|
『ソロモンの指輪』
【14 伯流詠】 「気をつけてください。何処から来るか分かりません」 「言われるまでもねえ」 背中合わせに立ち、油断なく戦闘態勢を取る夜香と屍、少し離れて悠然と、真っ白な霧の中で尚白く佇む<魔界医師>。 ぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああん！！ 殺気の張り詰めた濃霧の中唐突に、ファンファーレのような音色が鳴り響いた。 「――…！」 同時に、霧が屍の間近に凝集し、獅子の頭を持つ大男と化して喰らいつく。 半瞬遅れて“ドラム”の轟音。迸った火線と大砲のような弾丸の破壊力に獅子頭は文字通りに霧散するも、散り切らなかった牙の一部が屍の左腕を掠め、鮮血が飛沫を上げた。 「ソロモンの魔神プルソン――…獅子の頭を持つ巨漢。ファンファーレと共に現れ、その加護を得た者は自在に姿を変える。生き物ばかりか、霧にすら。どうやらハマルとやら、プルソンの加護を受けているらしい」 天上の美声が詩を詠じるように言葉を奏でた直後、再び鳴り響いた金管の音色と共に獅子の顎が医師を襲う。 白光一閃。 神速で抜き放たれたメフィストのメスが十文字に霧を裂く。でたらめに思い切り、トランペットを吹き鳴らしたような轟音――悲鳴？ 「やったか？」 吸血鬼の持つエネルギーとは対極の、膨大な生命力そのものの力を宿した<魔界医師>の手術刀である。 かの大吸血鬼、ガラマード・ブリューベックにすら痛打を与えたその一撃を受けて、ただで済むわけはない、はずだ。 だが、“凍らせ屋”の快哉は疑問符つきであった。刑事の本能が、“まだだ”と告げている。 それに応じるように、高らかな笑い声。霧の中に再び色黒の巨漢の姿が現れた。 「効かぬ、効かぬぞ。そこの美しい男は魔術に通じておるようだが、所詮その程度よ。教えてやろう、儂はプルソンのみならず、ポイニクスの不死の力をも宿しておる」 「ポイニクス――…不死鳥フェニックス、か。少し厄介だな」 ぽつりとメフィストが呟いた。 こちらの攻撃は効かず、相手はどこからでも攻撃を仕掛けられる。相手の体内に呑まれているも同然の状況。 そして美しき医師のメスの一閃すら効かぬ相手に、<魔界医師>よ、“凍らせ屋”よ、そして蒼き吸血鬼の貴公子よ、一体どう立ち向かう？ 「ふふ……ふふふふっ」 そこに低い笑いを零したのは、沈黙を保っていた夜香であった。 「何が可笑しい？虚勢も程々にしておくがいい」 優美な貴公子が零したそれは、嘲笑であった。ハマルの声に凶暴な響きが宿るが、夜香は怜悧な美貌に刻んだ笑みを深め、白い牙を覗かせた。 「俺はずっと貴様を殺す……いや、滅ぼす方法を考えてきた。こうして再び相対して分かる、それがとても容易いということが。ドクター、屍さん、ご安心下さい。こいつは、ただの虚仮嚇しの雑魚にすぎません」 自分を“俺”と呼んだ夜香は、屍の見たことがない、母の復讐に逸る稚気を纏っていた。 だが、仲間を振り向き、左の指先で負傷した肩を拭って己が血に染まった指をべろりと舐め取る夜香の艶美は蒼き夜の支配者と呼ぶに相応しい気品と気魄に満ちていた。 夜香――まさに、夜に香る蒼き妖花のごとし。 「抜かせ小僧！」 ハマルの巨体が再び霧に拡散する。 「夜香、やれるのか？」 「はい。今の私には容易いことです。屍さん……」 「――…そうか、分かった」 屍に身を寄せ、何事か耳打ちする夜香。頷き、屍はその口許にまだ出血の止まり切らぬ左腕を差し出す。 恭しく傷口にくちづけ赤い舌を這わせた貴公子の瞳に灯った、紅い妖光。 ぱぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん！ 霧が蠢き、無数の獅子の顔が金管楽器の咆哮を上げて喰らいつく。 轟、と風が逆巻いた。 夜香の蒼い翼が生んだ烈風が、霧獅子の群れを吹き散らし金管の音色を歪ませ、ミルクを落とした紅茶を掻き混ぜるように目まぐるしく霧と夜闇が混ざり合う。 ――どうした、こんなそよ風で儂を滅ぼすというのか？ くぐもってはいたが、何ら痛痒を感じさせぬハマルの声が響くも、夜香は羽搏きを止めぬ。風を操り、凝集して牙を剥こうとするハマルの攻撃を許さない。 「霧というのは、本質的には雲と変わりません。両者共に微細な水粒と氷粒が空中を浮遊している状態です」 静かな、夜の声。 トランペットの音色は歪み、ひしゃげてごろごろと割れ鐘のよう。 「気流によって攪拌され、激しくそれらがぶつかり合うことにより、静電気が生じる」 ごごごごごごご……ごろごろごろごろ……… 「そして高まった静電気は、一気に放電を起こす」 つまり――… 「雷です」 ぴしゃぁぁあああああん！ 霧と夜闇を劈き荒れ狂う稲妻は当然、三人にも向かうが、その周囲で鳥籠のような形に分かれて空しく地に落ちる。 避雷針の役目を果たしたのは、ドクター・メフィストの針金細工だ。 「化合物に電圧を掛けると、強制的に酸化還元反応を引き起こすことができる。つまり、電気分解だ」 ぐおぉぉおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお…… 轟く雷鳴の中、メフィストの金鈴の美声は不思議とよく通った。 空気の灼ける匂い――としか表現できぬ、奇怪な臭い。空気が分解され、オゾンが生じた証である。 「霧、つまり水は電解され、水素と酸素を生じます」 おぉぉおおおおおおおおおおお……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお………… 次いで、夜香。時ならぬ嵐の支配者であるかのように、ハマルの悲鳴の如き雷鳴を伴奏曲に妖々と虚空に舞う。 「そこに高温が加われば、水素と酸素が急激に反応を起こして、水に戻る。水素爆発、ってやつだな」 結んだのは、屍刑四郎。その指がジャケットについた桔梗の花を毟り、投じた。 ――凄まじいまでの爆発と、それより更に大きい爆発。屍の視界を塗り潰す閃光と続く爆風を、宵闇の蒼が遮った。 「お……おのれ……おのれえぇぇぇぇええええええええええええ！」 渦巻く熱風が収まった後には、霧の形態を保ち続けられず人の形に戻ったハマルの姿。体そのものを爆発させて未だ息があること自体が驚異であるが、その胴体は半ば以上が失われ、右腕は肩から無い。内臓すら吹き飛ばされ、中身を失った人体模型のようにうつろな腹腔と、肋骨の下に脈打つ心臓さえ丸見えになっている。 「まだだ……まだ、ポイニクスの力をもってすればこれしき……」 怨嗟の声を上げるハマルの、凄惨極まりない肉体がぞわぞわと蠢く。並の吸血鬼ならば滅びておかしくない損傷も、不死鳥の力を持ってすれば治癒できるというのか。残った左手に煌く金剛石の指輪が、輝きを増す。 しかし。 「いいえ、これでチェックメイトです」 優しい、とすら言える柔らかな声であった。 一気に間合いを詰めた夜香は、淑女の手を取りダンスに誘うように優雅にハマルの手を取り、あっさりとその指ごと指輪を千切り取ったのである。 ソロモンの魔神の加護を失い、ぴたりと体の再生が止まる。 声にならぬ苦鳴を上げるハマルの胸郭から未だ鼓動を続ける心臓を掴み出した夜香は、持ち主の血走った眼の前にそれを掲げ、ゆっくりと握り潰した。 「これで――…」 灰と化し、崩れ落ちるハマルだったものに背を向け、夜香が屍とメフィストを振り向いたその瞬間、ひとつの影が奔った。 「なにっ！？」 闇から飛び出したコウノトリは、その赤い嘴に夜香が奪ったハマルの指輪を銜え、吸血鬼の反応速度ですら間に合わぬ間に、再び闇へと姿を眩ましたのであった。
2013.07.10
|