むような白い髪を背に束ね、髪とは正反対の漆黒の肌を持つ、見上げるほどの大男であった。 ごつごつと関節の目立つ武骨な指に、金剛石の指輪が輝く。 男は濁った緑の目で夜香を見下ろし、いかつい顔を嘲笑に歪めた。 「やはり、香月の背に隠れていたあの時の小僧か。ふん、大きくなったものだ」 夜香の闇色の瞳が、紅く色を変えた。
2013.06.28
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