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『ソロモンの指輪』
【16 陸りく】 風のない、穏やかな夜だった。空に浮かぶのは居待ちの月――満月には及ぶべくもない十八夜の月が、それでも玲瓏たる光を振り撒きながら天上に君臨していた。 月明かりに煌くのは黄金の巻き毛。きらきらと光るエメラルドの瞳が微笑むように細められる。 ガニュメーデスが繊細な指先を一振りすると、華奢な少年の身体は宙に浮いた。ふわりと金糸の髪が舞い、ブラウスのフリルが揺れた。 「正直、荒っぽいのは得意じゃないんだけど。ザ・パンサーのお相手ができるせっかくの栄誉ですからね。力は尽くしましょう」 「……パンサーじゃなくてバンサーなんだが。まあ、いい。依頼は果たすぜ」 「いつでもどうぞ」 にこりと微笑みを浮かべてガニュメーデスは優雅に一礼しようとしたが、それは叶わなかった。 辺りを突風が吹き荒れた、としか見えなかった。しかし周囲の木立はそよとも動いてはおらず、この通り、この場所だけを通り抜けた嵐であると知れた。 黒衣のコートの右袖がふわりと揺れた。 「――甘いな」 ぽつり呟いた視線の先に豹馬とガニュメーデスの姿があった。 ダブルのスーツを着こなした大柄な男の身体が、少年の華奢な身体に馬乗りになって地面に縫い付けている。右手を細い首にかけたまま、豹馬は淡々と言った。 「子供を殺るのは趣味じゃねえ。依頼はせつらの護衛だからな。手を引くなら、見逃すぜ」 「それは、どうも。噂どおり紳士なんですね」 「あ、指輪は置いてってくれるかな」 豹馬の背後から小春日和の声が言う。 「それはできかねます」 「だとよ。諦めな、せつら。ガキ相手に物盗りなんぞ男として情けねえぞ」 「依頼人の希望が聞けないのか」 「雇い主はお前じゃないだろうが」 「ケチ」 「うるせえ。大人しく守られてろ！」 「なんだか緊張感のない人たちだなぁ」 ガニュメーデスの指に嵌められた青玉が微かに煌いた。 「うぉっ！？」 豹馬の叫び声はくぐもって聞こえた。 「磯くさい」 のんびりとせつらが呟く。 ぽかりと中空にあらわれた水塊が豹馬の上半身を包んでいた。辺りに潮の香りが充満する。 逞しい両腕がもがく度に海水は絡みつくようだった。少しずつ水をかく動作が緩慢になる。豹馬の口から大きく気泡が吐き出された。 ゆるんだ拘束を逃れたガニュメーデスの身体がふたたび宙に浮く。 「パンサーも大したことないなぁ。これで終わりですか」 愛らしく小首を傾げ、そう言った。 焦点も曖昧に見開かれた豹馬の瞳に、不意に鋭い光が宿った。力を取り戻した拳から鋭いパンチが繰り出される――左フック。 確かな手ごたえと共に豹馬を取り巻く海水がゆらぎ、どう、とアスファルトに倒れたのは豊かな髪を持つ美女だった。豊満な曲線を描く肢体の腰から下にあるべき下肢はなく、輝く鱗に覆われた魚の尾がそこにはあった。 ごほごほと幾度か咳き込むと、乱暴に口許をぬぐい豹馬は背後を振り向いた。相変わらず茫洋と佇むせつらを睨みつける。 「お前は加減てものを知らんのか」 水中で気を失いかけた時に受けた激痛のことを言っているのだった。 「気付け代わりに」 「効きすぎだ阿呆！普通なら気が狂うところだぞ」 「さすがパンサー。神経が太い」 「馬鹿にしてるだろう。おい」 せつらと豹馬は同時に左右へ飛んだ。直後に鋭いなにかの一閃がアスファルトを容易く裂いた。 「本当にやる気があるの？」 愛らしい少年の顔は怒りに歪み、翠の瞳から憎悪にも似た妖気が吹き上がる。逆巻く金髪がゆらりとけぶった。全身に水の皮膜を漂わせる少年魔道師が右手を一振りすると、透明な鞭があらわれた。先ほどアスファルトを両断した、水を凝らせて作った自在に伸びる鞭だ。 ガニュメーデスが無造作に鞭をふるうと空間が唸りをあげ、電柱が二本ぱくりと折れた。恐るべき鋭利な凶器からせつらは宙に浮くことで逃れ、豹馬は紙一重で鞭の先端の届かぬ位置へと退いた。 精悍な長身が揺らいだ。胸元を押さえる手のひらの隙間から、ぱたぱたと鮮血が落ちた。 「僕の鞭は空間をも裂きます。変幻自在の軌道を読むことは不可能。素早く動けるぐらいでは避けられませんよ」 言葉とともに鞭がしなる。容赦のない薙ぎ払い。無駄のないステップで鞭の軌道を避ける豹馬の全身を絡め取るように鞭が疾る。右肩、左腕、脇腹と順にスーツが裂け朱が散る。 「逃げ場がなくなりましたね」 ガニュメーデスの指摘通り、豹馬の周囲はうねる鞭に囲まれて、一歩すら踏み出せぬ状態だった。 バーテンダー姿のしなやかな体躯を切り裂こうと、鞭の檻が狭まる。 右ストレートは空を切り、拳に裂傷が刻まれた。 何故か、鞭が動きを止めた。 「店の小火騒ぎの時に使った“消火剤”の余りが役に立ったみたいだな」 直径５センチにも満たない簡易消化カプセルは炎へと投じることで瞬時に周囲の熱を奪いその役を果たす。 ぱきぱきと音を立てながら水が氷へと変じていく。氷の彫像と化して動きを封じられた鞭は新たに繰り出された拳の一撃であっさりと崩れ落ちた。 豹馬の背後からやる気のない拍手が聞こえた。 「ちったあ加勢しやがれ」 前方への構えは解かぬまま、半ば諦めの口調が言う。 「偶には守られてみるのも悪くない」 「ぞっとしないんじゃなかったのか」 「給料泥棒」 「根に持つ男は嫌われるぞ」 「うしろ」 「あん？」 疑問符は苦鳴へと転じた。 背後から忍び寄った新たな鞭が、豹馬の全身に絡みつき絞り上げた。 「いつ武器がひとつきりだと言いましたか？」 笑い混じりの幼い声。 「いい加減、甘く見過ぎなんだよ。おじさん」 「ぐぁ……っ」 ガニュメーデスが鞭を引き絞ると、鈍い、骨の砕ける音が夜闇に響いた。 軽く左手が振られる。 「さて。ハマルの指輪、返していただきましょうか」 新たに作り出された鞭が、せつらに向けて鋭く伸びた。 「――え？」 呆然と声を洩らしたのはガニュメーデスだった。ぎこちなく首が動いてせつらを見つめ、鞭を握るべき両の手は糸に引かれるように持ち上がった。 「……遅すぎるぜ」 息遣いも荒く、豹馬が抗議する。 「おかげで大体、分かった。隙もつけた」 のんびりとした口調とともに、せつらが左手人差し指を軽く引いた。 ガニュメーデスの意志に反して左手は大きくひらかれ、その中指から青玉を宿した指輪が抜け落ち宙を舞った。 「弱点の一。その指輪、身につけていないと力が発揮できない仕組みのようだ」 ふたつめ、と、茫とした美しい声が告げる。 「戦いの最中、常に庇っている箇所がある。その首、なにがあるのかな？」 長くしなやかな指先が弾かれて。襟の高いブラウスの前がはだけ、あらわになった細い首には無残な繋ぎ目があった。 「嫌だっ、見るな――ぁ、くぅっ」 少年の華奢な指先が首の繋ぎ目を掻くようにもがく。声を失った喉から細く、空気の漏れる音がした。 「仲間の居場所、吐くならゆるめてあげるけど」 ガニュメーデスの苦痛に歪んだ顔が微笑へと転じた。ぱくぱくと、声もなく唇が言葉を綴る。 妖糸を伝わる声なき声に、せつらが柳眉を思い切りひそめた。 ぱくぱく。更に、二言三言―― 「おい！」 慌てたような豹馬の声に、 「あ。しまった」 ぽつり、洩らされた声が重なって。 美しき少年魔道師の首が、落ちた。 「片手だけだと調子が狂う」 釈然としない表情で左手をぐーぱーしつつ、 「――藪医者が」 不機嫌そうに呟いた。 「なにも殺すことはないだろう」 「手が滑った」 「……カスト？……指輪？なんて言ってた」 どうやらガニュメーデスの唇の動きを読んだらしい。 「さあ。何か言ってたのか。気づかなかった」 白々しく呟きながら上を見た。 ゆらゆらと水底のように青い光が辺りを満たしつつあった。 宙に浮く指輪の青玉から輝きが溢れ出し、無残に首を断たれたガニュメーデスの身体は崩れ落ちる寸前に何者かに抱きとめられた。 『これは元より我が繋ぎ合わせた首なれば、幾度でも元に返せようほどに』 美しく響く女性の声、艶やかな黒髪が豊かに流れ、鮮血を落としたような唇が嫣然と笑む。この世のものとは思えぬ妖しい美貌の下にあるのは逞しい男性の肉体――イシュタル、アフロディテ、美と豊穣と戦とを司る女神として君臨しながら地獄に堕とされたソロモン七十二柱の、一柱。アスタロトの姿がそこにはあった。 憂いを含んだ眼差しがせつらに注がれる。 『この子の首を断ったはそなたか。……なんと美しきヒトであることよ。恐るべきヒトであることよ。我が唯一の王にも比肩し得るほどに』 朗々と紡がれる美声は空気を震わせず直接脳髄に響いた。 『その器、その存在。ただ壊すには惜しすぎるのう』 くつくつと笑み零れながら、指先が唇のラインをなぞる。滑らかな動作で指先は右へと流れ、いつの間にか握られていた大剣が全く重さを感じさせぬ動きで横薙ぎに払われた。 『その武器、懐かしいぞ――遠い過去にバビロニアでも見た』 巨大な長剣を振るう様は美しい剣舞を見るようだ。刃の滑る端々にきらきらと月光を弾く何かが弾かれ落ちる。 数瞬、美しきマン・サーチャーと地獄の大公の視線が交差した。 『先決は、我が愛し子を癒すこと――』 愛しげに、ガニュメーデスの首と胴を抱いて。アスタロトの姿は闇に溶けた。 「…………なんだい、ありゃあ」 流れ落ちる冷や汗を拭いながら豹馬が言う。 せつらは未だ中空を見据えたまま、片手じゃ分が悪いな、と一人ごちた。 ――ィン…… 静寂の戻った路地に、共鳴音が殊更高く響いた。 高まる共振の音に引かれるように、せつらはコートのポケットから紫檀の箱を取り出した。妖糸をつかい繊細な彫刻の施された蓋を開くと、金属の擦れるような音を放ち続ける指輪が一つ目に止まった。せつらの手にある金剛石の嵌めこまれた指輪と全く同じ形状の指輪だ。 オリジナルをレプリカに近づけると共鳴音は高まり、離すと小さくなる。 はて、とせつらは一度首を傾げ。何かを思いなおしたように再び指輪同士を近づけた。 ◇◆◇ 戸山住宅の若き長がその敵を屠った場所をおろおろと一人きりで彷徨う影があった。 「この辺りで気配が途切れておりますわ……」 柔らかな曲線を描く肢体を包むのは白の上衣に紺の袴。背に負われているのは弓筒と弓か。 幾度も辺りを見回すたび短くととのえられた赤銅色の髪が揺れ、月光を弾いて瞳が金に輝いた。 瞳が、目一杯開かれた。 「ハマル様っ。なんということ！」 無残に散った灰の山を前に慄きながら声をあげる。 「ああ、ああ、疾くお手当てを」 肉感的な唇が滔々と呪文を紡ぎ中空に印を切っていく。僅かずつではあったが散り散りになった灰が集いはじめ、灰の白は白髪へと変じ浅黒い肌の男の首までが再生された。 「ハマル様っ」 泣き出さんばかりの女の歓声に、 「ご苦労。パビル・サグよ」 太い声音が鷹揚に返した。 「く、くくく」 「……ハマル様？」 怯えを含んだ女の声。 「香月の息子よ、魔界医師よ、すぐに血祭りにあげてくれよう」 濁った緑の瞳は溢れる生命力を宿しぎらぎらと嫌らしく光る。 「はい！偉大なるハマル様の手にかかれば魔界都市ごときの住人どもなどすぐに――ハマル、さま？」 パビル・サグと呼ばれた女が不審げに声をあげた。 腰までが実体を取り戻していたハマルの再生が停まり、心臓の位置に穴が開いた。夜よりも暗いその穴に向けて、ハマルの周囲を漂っていた灰がまず、吸い込まれた。 自然法則を無視した流入はそれだけでは停まらず、拳大だった穴は周囲を取り込みながら拡大してゆく。 「ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」 断末魔の叫びすらも吸い込まれて。 「ハマル様ぁ！！」 幾度も滅びと再生を繰り返してきたアンデッドの男は、今度こそ、一粒も残さず消え去った。 ◇◆◇ 高く響き続ける共振の音色を無視し、せつらが指輪をレプリカに触れさせると、接触箇所から溶け合うようにしてオリジナルとレプリカは一つに溶けて。あれほど高らかに鳴り響いていた共鳴音も綺麗に止んだ。 紫檀の箱の中には代わらず十一の指輪――しかし金剛石の指輪だけはレプリカには在り得ぬ妖異な気配を纏っていた。
2013.08.03
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