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『ソロモンの指輪』
【13 陸りく】 “朝”自室で目覚めた夜香は、彼の意識の一角――それは戸山住宅の全域に及んでいる――から吹き上げる異質な殺気を感じ取り、精悍な眉を顰めた。 「夜香さま」 部屋の外で待機していた部下を制し、 「いい。俺が行こう」 蒼く沈むマントを身につけた。 地下から外へ歩み出た夜香の後頭部に冷たい鉄の塊が押し付けられた。 まさか夜、戸山住宅で、すべての吸血鬼を束ねる総帥たる彼にこのような暴挙を働く者が居ようとは。 「再会の挨拶にしては非道いなさりようですね」 後頭部に突きつけられた巨大な銃口を気にする風もなく、夜香が微笑する。彼の背後で花々を散らした外套が夜風に揺れた。 「――――屍さん」 「協定違反の理由を言え」 「さて。心当たりがありませんが」 「管理不行き届きでいきなりぶちかましても良かったんだぞ」 「それをしなかったのは、昔のよしみですか？嬉しいな」 「誤魔化すんじゃねえ」 苛立たしげな声に被せるように、夜香の指先がドラムの銃口に触れた。 夜空に爆音が轟いた。 屍が舌打ちとともに銃口を背後へ向ける。既に眼前に夜香の姿はない。その、動きが止まった。 屍の太い首筋に、蒼く透けるような美しい手が添えられていた。だがその手は強化手術を受けたサイボーグ・マンの首ですら一秒で捻り切る握力を持つ恐るべき凶器だ。 「俺の話も聞いてくれませんか」 そっと耳元でささやく冷たい吐息に、 「事情なら署で聞く」 にべもない鉄の声音が返した。 夜香の長身が宙を舞った。夜族の長にすら予備動作を感知させずに軽がると相手を投げ飛ばす――ジルガの技だ。 ばさりと、蝙蝠羽が宙を叩いた。夜香が綺麗に着地する。互いに手が届かぬ程度の距離を空けて。 「なぜ、うちの住民だと？」 「三日前から立て続けに。頚動脈を食い破って一滴残らず血を吸い尽くされた死体ばかり、十体」 「なぜ、今日まで待っていたのですか」 最初の犠牲者が出た時点で夜香の元を訪れなかった理由を聞いているのだ。 「傷口が判断もつかんぐらいに食い破られていた。ついさっき――十一人目の犠牲者が強化措置を受けた奴で、ようやく吸血痕が残ってた。ついでに風体の証言も取れた」 「特徴は」 「真っ白の長髪、真っ黒い肌、背丈は――二メートルを越す」 うちの住民ではないですね、という夜香に屍は、だろうな、と返した。 「住民票がなかった。第一、やり口が<区民>らしくねえ」 夜香の瞳が面白そうに瞬く。その意を正確に汲み取って、屍は憮然と返した。 「カマかけるのが刑事の習性なんだよ」 「迷惑な癖ですね」 「うるせえ」 「――ハマル」 「あん？」 「奴の名です」 「……知り合いか」 「ええ。ようやくめぐり会えました」 そこで、夜香がごく自然な動作で右手を自らの耳にあてた。 「どうやら、また現れたようです」 夜香の背を翼が覆う。 「先に行かせてもらいますよ」 「おい！」 屍の呼びかけは強い羽ばたきにかき消された。 ◇◆◇ 手助けは必要かね、という医師の玲瓏たる声音に、 「――あれは、俺の敵です」 と夜香は丁重に返した。爛々と光る真紅の瞳がハマルを射る。 「何故、人を襲う。おまえは血の呪縛を逃れた筈だ、その、指輪の力で」 夜香が示したのはハマルの指を飾る金剛石の指輪――ソロモンの指輪だった。 「習い性というのは中々治らんものだ」 にい、と、ハマルが笑む。醜く吊り上った唇の両端から、犬歯にしては長く、乱杭歯にしては短い歯が覗く。 「人なぞいずれは死ぬもの――儂の餌になったとて変わりはなかろう。いや、違う、違うな。儂以外はすべて、いずれ死ぬもの」 夜香の真紅に染まる邪眼を見据え、なぶるようにハマルが言う。 「香月の血は甘かったぞ。その目、香月に良く似ておる。ぬしの血もさぞ甘かろう」 「貴様っ」 轟、と空気がうなり霧を貫いた。ハマルの胸の中心にぽかりと穴があき、周囲の霧を取り込むようにしてすぐに閉じた。 「その目、よく知ってるぜ。殺人鬼の目だ」 「屍さん……」 「容疑者確保が俺の仕事なんだよ――もしくは、処理が」 「おぬしの血も美味そうだ。後ろの美しい男も、勿論。今夜は馳走にあずかれそうだな」 にやにやと下卑た笑いを浮かべハマルが言う。見上げる程の巨躯を禍々しいオーラが取り巻いた。 「黙れ」 夜香の全身から殺気が吹き上がる。相反するふたつの鬼気がぶつかりあい、空間がびりびりと震える。 夜香とハマルの姿が霞み、数瞬後、ふたりの位置は入れ替わっていた。夜香の右肩から血が吹き上がり、ハマルの左胸に開いた穴はすぐに塞がった。 「なぜ、一族を抜けた。なぜ、母を殺した。なぜ、無意味に血を求める」 「儂はただ生きたいだけよ。誰よりも長く、いつまでも、永遠に――すべてが平らになった後の限りない荒野に立つただ一人であることを望むまで」 くつくつと、笑い声が聞こえた。それは相手を愚弄する明らかな意思を有しているにもかかわらず、とても、美しかった。 「あの景色を知らぬ者が、彼らと同じ場所に立とうというのか。愚かだな」 「ドクター……手出しは」 戸惑ったような夜香の声に、医師がゆるりと首を左右に振る。 「彼は<新宿>の敵のようだ。ならば私にも権利はある」 白い医師の静かな宣言に、ハマルの巨体から放たれる邪気がわずかに揺らぎ、しかしすぐに何層倍にも膨れ上がった。 「別々に相手をするのも面倒。一度にかかってくれば良い。儂に勝てる公算があるなら、な」 高らかな宣言と共にハマルの漆黒の肌が白くけぶり、圧倒的な巨躯が放つ存在感は彼らを取り巻く霧すべてに拡散した。
2013.07.06
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